06
村長の手紙を読み終えても、幸隆は口を開かなかった。戌郎は辛抱強く待った。
冬の朝は遅い。外はまだ暗かった。
昨日幸隆は参拝の供からは外されていた。出仕無用といわれ、兼嗣と共に所領の見分に出かけた幸隆に、事件を知らせる者はなかったのである。
「境内で騒ぎか……殿の所行、早晩領民にも知れような」
苦い表情でようやく幸隆が言った。それからややあって言葉を継いだ。
「於仁丸はわしも殺すと申したか」
戌郎は頷いた。
「……あれは鴇や義父上をも狙うと思うか」
「…………」
一線を退き老い先も短い兼嗣を狙うことはすまい、と戌郎は思った。だが姫様はわからぬ。あるいは──
戌郎の表情が厳しくなったのを見て、幸隆が言った。
「仇の弟も仇なら、その嫁もまた仇という訳やな……」
幸隆は手紙を捻ると手焙りにくべた。手紙は赤い炎を出して燃えた。
朝餉の後、幸隆は鴇姫を伴って兼嗣を訪ねた。戌郎も一緒である。
部屋には真信もいたが、ただならぬ様子に気を利かせて退室しようとした。
「よい。これからする話はそなたにも聞いて欲しい」
幸隆は真信をとどめた。
「何ごとや……朝から揃ってどないした?」
「昨日の話です。早晩義父上のお耳にも入ろうかと存じますが、まずは私からお話ししとう存じ、まかり越しました」
幸隆の言葉と様子に兼嗣は居ずまいを正した。
「聞こう。何があったのや」
幸隆は村長の手紙にあった昨日の境内の様子をかいつまんで話した。それから、これまでの経緯も。兼嗣にとっては全てが初めて聞く話であった。
「すると何か……。その於仁丸とやらが、殿のお命を狙うた張本人ということか……?」
「少し違います。殿のお命を狙うた者など、初めには誰もおりません……」
幸隆が答えた。
「偶然行きおうた於仁丸の恋人を、殿が殺したのが始まりです」
「……しかし現に供の者が死に、殿も死にかけたではないか……」
「殿が殺した娘、変わった体質をしておって、体に毒を持っていたそうです。供の者が腐って死んだは、己が悪行の報いや」
幸隆が厳しい表情で言った。戌郎は鴇姫がぎゅっ、と拳を握ったのを見た。兼嗣も幸隆の言葉から状況を察し、眉を顰めた。
「その娘、たいそう美しい見目をしておったそうで……おおかた殿が無体な真似をされようとしたのを、娘が拒んだのでしょう。娘には於仁丸という恋人もあったゆえ」
幸隆は少し間をおいて続けた。
「殿はあのご気性や。逆上され、手にかけたと思われます」
「復讐か……」
「はい」
「ひと月前の当家へ忍んできた賊というのも、その於仁丸やな」
「……はい。あの時あれは、仇を探しておったのです。ここでなんらかの手がかりが得られると思うたのでしょう。於仁丸の気持ちはようわかる。私とてこれが酷たらしゅう殺されたら、きっとそのままにはしておかん──さりとて」
幸隆は鴇姫を見ずに言った。
「むざむざ討たれてやる訳にもまいりません。於仁丸は存外にまっすぐな気性のようや、義父上に手出しをすることはまずあるまいと存じますが、十分にお気をつけくださいますよう」
それから真信に向き直り、続けた。
「そなたにも頼んだぞ。義父上のこと、必ずお守りしてくれ」
「……は」
真信は頬を引き締め、小さく頷いた。
「この生田真信、この身に代えましても兼嗣様は必ずお守りいたします」
兼嗣は真信を見、それから鴇姫を見た。
「鴇、そなたは大丈夫か」
「はい」
鴇姫も頷くと、落ちついた声で気丈に答えた。
「わたくしは何があって幸隆様についてまいると決めておりますゆえ」
