03
数日後、居室の鴇姫は戌郎の訪問を受けた。
何か、と問うと、今時間があれば少し自分に貰えないかと手振りで言う。
「わたくしには用事などありません。何や?」
そういって鴇姫はいたずらっぽく微笑むと付け加えた。
「何か手妻でも見せてくれるのか?」
戌郎も笑った。鴇姫を庭へと誘ったあと戌郎が指笛を吹くと、隼が何処からともなくやって来た。
「あ……!」
鴇姫の表情が輝いた。それは戌郎の肩に降り立った。脚に嵌った脚環が、人の手にある隼であることを証している。
「これはおまえの隼か?」
もしかしたらあの夜のことを思い出されたやも知れぬ……さりげなく戌郎は鴇姫の表情を伺ったが、そこに恐れや暗い影はなかった。戌郎は笑顔のまま否とも応とも答えず、隼を拳に移すとまた放った。
「おまえはほんまに鳥や獣を上手に使うなあ……ええものを見せてくれて、ありがと……」
いいえ、と戌郎は笑った。
はなしは これからです
怪訝な表情の鴇姫の左手に、まず革の篭手を被せる。常のものとは違い、指先まで覆うものである。それから戌郎は懐から小さな竹片を取り出して姫に手渡した。どうやらそれは、ごく小さな笛のようであった。
最後に戌郎はそばに立てかけてあった丁字の形の杖を取ると、それを鴇姫に持たせ、自身も姫の後ろから手を伸ばし杖を支えた。そして鴇姫に笛を吹くよう示した。
「…………」
戌郎の意図を掴みかねながらも、鴇姫は竹片を口に含みそれを吹いた。甲高い澄んだ音が空に響き、隼が再び姿を現した。
「おお……!」
鴇姫が無邪気に声を上げる。だが隼は掲げた杖には留まらず、やはり戌郎の肩へと行ってしまった。それを拳から杖へと移し、また放っては呼び寄せる。
何度か繰り返していると、とうとう隼が姫の呼子に応えて杖に降り立った。
「来た来た……!」
我知らず弾んだ歓声を上げる鴇姫はまるで子供のようだ。戌郎にはここが佐々屋敷ではなく雨宮の館で、鴇姫もまだ幼い少女のように感じられた。
懐かしく温かな記憶──だが戌郎は、それをまた心の奥底にしまい込んだ。
戌郎は腰の小籠から口餌を取り出すと鴇姫の左手に握らせた。それが生肉であることに気づいた鴇姫は一瞬躊躇したが、添えられた戌郎の手が促すままに左手を隼の前へ出すと、隼は熱心にそれをむしり始めた。
「姿のええ、きれいな鳥や。爪や嘴は恐ろしいが、大きなかわいい目をしとる……」
鴇姫は優しい眼差しで隼を見つめながら続けた。
「これに名前はあるのか?」
三郎です、と戌郎が答える。鴇姫は笑った。
「立派な名前やな。太郎や次郎もおるのか?」
戌郎も笑顔で頷いた。餌を食べ終えた三郎をまた放つ。三郎は屋敷近くの、ひときわ高い楠へと消えた。
鴇姫が呼子と篭手を返そうとしたが戌郎は手を振り、時々呼んでやってくれ、と示した。そして続けて言った。
ゆきたかさまにも さぶろうを
みて もらいとう おもいます
「おお、そうや。お義父上にもぜひご覧いただこう。おふたりともきっと喜ばれるに違いない」
笑って頷き、杖を縁の下に置いて去ろうとした戌郎に、鴇姫が声をかけた。
「戌郎。ギンの様子はどうや……? 何やら元気がないようやが……」
戌郎は立ち止まった。大丈夫です、という風に手を振ると、戌郎はその場を辞した。
ふた月ほどの後。
屋敷の庭に鴇姫が三郎を呼ぶのを、縁側に腰を下ろした幸隆と兼嗣、そして兼嗣の小姓、真信が見ている。
戌郎がそばについているとはいえ、鋭い爪と嘴を持つ猛禽に恐れる風もなく生餌を手ずから与える様子に、兼嗣はいささか呆れたように言った。
「たいした嫁御や……姫と言うと大きな鳥や獣は怖がるものやと思うとったが」
「あれは山国育ちゆえ、慣れとるのでしょう。それに幼い頃よりあの戌郎がついとりましたから」
と、幸隆が答える。
「あの男、鴇にいわせると獣や鳥と話ができるそうです」
「……なるほど」
兼嗣は何かを感じた様子で言った。
「獣と話すに言葉などいらんからなあ……連れてきた犬もあの隼もよう馴れとる。嫁の言うことはほんまやも知れんな」
「…………」
幸隆は再び視線を鴇姫と隼に移した。
ほんの小さなわだかまりは、なぜ戌郎が隼を佐々家の面々に披露する気になったかということだった。しかもどうやら、見せるだけではなく扱いをも教えようとしているようだ。隼の馴れようを見れば、昨日今日に捕らえて仕込んだものではないことは明らかである。だが自分はまだしも、鴇姫さえ隼を見たのはあの夜が初めてだと言っていた……。
「幸隆様、お義父上」
鴇姫の明るい声に幸隆は我に返った。
手招きに応じ、ふたりの男は立ち上がった。