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05


「於仁丸が現れたやと?」

 於仁丸が眠りに引き込まれた頃である。報告を受け、村長むらおさが言った。

「しかもめんを晒してか……あやつは阿呆か」

「ご丁寧に名乗りも上げていきよりましたわ……まあこっちは、あれの顔と名前を覚えてもろうただけで、ちょっとはやりやすうなりました」

 報告者は与兵衛であった。村長の座敷には他に二、三人、そして戌郎の姿があった。

「それでどうや……むろん全員仕留めたんやろうな」

「追った者は全員仕留めました。どうにも不細工なやりようやったが、まあ初めはあんなもんやろ……」

 与兵衛は値踏みするでもような口調であっさりと言った。

「塒は突きとめたか」

「はい」

「しばらくは好きにやらせとけ。鴇様と幸隆に手を出さん限りはな……但し」

 と、村長は言葉を継いだ。

「もし幸政の手に落ちるようなことがあれば、必ずその場で息の根を止めろ」

 座敷の者は去り、戌郎のみが残った。

 ややあって、村長が声をかけた。

「鴇様のご様子はどうや」

 落ちついておられます、と答える。

「鴇様は篝を気に入っておられたようやからな。出来れば知らせとうはなかったが、しょうがない……」

 村長はひとりごちるように言い、戌郎を振り返った。顔は笑っているが目は笑っていない。

「まあ却って良かったわ。やりやすうなったし、おまえも肩の荷が下りたやろ。おまえは腹芸がでけんからな」

「…………」

「なんぞ言いたいことがあるのやろう。申せ」

 戌郎は目を伏せた。しばらくためらっていたが、やがて手を上げた。


  おささまは 

  おにまるを はめたのか


「…………」

 村長は笑顔を消した。

「なんでそう思うのや」

 戌郎は目を伏せたままだ。戌郎にはあの夜のギンの様子が、どうにも腑に落ちなかったのだった。

 あの夜は夢中で不審にも思わなかったが、ギンは戌郎が手塩にかけて仕込んだ犬だ。まだ若く頼りない所はあるが、おいそれと侵入者に鼻をつぶされるような間抜けではない。そうであれば、ギンの鼻をつぶしたのは身内の誰か──鴇姫や幸隆にそのようなことをする理由が全く見つからないことを思えば、残るはやってきた鴇姫の客人、すなわち与兵衛以外には考えられないのだ。

 戌郎が答えないのを見て取り、長はふうっと息をひとつ吐くと、

「おまえは何か思い違いをしとるようやの」

 と言った。

「わしらが於仁丸を嵌めたんやない……あれが自ら陥穽あなに飛び込んだのや。あの後、あれは村に戻ることも出来でけた。だがそうせんかった……。

 おまえはわしらがあれを見捨てたと思うとるようやが、違うぞ。あれがわしらを捨てたのや」

「…………」

 そうかも知れない。だが……、と戌郎は思った。

 篝の仇を知ったからには、あの於仁丸がおめおめと村に戻るなど考えられない。あれがそんな男ではないことは、村の者なら誰でも知っているはずだ──。

 反応しない戌郎に長は続けた。

「おまえは今も、於仁丸を弟のようにも思うとるのやろうが、あれはどうかな」

 戌郎は顔を上げた。

「あれの頭は復讐で一杯や。おまえやろうが源爺やろうが、目の前に立てば殺すやろう」

「…………」

「おまえの知る於仁丸は、もう死んだものと思え」

 戌郎は小さく頭を下げると立ち上がり、座敷を出た。

 月がすでに傾きかけている。夜が明ける前に屋敷に戻らねばならない。戌郎は一旦は村を出て行きかけたが、ほんの少しの逡巡のあと、踵を返した。


 戌郎が向かった先は村の外れのおじじの小屋である。ひと月ほど前まで、於仁丸はここでお爺と暮らしていたのだ。また、ここは戌郎にとっても幾ばくかの感傷を呼び起こす場所だった。

 かつて戌郎が母と暮らした小屋もこの辺りにあった。

 今は跡形もない……父は戌郎が生まれる前から雨宮の館で暮らしていたから、母が死に戌郎が館へ上がった後は住む者もなく朽ちた。いつの頃か村人が片づけたらしく、今は雑草が茂るばかりである。

 先刻村長が戌郎について、「於仁丸を弟のようにも思っている」と言ったのはあながち見当外れとも言えなかった。早くにふた親を亡くした於仁丸を戌郎の母は気にかけて、何くれとなく面倒を見ていたのだ。於仁丸は戌郎の母をもう覚えてはいないかも知れない。だが戌郎は於仁丸の世話を焼く母をよく覚えていた。

