07
幸隆の大伯父にして義父であり、恩人でもあった佐々兼嗣が不帰の客となったのは、年も改まった正月節立春の頃である。
春とは名ばかりでこの頃は寒さも極まり、この日は朝から雪が降っていた。日も暮れた後、物音に気づいて外に出た戌郎が見たのは、持仏堂の前に倒れている兼嗣の姿であった。雪の上で、兼嗣は鼾をかいていた。
虫が知らせたか真信が姿を現した。色を失い兼嗣を揺り起こそうとするのを戌郎は厳しく制した。戌郎の手が何度も母屋を指し示すのを見て真信もようやく思い至ったらしく、
「わ、わかった」
と上ずった声で言うと、転げるように駆けだした。
ほどなく幸隆と鴇姫、そして戸板を持った使用人が駈けて来た。
「眠っておられるのか……?」
兼嗣の枕元で鴇姫が小さく言った。
「明日にはまた、お目覚めなさるか……?」
「さあ……また目覚められることがありますかどうか」
薬師が静かに答えた。
昏々と眠る兼嗣の傍らには、鴇姫と薬師、そして幸隆と真信の姿があった。
「お義父上……」
鴇姫がそっと兼嗣の手を取った。潤んだ目から涙がひとすじこぼれ落ちる。
それがこの老人と家族との、今生の別れであった。
佐々兼嗣の遺体を荼毘に付したその夜、幸隆は真信を居室に呼んだ。
真信は幸隆よりはふたつみっつ年下だろうか。幼名を朔弥といい、元は佐々家に縁の寺に、口減らしに預けられた喝喰であった。
兼嗣は朔弥の涼しい見目と聡く実直な性分に目をかけ、後にこれを引き取った。
過ぐる年、兼嗣は妻を送っていた。朔弥は他に身内もなかったこの人の、良い慰めとなったようである。朔弥、すなわち生田真信も兼嗣に応えてかいがいしくこの人に尽くした。
幸隆は義父は実は真信を養子とし、佐々家を継がせるつもりだったのではないか、と思っていた。だがこのふたりが何かを幸隆に語ったり、素振りに見せたりすることはついになかった。
「これまで義父上によう尽くしてくれた。礼を言う」
頭を下げた幸隆に、真信はうろたえた様子で応えた。
「そんな──私こそ、兼嗣様には言葉に尽くせぬご恩を受けました……」
それだけ言うと言葉を失ったようにしばらく俯いていたが、手をつき、
「そのご恩に報いるためにも、真信は命賭けて幸隆様にお仕えしとう存じます」
とはっきりと言った。
「生田……」
「必ず幸隆様のお役に立ってご覧に入れます。どうぞこのまま、お側に置いてくだされ──」
「そなたも知っておる通り、当家は今いささか剣呑な状況や。そう言うてくれると心強い──生田」
幸隆は表情を和らげた。
「よろしゅう頼む」
「は……!」
真信は手をつき俯いたまま短く答えると、一層頭を垂れた。
兼嗣の忌が明けた麗らかなある日のこと、島田一正が佐々屋敷を訪ねて来た。
このひとは天津の先代に仕えた旧臣であり亡き兼嗣の知友であり、また幸隆を気遣う数少ないひとりである。
一正は兼嗣の位牌に手を合わせた後、新たに安堵された土地に屋敷を構えたのでそこへ移ることにした、と幸隆に告げた。
「新たな土地とは国境のことですか。それはまた何ゆえでございます……」
茶を勧めながらいぶかしげに問うた幸隆に、一正は笑って答えた。
「わしももう年や。そろそろ隠居をと思いましてな」
「……隠居にはふさわしゅうない場所柄とお見受けしまするが」
「そうそれよ、何かと難しい土地ゆえな。わしのような者でもおれば、少しは重しになるやも知れんという訳でござるよ──それに」
と、一正は続けた。笑顔はそのままだが、声に真摯さが募る。
「鄙におればこそ役に立つこともありましょう。幸隆殿、何かあらば必ずわしを訪ねてまいられよ」
「……一正殿……」
言い止し、幸隆は顔を伏せた。
「ご厚情、かたじけのう存じます……」
「頭を上げられよ、幸隆殿。わしは兼嗣殿の分も、必ずあなたさまのお力になりましょうぞ」
一正の声は温かく力強かった。だが幸隆は伏せた顔を上げることが出来なかった。
その夜。
屋敷から抜け出ようとするひとつの影があった。
影が音もなく跳梁し、門を飛び越え消え去ろうとしたその時、闇の中を鈍い光が走った。
「……っ!」
