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 その夜のことである。

「生田」

 と、どことなく悄気しょげた様子の真信に、幸隆が声をかけた。

「鴇がそなたを、訳も知らずに叱りつけてしもうたと気に病んでおった。あれは戌郎のことで頭が一杯になっとるのや。どうか許してやってくれ」

「いえ、そんな……! とんでもないことにございます」

 そう言いながら、真信の表情は今ひとつ冴えなかった。

 あの時自分は、腰の短刀を奪われたことに全く気付かなかった。戌郎がもし敵だったなら、短刀を抜き取られたその場ですでに絶命していたのだ。

「生田……」

 幸隆が静かに言った。

「そなたももう気づいておろう。あれはそこらの下人とは違う……。隙を衝かれたとて、恥じずともよい。あれはそうしたことに、特に長けた男や」

「……はい」

 答えながら、なお真信の表情は晴れなかった。幸隆はみなわかっているのだ。自分には慢心があった。戌郎が並の下郎ではないことは、充分承知しているつもりだった。だが、相手は怪我人。傷つけぬよう気遣ったといえば聞こえはよいが、要は病み上がりと見て軽んじたのだ。本気で打ち合えば、もしかしたら脇差を奪われるような失態は晒さずに済んだのかも知れない。だがそうしなかった時点で、自分はすでに負けていたのだ。

 また短刀を奪われたと気付いた時、戌郎に笑われて我を失ったことも、苦い悔恨となって真信を責めていた。あれでは勝てる相手にも勝てない。真信は己れを、むしろ穏和で辛抱強い人間だと思っていた。まさかまんまと挑発され、あれほどに激昂するとは……。

 一言応えたのみで、黙り込んだ真信に幸隆が続けた。

「これからは、場がどうでも相手が誰でも、侮らぬことや」

「はい」

 幸隆には真信の気持ちもわかっていた。かつて幸隆自身が、戌郎に対して同じような心持ちでいたからだ。しかし幸隆は、そのことまでは真信には話さなかった。

 同じ頃、戌郎もまた後悔に苛まれていた。本気で組み合おうとしない真信に苛立ち、不快なやり方で挑発した……。利き手を失いこれまでのようには動けなくなったこともそうだが、何より焦ってそのような行為に及んだそのこと自体が、今の自分の弱さを現しているのだと思った。

 今のままの自分では、鴇姫を守ることなど到底出来ない──それどころか、足手まといになるやも知れぬ。戌郎には己れに対する鴇姫の過剰とも言える気遣いや憚りが、いつか佐々家に仇なす予感すらあるのだった。それもこれも、全ておのが不甲斐なさのゆえなのだ。

 戌郎は樹上である。月は雲間に隠れて見えぬ。足元では犬の吠声がかまびすしいが、戌郎は幹に身を預け目を閉じ奥歯を噛み締めたまま、まるでそれらが耳に入らぬかのようであった。



 次の朝、戌郎はいとまを願い出た。唐突ともいえる戌郎の申し出に、鴇姫は驚いた風もなく優しく言った。

「それがええ。わたくしもここにおるより村の方が、安心して養生できるやろうと思うてました」

 下を向いたままの戌郎は、まるで子供のように心許なく見えた。鴇姫は笑みすら浮かべ、

「幸隆様もきっとそないに仰るはずや。何も心配はいりません。ゆっくりしておいで」

 と続けた。

 数日後、ふたりの男が佐々屋敷を訪った。

 ひとりは四十に手が届こうかという頃であろうか。身なりは町人のそれだが、精悍な顔つきである。もうひとりはまだ若かった。

「此度は戌郎がとんだ不始末で、申し訳ございませぬ」

 年かさの男が言った。

「代わりにこれを置いて行きますので、どうかお使いくだされ。戌郎よりはお役に立つかと存じます」

 若い男が黙って頭を下げた。

「心遣い、いたみ入る」

 幸隆が応えた。

「その者、名は何と申す?」

 再び男が口を開いた。

「そうですな……そのまま戌郎とでも、お呼びいただければ」

「…………」

 鴇姫の表情がかすかに歪んだ。

「では」

 と、頭を下げ、戌郎を伴い発とうとする男に、鴇姫が呼びかけた。

「戌郎のこと、くれぐれもよろしゅう頼みます。此度のこと、何もかもわたくしのせいや。戌郎はわたくしを懸命に守ってくれました。村長や父上には、戌郎を決して叱ったり仕置いたりせぬよう重々伝えておくれ」

 男は微笑んだ。

「承知しました。必ず鴇さまのお言葉はお伝えします」

「戌郎」

 今度は真信が声をかけた。

「必ず戻れよ。待っておるからな」

 戌郎も微笑み、頭を下げた。使用人もそれぞれ達者で、とか、息災でおれよ、などと声をかけた。幸隆は何も言わなかった。


「ありがたいな、戌郎。おまえのような役立たずを、かようにお心にかけられて……」

 村はずれにさしかかった頃、男が口を開いた。この男は充三である。きつい物言いは相変わらずであった。

 戌郎はうなだれたまま、それを聞いた。

 今朝は鴇姫は、一度も戌郎に声をかけず、その顔も見なかった。鴇姫の心中がわかると思ったのは、自分の思い上がりだろうか。戌郎もまた自分で言い出したこととはいえ、ながく仕えた鴇姫の側を辞すなど我ながら信じがたく、心が引き裂かれる思いだったのである。

 充三は戌郎の様子を気に留める風もなく、続けて言った

「それにしても、佐々屋敷のあのでかい鼠や。さぞや鬱陶しかろうが……さりとて殺すのも拙かろうな」

 充三はほんの刹那何かを思案している風だったが、ここで待っとれ、と言い残すと姿を消した。

 ほどなく佐々屋敷には、

「幸隆さま」

 と、低く呼ばわる声があった。書き物をしていた幸隆は顔を上げ、周囲を見た。が、どこにも人の姿はない。ただ声は、先刻戌郎と去ったはずの男のそれであった。

「ちょっとお願いしておかねばならぬことができました」

「何や?」

「先にも申し上げたことですが、連れて参った下人、必ず名は戌郎とお呼びいただけますよう。……鴇様はいさささか不満げなご様子やったが」

 語尾にかすかに苦笑が感じられる。

「あとは真信様にもよろしゅうお伝え願います。他の使用人には、特に何も仰る必要はございません」

「……わかった」

 幸隆が応えた。では、と囁くような声が辞した。幸隆は再び机上に目を落とした。


 村はずれの野原で戌郎が待っていると、小半時もせぬうちに充三が戻ってきた。

「ちょろいもんや。あの鼠、屋敷の者がヘタを打たん限りは、おまえがあれと入れ替わったことにも気付くまい」

 そう言うと充三は唇の端を上げ、笑った。

「幸政め、見張りにあないな小物を使うとは、幸隆も舐められたもんよの」

 どうやら充三は幻術を以て、屋根裏に潜む幸政の間者に、今し方置いてきた男を戌郎だと思い込ませたものらしい。充三は多彩な技を遣いこなす素破だが、なかでも幻術は得意とする技のひとつであった。

「さて、行くか」

 充三が歩き出した。戌郎もそれに続く。空は抜けるほどに青い。かなたに雲が大きく湧き起こっている。

 夕立が来るか……、と、戌郎は思った。我知らず立ち止まり、今来た道を振り返る。

 またこの道を辿ることがあるのだろうか……。

 かすかに頭を振るようにして往く先へと向き直る。村に背を向け、戌郎は再び歩き始めた。



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