 戸口にしばらく立っていると、気配を察したかお爺が姿を現した。

「…………」

 戌郎は内心を気取られまいと奥歯を噛みしめた。微かな明かりの中でしばらく振りに見るお爺はすっかり老け込み小さくしぼんで、見知った姿とはまるで別人であった。

「来とったのか……戌郎。元気そうやな……」

 戌郎は笑って見せた。だがこの笑顔はこわばっていることだろう。先刻「腹芸が出来ない」と言われたばかりだ。自分でもわかる……。

「あれに会うたか」

 戌郎は頷いた。

「戌郎、おまえは心根の優しいっちゃ。おまえが牢で於仁丸を助けてくれたことも聞いとる……やがな」

 お爺は何を言うつもりか。戌郎はお爺を見た。

「素破に情けは無用や。情けは命取りにしかならん……おまえも素破なら己れの感情にかかずらうな。ただやるべきことをせい」

 お爺は……、と、戌郎は思わず手を上げた。


  おじじは おにまるを あきらめるのか


「今言うたやろう」

 と、お爺が少し語気を強めた。

「あれの宿命さだめや……わしやおまえがどうにか出来でけるもんやないわ」

「もう行け、戌郎……」

 お爺は手を振った。

「もう会うこともないやろう。わしの言葉、忘れるな。於仁丸を気にかけてくれたおまえへの、せめてもの手向けや」

 死の影がお爺を捉えていた。戌郎は去りがたい様子でお爺の消えた戸口をしばらく見ていたが、やがて歩き出した。

 道のはたには与兵衛が腰を下ろしていた。

 戌郎はその脇を通り過ぎたが、後ろから与兵衛が声をかけた。

「あれはええ犬やな、戌郎」

 戌郎は立ち止まった。

「そやけどちいと、素直すぎるのと違うか?」

「…………」

 互いの表情は見えない。与兵衛はいつもの調子で続けた。

「まあもう、忍犬としては役に立たんわ。死んだも同然や」

 戌郎は反応せず、また歩き始めた。与兵衛の声が追いかける。

「おまえがおらん間の、おひいさんの話し相手くらいにはなるやろうがの」

 自分も試されたのだ……、と戌郎は思った。

 与兵衛は於仁丸の追跡に気づいていた。於仁丸の侵入を見越していたのだ。

 あの夜、自分が侵入者に気づかなければ……。

 気づいても相手が於仁丸と知り一瞬でも逡巡していれば……。

 戌郎は無能と断ぜられ、任を解かれたに違いなかった。今、ここにこうしてもいない筈だ。奥歯を噛み締めざわつく心を抑えつけて、戌郎は与兵衛の気配が消えるまでゆっくりと歩いた。


 一刻半ほどの後、屋敷に戻った戌郎は特に変わりないことを確認すると屋敷の裏手へと回った。

 塀の影へギンを呼ぶ。ギンはいつも通り、すぐにやって来て身を伏せた。

「…………」

 ギンの頭を撫でながら、戌郎は与兵衛の言葉を思い出していた。その胸中を察したかのように、ギンが顔を上げ戌郎を見る。

 いや、まだ死んではいない……

 戌郎は思った。ギンは思いもよらぬ人物に鼻をつぶされ、すっかり覇気を失い腑抜けたようになっていたが、その目にはまだ光があった。

 戌郎に対する信頼はまだ失われてはいない。ほんのわずかでも望みがあれば、戌郎はどれだけ骨が折れようともう一度ギンを仕込むつもりだった。どんな犬でも仕込めば使役出来る、という訳ではないのだ。ギンは得難い資質を持った犬であった。

 またギンをあきらめるということは、術者としての己れのしくじりと限界を認めることにもなる。戌郎にしてみれば、そうそう簡単にあきらめるなど出来るものではなかったのである。

「…………」

 戌郎にはさし当たっての懸案もあった。

 朝になれば寺での顛末を幸隆に報告しなければならない。

 村長に手紙は書いて貰ったが、やはり鴇姫の手を借りないわけにはいかないだろう。何でも話すと約束したし、既に鴇姫自身も於仁丸の復讐に巻き込まれている。

 姫様にも聞いていただかねばならない……そうわかっていても、鴇姫の心中を思うと戌郎はひどく気が滅入ってくるのだった。


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