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04


 話はひと月ほど前に遡る。

 鴇姫が戌郎の助けを借りて三郎の扱いを覚えようとしていた頃である。その日、篝の毒もすっかり抜けた幸政は供を連れ、快癒の礼にと菩提寺へ参った。山門を経て境内へと入ったところで、一行に声をかけた者があった。

「天津幸政か」

 幼さの残る、女のような整った顔立ちに似合わぬ低くかすれた声である。長い髪を無造作に赤い紐で束ねたまだ若いその男は粗末な上衣に毛皮を重ね、下衣は山袴と百姓じみた風体であったが、小柄なその体から噴き上がるような殺気に、供の者は一斉に刀の柄に手をかけた。

「篝の血に触れたやろう……なんでおまえは生きとるのや?」

 幸政はせせら笑った。

「あの女の情人か。手足を切り飛ばしてやったらあの女、みっとものう泣きわめいて懇願しおったわ。何でもするゆえ、命ばかりは助けてくれとな」

 男の表情に変化はない。だが幸政は、男がぎりっ、と奥歯を噛みしめたのを見逃さなかった。

「そうまで言うて頼んだおなごをおまえは殺したのか……ああもむごうに切り刻んで……」

「芋虫のようななりで無様にすり寄ってくるのは、ちょっとした見物やったぞ」

 嘲るように言い放つと幸政は続けた。

「うぬら何者や。誰に雇われた」

 男は答えない。耳障りな声で幸政は言葉を継いだ。

「幸隆か?」

「幸隆? ……ああ」

 男は眉を上げた。口の端が歪む。

「おまえの不具の弟か」

 声を立てて笑うと、男は吼えるように言った。

「兄弟仲良うて何よりや。安心せいや、あれもまとめて地獄に送ったるわ」

 供の侍が一斉に刀を抜いた。じり……っ、と間合いを詰めてくる。

「……面白い」

 幸政の顔は怒りのためか赤黒く染まっている。

「この天津幸政をやれるもんならやってみい……! うぬがあの女の身内なら、うぬもあれと同じ目に遭わせてくれるわ。一寸刻みに刻んでやる……殺してくれと泣いて哀願するまでな」

「その言葉、そっくりおまえに返してくれる」

 剣刃に囲まれながら、男は臆する風も見せず幸政を見据え、押し出すように言った。

 先走って斬りかかった侍の刃を苦もなくかわした男は、いつの間にか周囲に人が増えているのを見て取り身を翻した。

「於仁丸や! わしの名を覚えとけ──必ずおまえを殺してやる!」

「ひっ捕らえい!」

 幸政の命を待つまでもなく、侍達が駆けだした。



「もう逃げられんぞ……!」

 寺からほぼ二十町の葦原である。於仁丸をぐるりと取り囲み、侍達が抜き身を突きつけた。

 相手はひとりで子供同然、しかも得物も持っていない。侍達はほくそ笑んだ。が、追いつめたはずのにえが笑った。

「阿呆ども、見てみい」

 す……、と於仁丸の手が上がり、周囲を指し示す。

「ここがうぬらの墓場や」

 次の刹那。

 於仁丸の腕が長く伸びた。

「……!」

 侍達の腕や喉笛を夜条が捉える。何が起こったかもわからぬうちに、ある者は首を落とされ絶命し、ある者は腕を失い膝をついた。

 夜条──術者の意のままにはしり人の骨をも断ち切るこの漆黒の細い糸こそ、於仁丸の得物であった。

 先刻まで普通の袖丈だった上衣の袖が長く落ち、於仁丸の腕を指先まで隠している。腕が伸びたと見えたのは、袖の上部をたくし上げていた糸を袖口を掴み引き切ったために、縫い詰めていた部分が落ちたからだ。たくし上げて縫い詰め、袋状になったそこに、於仁丸は夜条を巻き取った指貫を常に隠し持っていた。

「きさま……味な真似を……」

 何人かは夜条から逃れている。一気に全員を仕留め損なったのはいささか拙い。指貫に巻き取った夜条は長さも量も限られた、あくまで緊急時のためのものだからだ。戦いが長引けばそれだけ不利になる。

 於仁丸は表情を引き締めると跳躍した──。



 夜。

 山中の廃村である。もといた者は去ったかそれとも戦で全滅したか、いずれうち捨てられて久しい場所であった。

 今、かつてはこの村の中心であっただろう朽ちた寺の、今にも破れ落ちそうな戸口を引き開ける者があった。

 於仁丸である。

 いささか覚束ない足取りで堂内へ入った於仁丸は、へたりこむように腰を下ろした。

 体中が火がついたように熱い。それは全身に受けた刀傷のせいだ。いずれもたいした傷ではなかったが、それのせいで実際に発熱もしているのだった。

 体は重く泥のようだったが心はまさに煮えたぎった油で、於仁丸は猛りきった己れの心を抑えかねていた。

 侍は七、八人はいただろうか。体に傷を受けたのも初めてなら、それだけの相手を正面切って倒したのも初めてのことであった。死の恐怖、己れを殺そうとする者への本能的な怒り、断末魔──そうしたものを我が身に味わったのも、初めてだったのである。

 ──手足を切り飛ばしてやったらあの女、みっとものう泣きわめいて懇願しおったわ。何でもするゆえ、命ばかりは助けてくれとな──

 ──芋虫のようななりで無様にすり寄ってくるのは、ちょっとした見物やったぞ──

「…………」

 於仁丸は歯を食いしばると立ち上がった。

 堂内の片隅に、丸い包みとわずかな道具が見える。どうやら於仁丸は、忘れ去られた村のこの寺を仮のねぐらとしているようだ。

 於仁丸は包みの前に膝をつき、それを手に取ると胸に抱きしめた。

「篝……どんだけ恐かったやろな……」

 恐怖と絶望に歪んだ篝の表情が見えるようで、於仁丸は強く目を閉じた。

「わしが必ず仇を討つ……! 必ず幸政に、おまえと同じ思いを味わわせてやるからな──」


 黒髪村を出て以来、於仁丸は夜毎に篝の髑髏を抱いて眠った。

 篝と一緒なら悪夢も入りこむこともなく、ただ満たされて幸せだった。

 眠りの中でだけは……。


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