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02


「戌郎」

 その声が己れの名を呼ぶのをひたすら待っていた。戌郎は振り返った。

 事件から三日目のことである。その時戌郎は幸隆の乗馬の世話をしていた。空は快晴、空気も澄んで気持ちの良い秋の朝だ。

「傷の具合はもうええのか……?」

 常とは違う、少しばかりためらいの感じられる声音に、戌郎は笑顔で手を振った。

 あの夜鴇姫が巻いた包帯ももう取れている。戌郎の変わらぬ笑顔に、姫の表情も心なしか明るくなった。

「戌郎……」

 鴇姫はいったん口をつぐんだが、また言葉を継いだ。

「……こないだはすまなんだ……ったりして……」

 戌郎はかぶりを振った。鴇姫が怒って当然のことを自分はしたのだ、と思っていた。

「おまえがわたくしを思うて言えんでいたこと、わたくしにもようわかってます……それやのに……。

 おまえを責め立てて悪かった……どうか許しておくれ……」

 おやめくだされ、と戌郎はあわてて示した。


  わしが わるうございました

  ひめさまの おこころ きずつけて


 その手を鴇姫の手がやんわりと遮った。

「…………」

 戌郎は己れの頬が我知らず赤らむのを感じた。柔らかく温かい鴇姫の手が、自分の汚れた手を押し包んでいる──。

「戌郎」

 鴇姫は手を取ったまま、ひたと戌郎を見据えて言った。

「約束しておくれ……今後はわたくしにも、おまえの見知ったことは全て話すと」

「…………」

「おまえも幸隆様もお側におるのや。大丈夫や。わたくしも強うなります。もう二度と泣いたりせん……そやから、ええな。頼んだぞ」

 鴇姫の潤んだ黒い瞳が、心中をも見透かそうとするかのようにまっすぐに戌郎を見つめている。

 戌郎は頷いた。鴇姫は表情を緩めると、微笑んで

「ありがとう」と言った。

「…………」

 戌郎はそんな鴇姫をしばらく見ていたが、やがて懐から二本の棒のようなものを取り出すと、鴇姫に差し出した。

「……なんや……? これは……」

 鴇姫は怪訝な表情で受け取ると、それをあらためた。

 五寸ほどの簪である。ミネバリと思しき滑らかな木製の脚の先端で、ていねいに磨いたごく薄いあかがねの小さな丸い板が揺れている。それらは小さなカンで互いに繋ぎとめてあった。

「……きれいやな」

 鴇姫は簪をかざすように目の高さまで持ち上げた。それは風に揺れ、陽の光をはね返して手の中で煌めいた。

「おまえが作ったのか?」

 戌郎は頷いた。鴇姫の怒りが解けたら手渡そうと、眠る間も惜しんでこの数日で仕上げたものだ。

「ありがとう……」

 鴇姫はもう一度、くり返した。

 戌郎は鴇姫を眩しげに見ていたが、やがて手を上げた。


  ひめさまに おねがいが


「うん? 何や?」

 そう問うたときの鴇姫の声は、いつもの優しく温かなものであった。戌郎はほんの少しためらう素振りを見せたが、続けた。


 いつも それを

 みに つけていて くだされ


「……戌郎」

 失礼します、と示すと戌郎は鴇姫の手から簪を取り、背後に廻って姫の前髪をひと房丁寧に掬い取った。それからいつの間にか手にしていた元結でその髪をひとつに結うと、簪をその根元に左右から斜交はすかいに、しっかりと差し入れた。

「…………」

 鴇姫は手を後ろに回し、そっとそれに触れた。

 思えば戌郎が自分に対し何かを望んだことなど、これまで一度もなかった。

「わかりました……ありがとう」

 姫はそう言うと、その場を去った。



 障子を開け放ち、見るともなく庭先を眺めていた幸隆は目の端に鴇姫を捉え、

「鴇」と声をかけた。

 姫の髪に何やら光るものを見たからだ。

「はい?」

 と、鴇姫が振り返る。その刹那、またきらきらとそれが煌めいた。

「それは何や」

 縁側に出た幸隆は答えを待たずに手を伸ばし、鴇姫の髪からふたつのうちの一本を抜き取った。華美なものではなかったが、丁寧で心の届いた仕上げに作り手の技量と人となりが偲ばれる。

「…………」

「……あの」

 手に取ったものを見つめたまま黙っている夫に、鴇姫が遠慮がちに口を開いた。

「簪です」

「それは見ればわかる。これをどないしたのや? 初めて見たが……どこかで求めたか、それとも輿入れの際に持参したものか?」

「いえ……あの」

 鴇姫は口ごもった。その様子に幸隆は優しい声で

「言いたないなら言わんでええ。責めとるのやない。見慣れんものを見たゆえ、聞いただけや」

 と応え、それを鴇姫に返そうとした。

「戌郎です」

 姫の言葉に幸隆は差し出した手をまた戻した。

「戌郎がくれたのです……わたくしに、いつも身につけていてほしいと……」

「…………」

「そうか」

 再び手の中のものに視線を落とすと、幸隆は独り言のように言った。

「戌郎が……」

「…………あの」

 鴇姫は不安げな面持ちで幸隆を見ていたが、やがて耐えきれなくなったように

「……申し訳ありませぬ」

 と消え入りそうな声で言うと、髪に挿したままのもう一本を自ら引き抜こうとした。

 幸隆様は怒ってらっしゃる……いくら近しい者とはいえ、下郎に貰ったものを身に帯びるなど夫の前でしてはならぬことだったと思ったのだ。

 だが幸隆は姫のその手を押しとどめた。

「そのままでええ」

 そう言うと、幸隆は手にしたもう一本を自ら姫の髪に差し入れてやった。

「戌郎の気持ちや……大事にしてやれ」

 鴇姫の表情が瞬く間に明るくなった。

「……ありがとうございます……!」

 そう言って頭を下げた姫の笑顔、そのどことなくほっとしたような表情に、幸隆の心中にかすかなさざ波が立つ。

「…………」

 幸隆は表情を引き締めた。

 そうすることで、心に静かな水の面を取り戻そうとするかのように──。


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