かすかな気配に身を避けようとしたが僅かに間に合わなかったらしい。腰の辺りに熱感と衝撃があり、影は思わずよろめいた。
すかさず体勢を立て直し、得物を構えて辺りを見回す。しかし周囲は枯れた薄が茂るばかりで、弥生も半ばのこの夜半、ようやく姿を現した月の光に透かし見てもその目は何者をも捉えることは出来なかった。
「…………」
姿はなくとも気配は色濃く周囲に漂っている。影は奥歯を噛み締め眉根を寄せた。先刻の熱感はとっくに痛みに変わっている。触れてみずとも刃物による傷を受けたことはわかっていた。
ざざ、と枯草の中を這うように、影に向かって気配が動いた。影は再び駆けだした。
姿なき追っ手から逃れようとして結局逃れ得なかったのか、それとも我知らず術に嵌って追い込まれたのか、気づけば影は集落の外れにかかる橋の袂にいた。腰の傷は致命傷ではなかったが、体力と気力を殺ぐには十分であり、影の動きに当初見られた機敏さはもうない。
川に飛び込み逃れるか──いささか血の上った頭で影がそう考えた時、茂みが揺れ追っ手が姿を現した。
「────」
影は呆然と追っ手を見た。それは苦無を銜えた一匹の赤犬であった。
大きさは柴と紀州の間くらい、額に白い星がある。影はこの犬に見覚えがあった。佐々屋敷の番犬だ。影は天津幸政の間者であった。初めのうちこそこの犬を警戒していたが、これは一向に侵入者に気づく様子もなく、影は内心「うすのろ」と呼んですっかり軽んじていたのである。
一瞬の驚愕から我に返った影の心に憤然と沸き起こったのは怒りであった。
「ふざけおって、この──」
振り上げた手の中の手裏剣は、しかしついに放たれることはなかった。いつの間にか影の背後にあったもう一つの影が、手裏剣の主の首を捩じ折ったのだ。影は呻き声すら立てずその場にくずおれた。
もうひとつの影もまたひとことも発せず、手早く死体をあらためると得物は抜き取り、着物を剥いでそれぞれを川へと流した。春先ではあったがこの辺りでは水量は十分にあった。明日の朝、死体は発見されるかも知れない。それでもそれは、ここからは三、四里は離れた場所となるはずである。
それから影は入念に辺りに滴った血を払い去り、姿を消した。
「戌郎か」
障子の桟を打つ音に幸隆は顔を上げた。立ち上がり、障子を開く。そこに控えていたのは果たして戌郎であった。
幸隆は腰を下ろすと低く訊ねた。
「鼠は始末したか」
顔を伏せたまま戌郎が頷く。
「ご苦労やった……。あれには一正殿のお言葉を聞かれたゆえ、見逃す訳にはいかぬでな」
戌郎は顔を上げず一礼するとその場を辞した。
入れ替わりにやって来たのは鴇姫である。
「今のは戌郎ではありませぬか? ……このような時分に何かありましたのか」
不安げな鴇姫に幸隆はなんでもない、と笑顔で言った。
「頼み事があったゆえ、来て貰うただけや」
「そうですか」
鴇姫も笑顔になる。
「幸隆様が戌郎をようかわいがってくださって、鴇もうれしゅうございます」
「…………」
姫の無垢な笑顔に、自分でも驚くほどに幸隆の心が痛んだ。
この幸隆に命じられ、今夜戌郎が人を殺してきたとは鴇姫は夢にも思っていまい。
鴇とはそういう女なのだ……状況は理解していても、それがどういうことなのか本当にはわかっていない。
だが幸隆は、鴇姫のそんなおっとりとした育ちの良い鈍感さを愛していた。
人の悪意や醜いものになど気づいて欲しくない。ましてや鴇姫の心がそういったものに染まるなど、思うことすら厭わしい。
その思いは戌郎も同様のはずであった。
戌郎が幸隆のために働くのは、結局は鴇姫を守らんがためだということはよくわかっていた。
そして鴇姫も……
正直なところ幸隆にとって戌郎は頼りになるとはいえただの使用人でしかなかったが、鴇姫にとってはそうではないことには、最初に雨宮館を訪ねた時から気づいていた。姫がかの下人に対し兄妹にも似た情を抱いていることを、幸隆は初めから知っていたのである。しかし戌郎は、そもそも幸隆や真信では適わぬ薄暗い仕事をしてのけんがための男であった。
鴇には悪いが戌郎には働いてもらわねばならん……
鴇姫に笑いかけながら幸隆は心の内でごちた。