08
新緑が一斉に芽吹きだした山中では、於仁丸が草摘みに精を出していた。
山菜や薬草の類である。この頃の山野はそういったものの宝庫であった。たらの芽やうどを摘み、ゼンマイも刈った。薬草はもとよりこうしたものも町中へ持っていけば売れる。小柄で女顔の於仁丸は偵察も兼ね、たまさかに娘のなりで町へ出ては山野のものを売り歩くこともあった。
日当たりの良い場所では雑草が花をつけていた。
田菜やカタバミ、蛇苺──どんなものでも役に立つんやで……そういいながら、取るに足りないそんな小さな草花をも愛おしそうに摘んでいた篝の姿が蘇る。
於仁丸の頬が我知らず緩んだ。
懐には篝の髑髏がある。誰にも見咎められないひとりの時や危険のなさそうな場所では、於仁丸はいつも篝と一緒だった。
傍らの草に手を伸ばす。
それは違うで……よう見てみ
耳元で愛しい声がそう囁いたのを聞いた気がして、於仁丸の心は恋しさと切なさで一杯になった。
「それくらいわしにもわかるて。これは烏頭やろ? 食うたりはせんから安心せえ」
声に出して応えると、まるでそこに篝がいるかのようだ。
於仁丸は芹と大芹を間違えたこともあるからなあ
笑い声さえ聞こえる気がする。
「ちっとは信用せえ。篝に教わったことは忘れてへんから──」
山中他に誰もいないのをいいことに、於仁丸はひとり篝と語り続けた。空は明るく空気も澄み、話す毎に気持ちもどんどん浮き立って来る。篝と手を繋ぎ軽口で笑いあっては飽きることのなかった、あの頃のように──。
ふと冷たいものを感じて於仁丸は頬を拭った。
涙──。
「…………」
於仁丸は笑いを漏らした。先刻までの幸福感に満ちた笑みではなく、そこには哀惜が滲んでいた。
思い切るように再び声を上げる。
「心配すんな……! わしは平気や、おまえが一緒におるのに何の寂しいことがあるか」
於仁丸は山菜を求めて再び歩き出したが、人の気配にあわてて木陰に身を伏せた。
それは於仁丸同様、山菜を採りに来たらしい二人連れの百姓であった。どうやら篝との会話に夢中になっていて、思いのほか村里に近づいていたことに気づかなかったようである。
切れ切れに聞こえてきた二人の会話によると、村の鎮守の春祭が近いらしい。
猿楽の一座も訪れると聞き、ふたりが行き過ぎた後、於仁丸は再び篝に話しかけた。
「見に行くか……? おまえはろくに村から出たこともなかったから、舞も祭りで賑やかしゅうしとるのも見たことがないやろ」
そう言った於仁丸の表情は、先の優しく明るいものであった。
春祭のその日、於仁丸は丸い包みを抱き、境内に設けられた舞台が見下ろせる楠の樹上にいた。
新緑は美しく、濃いめの樹肌が渋染めの上下に身を包んだ於仁丸の姿を隠したが、於仁丸からは舞台はよく見えた。賑々しく行き交う人々の表情も明るい。祭りの開放感と高揚感に、於仁丸の心も軽かった。
しかしそれも、人々の中の見覚えのある侍に気づくまでのことであった。
その侍のつぶれた片目、肩を上下する歩き方を見誤るはずもない。
「…………」
先刻までの穏やかで明るい表情がみるみるうちに険しく苦しげに歪む。包みに添えた手が震え出したのを、於仁丸はもう一方の手で押さえ込んだ。
それは於仁丸が取り憑かれた「病」だった。篝の無残な死体を見たあの日、我を失い村衆によって牢に放り込まれた。正気に戻ってしばらくは指の痺れに悩まされたが、その後篝のことでどうにかすると手が震えるようになってしまったのだ。仇を追い修羅を生きんとする身に、突然起こる手指の失調は死活に関わる問題であった。
ゆっくりと息を吐きながら、呪を唱え心を静める。手の震えは篝の死を償うべき血を欲する、飢えた心の表れでもあった。
於仁丸はもう、舞台など見てはいなかった。
ただ幸隆を見つめていた。幸隆の血で篝の無念を購う──心にただ、その一念のみを抱いて──。
夕刻になり、薄の原を並足で駆ける二騎があった。
祭帰りの幸隆と、同行の生田真信である。この外出は屈託を抱えた幸隆の気晴らしにと、真信が誘ったものだった。幸隆は知らなかったが件の社はこの一帯の総鎮守で、春の例祭は毎年人々が多く集まり賑々しく執り行われていたのである。
「あの猿楽舞、名は聞いたこともないような座でしたが、舞はなかなかのものでございましたなあ」
真信が明るい声で言った。元々真信は歌舞音曲など風雅を好む性質であり、それが兼嗣に愛された理由のひとつでもあった。
「兼嗣様も毎年楽しみにしておられた……今年の舞をご覧になったら、さぞやお喜びであったでしょうに」
そう続けたが答えはなく、怪訝に思い視線を移した真信が見たのはひどく張りつめた主の表情であった。
「生田。気づいておるか……」
前を見たまま、幸隆が低く言った。
「は──?」
「鯉口を切っておけ」
「……は」
真信の表情も引き締まった。
手綱を取ったまま、左手指の腹でゆっくりと鍔を押し切る。
右手を秘かに柄に添え、騎乗のふたりは並足を崩さずその場を行き過ぎた。