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ひとりが去り、ひとりが来た。
佐々屋敷の日常は何ら変わるところもなかった。使用人達は、新たに来たそれがまるで戌郎自身であるかのように扱い、何の違和も覚えていないかのようである。
幸隆や鴇姫、真信も同様であったが、ただひとり鴇姫だけは、決してそれの名を呼ばなかった。
ある日、濡れ縁に座り傍らにギンを侍らせていた鴇姫が、通りかかった真信を認め、声をかけた。
「ちょうど良かった。出向こうと思うていたところでした」
「わしに何かご用がおありでしたか?」
座るように促された真信が、そうした後に怪訝そうに問い返すのに、鴇姫は懐から袱紗を取り出すとそれを真信との間に置き、開いた。
「これはそなたのものであろう?」
そこにはいく粒かの砂金があった。
「…………」
真信はかすかに息を呑んだ。否とも応とも答えず、ひとりごちるように言った。
「なんで、これを……鴇様が……?」
「人づてに頼まれたのです。そなたに返してほしいと。からこうてすまなんだと……そう伝えてほしい、とも言うておりました」
……では鴇姫は、ことの一部始終も聞いて知っているのだろうか……? あの八卦見は、実は鴇姫に縁の者だったのか……?
真信は何やらばつの悪い思いがしたが、砂金が戻ってきたことは素直に嬉しかった。
さ、と促され、真信は礼を述べて砂金を袱紗から拾い上げた。それを巾着に大事にしまい、誰にともなく語り出した。
「これはわしが兼嗣さまに連れられてこの屋敷に参ります途中、川で兼嗣さまと拾ったものにございます。子供のこととて、わしにはひと粒も見つけることは出来ませなんだが、……それは楽しゅうございました」
そう言う真信の眼差しは優しく遠く、往時を思い出しているかのようであった。
「兼嗣さまはその時ご自分が拾われたものを、わしにとくださったのです」
「そのような大事なものを……。戌郎のために、よう差し出してくれました。この通り、心からお礼を言います」
言葉の通り、頭を下げた鴇姫に、真信は我に返って慌てて言った。
「おやめくだされ……! わしはそのようなつもりで、この話を鴇さまにしたのではございませぬ」
真信は元は佐々家に縁の寺に預けられた喝食である。生家は貧しく、いくら食いっぱぐれがなく、幼い頃より好んだ歌舞音曲もきちんと仕込んで貰えるといったところで、真信は親に捨てられたようなものであった。初めて兼嗣と見えたのは、寺に預けられて一年ばかりも経った頃だったか。客人に茶と菓子をお持ちしろと言われ、差し出した相手が兼嗣であった。
爾来、兼嗣が寺を訪うたびに真信がこれを接待した。兼嗣は真信に目をかけ可愛がり、ある時おのが身辺の世話役に貰い受けたい、と住持に申し出たのである。この時真信は十三歳。寺に預けられて六年の後のことであった。
朔弥、おいで。これをそちにやろう──。
そう言って手を取り、砂金を載せてくれた。その手は厚く温かく、その笑顔はすでに薄れかけていた父の面影を思い起こさせた。
あの日、幼心に兼嗣を父とも主とも思い定め、身を尽くし、心を尽くして仕えようと決めた。そして今、今度は鴇姫から再び砂金を手渡され、真信はおのが主に誠を尽くそうと心を新たにしたのである。
それからひと月。秋も半ばを迎えた頃、戦があった。
幸隆が懸念していた久間田とのそれではなく、北の国境での小競り合いである。
天津領は平野に位置し、また国のほぼ中心を美津川という大きな川が流れていることもあって比較的水には恵まれており、稲作も盛んであった。だが南を除く周囲の国々は概ね山地であって、田地はわずかである。特にこの地方の北側は気候にも恵まれず、ここの国々がしばしば天津に戦をしかけたのも、まず食わんがためであった。
この夏山では雨が降らず、作物は不作であった。わずかな実りの刈り入れを一足早く済ませた北の国は、天津の領地に攻め込んで来たのである。
穂を垂れていた稲は刈り取られ、まだ実っていなかった田は畑や家と共に焼かれた。先方の不穏な動きを知り、村でも刈り入れを急いでいた矢先の襲来である。幸政は直ちに討って出たが、これを蹴散らしかの国に押しやったのみで、追撃はしなかった。天津では今まさに収穫の時期を迎えており、雑兵どもは一刻も早くおのが在所に帰りたがったし、彼らの主である将も皆同じ思いであった。掠奪に遭った村は哀れだが、今の時期を逃せば自分たちとて飢えるのだ。
「この礼は、近いうちにさせて貰う……」
怒りと憎悪を滾らせ、唇の端を吊り上げて呟くと、幸政は轡を返した。
その幸政を見つめる目があった。これはさながら影のように闇にまぎれ、幸政の一行を追っていた。
幸政はそのまま館へは帰還せず、西へと向かった。領内のことにて、ごく僅かな供を連れての移動である。その先の小国は天津に従っており、そこには妙齢の姫があった。どうやら殿はこの姫をご所望らしい……、との噂を、この影も聞き知っていた。
幸政にはすでに妻がある。姫の父でもあるこの国の領主、佐竹氏は、手中の珠を惜しんで幸政の要請をなんとか拒んでいるらしい。幸政の気性を知る者は、この国に何かしくじりがあれば、あるいは何もなくとも、姫を差し出さない限りはいずれ勘気に触れて滅ぼされるに違いない、などと囁いていたのである。
国境を越える前に影が動いた。
折からの風は生温かく不穏な予感を孕んでいる。樹上の影は、手にした四尺ほどの短弓を引き絞った。一旦は騎乗の将に狙いをつける。だが鏃はすぐに将の背から逸れた。影の位置からは侍は遠く、元より影の思惑もそこにはなかった。影は息を吸い込むと、おのが定めた的を射た。
ぎゃん!という悲鳴と共に何者かが次々に草むらから飛び上がる。場は一瞬、騒然となった。
「何や!」
見れば野犬である。刺さった矢は致命傷ではなく、それが一層一帯の混乱を深めていた。
間隙を縫って影が走った。それは棒立ちになった馬にあっという間に肉薄し、その尻を蹴って跳躍すると馬上の将に向かって腕を振った。……が。
「……っ!」
影の腕が一瞬止まる。将の首から血が噴き出し、断末魔の絶叫が上がった。
「逃すな!」
供と見えた者どもは転げ落ちた将には見向きもせず、そのまま一直線に走り去ろうとした影に追いすがった。捨てられた将は壊れたように叫び続けている。影のほんの刹那のためらいが、却ってそれに地獄を味わわせていた。
「ちい……っ!」
噛み締めた歯の間から鋭く舌打ちを漏らすと、影は振り向きざまに手裏剣を打った。それは将──否、将の身代わりとされた、哀れな男の首に突き刺さった。
追っ手の足は思いの外速かった。逃げ切れぬと観念したか、影が立ち止まった。
「かかったな、於仁丸──。今度は逃がさんぞ」