その様子は先刻、兼嗣の居室を訪ねる前に幸隆から於仁丸の言葉を聞かされ、ひどくうろたえて取り乱した姫とは別人のようであった。
話を終え、部屋を辞そうと立ち上がった幸隆に兼嗣が声をかけた。
「幸隆、そなたその於仁丸とやらを見知っておるのか」
「はい」
と、幸隆は答えた。
「一度会うたことがあります」
「……そうか。では於仁丸は、そなたが言うた通りの人物なんやろうな」
兼嗣はそれ以上は聞かず、ただひとことのみを言った。
「そなたらも十分に気をつけよ」
「お言葉胸に刻みまする」
幸隆は微笑むと頭を下げた。
「ギン、頼むぞ。おまえも幸隆様をお守りしておくれ」
縁側に腰をかけ、ギンの頭を撫でながら鴇姫がこれに話しかけていた頃、天津館では幸政が主だった家臣を集め、守護職からの下知を告げていた。
村上氏討伐に参じよというものである。
村上氏とはこの地方の先の守護であり、今は近在の一国を本拠として当地奪還を目指していた。
この地方は元々天津家の主家である平松氏の所領であったが、五十年ほども前、平松氏は乱を起こし一旦は滅ぼされ、当地はこれを平定した村上氏に与えられた。
だが平松氏は先の大乱で当地の守護へと返り咲いた。平松氏は管領に与し、将軍の命によって守護職を還付されたのである。古くより平松氏と共にあった天津家が当地の守護代に任じられたのはこの時であった。当然村上氏がそれを承伏するわけもなく、大乱が収束した後も当地では両氏の争いが続いていたが、いよいよ村上氏を追いつめた。ついに帰趨が決しようとしていた。
家臣が散じた後、幸政は幸隆を留め置いて言った。
「そなたそういえば刺客を捕らえてみせると申したが、あの話どないなったのや」
「……殿」
と、幸隆は幸政に向き直り、居ずまいを正した。
「昨日殿は境内にて、己が非道な行いを声高に語られた由……」
「…………」
幸政の口元が歪み、眉がつり上がった。
「殿がお命を狙われておることもこれで知れたでしょう……軽はずみな言動は慎んでいただきとう存じます……」
「きさまの役にも立たん説教を聞きたいのではないわ……! 刺客はどないしたと聞いたのや」
声を尖らせた幸政に、幸隆は静かに答えた。
「於仁丸は必ず捕らえます」
「……ほう。おぬしあれの名を知っておるのか」
「私とて耳もあれば手足もあり申す」
「…………」
幸政は鼻白んだ表情をしたが、
「……まあよい」
と答えた。
「必ず生かして連れて来るのやぞ。聞きたいこともあるゆえな」
そう言うと意味ありげに表情を歪め、付け加えた。
「雇い主の名などもな」
幸隆が顔を上げ、幸政を見た。その隻眼には悲しみがあった。
「殿は未だ、そのようなことを仰せあるか……」
「話は終わりや。下がれ」
幸隆は一礼して去った。その後ろ姿を苦々しげに見つめていた幸政の背後に、すうっと人影が浮かび上がった。
「……あやつ異な事を申したな…… 耳もあれば手足もある、か」
「…………」
「間者でも飼うとるのか」
「探りを入れますか」
影が問う。
「まずは戦や。佐々家には適当な見張りをつけとけ」
そう言うと幸政は口の端を歪めた。
「返り討ちに遭うなよ」
天津軍は城を落ち、敗走してくる村上軍を国境の原にて迎え撃った。
村上軍は領袖村上忠興を失い、ごく僅かな者のみがまだ幼い忠興の一子幸千代を守って本国因州まで落ち延びた。
かくして平松氏は一国を手に入れ、この地方を掌握した。元の村上領の一部は天津家のものとなり、幸政は戦で功のあった島田一正にこの地を与えた。
この年はこうして暮れた。




