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「戌郎、どうや、気分は。昨夜はちょっとだけでも眠れたか?」

 朝、粥を啜り終えた頃に鴇姫が小間を覗いた。

「用意した粥はみな、食べました」

 と、給仕してくれた女房が笑顔で言うと、鴇姫も微笑んだ。

「それはよかった。食べねば傷も治るまい。何か欲しいものがあったら、遠慮なく言うておくれ」

 いえ、と戌郎も笑ってかぶりを振った。また後で来るからな、と言い置いて鴇姫は去った。

 姫がどれだけ気に病んでいるだろう、と、そればかりが気がかりだった戌郎は、鴇姫の笑顔にほっとしていた。それは痛々しく無理に笑っているのはよくわかったが、それでも涙を見るよりは数段ましだったのである。

 戌郎も自分自身を責め続けていた。

 己れの不手際で、二度までも鴇姫を傷つけるところだった……。それどころか、運が悪ければ命をさえ奪われるところだったのだ。

 戌郎には自負があった。実戦の経験はなくとも己れとて黒髪村の一員、なまじな者どもに遅れは取るまいと思っていた。だが実際にはどうだ。年下の於仁丸には一矢も報いることなく腕を落とされ、天津の侍にも何の抵抗もできなかった。鴇姫が無事だったのも、自分がながらえることができたのも、相手に殺意がなかったというただそれのみが理由であって、おのが働きのゆえではない……。

 戌郎は目を閉じた。再び負うた傷の痛みが身を責め立てる。己れの無能さが、文字通り骨身に沁みた。


 戌郎はほどなく床を払い厩に戻ったが、痛めつけられた傷口は今度はなかなか回復しなかった。

 簡単な作業ならできる筈だったし、努めて働こうとしたが、屋敷の者は皆戌郎に対しどこかしら遠慮がちで、さながら腫れ物に触れるような扱いであった。

 それは鴇姫に対する遠慮でもあった。使用人に対し特に何も言わなかったが、鴇姫が戌郎を気遣っているのは、その態度、言葉の端々からいやというほど感じ取れる。だがその気遣いを気取られまいと努力しているのもよくわかるので、幸隆も重ねて注意はしかねたのである。屋敷の空気には奇妙な憚りがあり、戌郎にはそれもつらかった。何もかも、自分のせいだと思った。

 また、以前のようには動けないことも苛立ちの種になっていた。

 利き腕が使えない、というのはむろん大事だったが、それより堪えたのは、おのが身体が思う通りにならないことであった。

 腕が一本、それも肘から下がないだけで、これほどに身体の均衡を欠くものか……

 夜、村はずれの河原に集めた野犬の群の中で、戌郎は臍を噛む思いであった。

 床を払ってからこちら、こっそりと屋敷を抜け出したのは今夜が初めてではない。元々鍛え抜いた身体、すぐに隻腕にも慣れるだろうと高を括っていたのは初めのうちだけで、相も変わらず犬どもの牙を避けるだけが精一杯のていたらくだ。気持ちにも動きにも、余裕は全くなかった。

 瞬く間に息が上がってきたのも、病み上がりだけが理由ではないはずだ。思うに任せぬ身体をどうにか制御しようと、あちこちに無理がかかっているのを感じる。

 戌郎は犬どもに追われることに倦み、樹上に逃れた。これまでは児戯にも等しかったそれだけのことが、今の戌郎には一苦労であった。


 その日も中庭には、例によって槍稽古に余念のない真信がいた。

 どうと言うことのない雑用をすませた戌郎はその姿を認め、真信に近づいた。

「おお、戌郎。もうだいぶ良さそうやな」

 気付いて真信が笑顔を見せた。元々見目の良い真信だが、頬が上気し、若い肌は輝かんばかりだ。額に浮いた汗さえ美しい。一方戌郎は無精髭の手入れもままならず、うっそりと生彩を欠く、同じ年頃とも思えぬしおたれたありさまで、返した笑顔も心許なく見えた。

「うん? 何や?」

 戌郎が何かを訴えていることに気付いた真信が続けた。真信は戌郎の手話を、比較的よく理解するひとりである。それは真信自身の察しの良さに加え、戌郎に対する好意のゆえであった。真信は以前から、鄙臭く朴訥ながら有能なこの男に、なんとはなしに好感を抱いていたのである。

「……わしに稽古をつけてほしい、と……?」

 かすかに眉を顰め、怪訝そうに真信がただした。片手では今ひとつ、戌郎の伝えたいことがわかりにくい。戌郎は頷いた。

「戌郎、気持ちはわかるが」

 真信が口を開いた。

「まだ身体はほんまやないやろう? 鴇様もまずはしっかり傷を治せと申された、何も焦ることはないぞ」

 もう大丈夫です、と戌郎が示した。目の色が違う……と、真信は思った。どこが、と問われても答えようもないが、戌郎の目には何やら剣呑な光があった。

 戌郎は腰に差していた棒をおもむろに抜き、真信に向けた。戌郎のこうした強引なやり方をこれまで見たことがなかった真信は、再び眉を顰めると言った。

「それで槍に対するのか」

 戌郎が再び頷いた。真信は釈然としないまま、槍を中段に構えた。

 気合いと共に突き出すが、その動きは先に比べて鈍い。戌郎は難なくかわした。すかさず二の槍、三の槍を繰り出す。引くかと見せて薙ぎ払う。だがそれらはいずれも、戌郎にかわされ、あるいは受け流された。

 傍目には白熱した稽古に見えたかも知れぬ。だが真信の槍は明らかに生彩を欠き、戌郎は苛立っていた。

 再び繰り出された槍の穂先を潜るように、戌郎が一気に間合いを詰めた。真信の槍が稲妻の速さで反転する。石突が戌郎の顔面を狙い、伸びる。だが戌郎はすでに槍の間合いの外にいた。

 真信の心臓が一瞬止まり、次の刹那、汗がどっと頬を伝った。戌郎の手にいつの間にか握られているのは、腰に差していたはずの、己れの短刀である。

 見せつけるように短刀を構え、にっ、と笑ってみせた戌郎に、我知らず真信の頭に血が上った。

「ああ……!」

 槍の穂先に殺気さえ漲らせて打ちかかったその時である。戌郎が短刀を背に隠すと、唐突に頭を垂れ、跪いた。

「……っ!」

 真信は大きく息を引くと踏鞴を踏み、戌郎に突き入れるのをすんでのところで耐えた。

 はっと気づいて振り返る。そこにいたのは鴇姫である。鴇姫は真信が戌郎に、突き殺さんばかりの勢いで打ちかかったのを見てしまったらしく、蒼白になっていた。

「生田……!」

 呼ばわる声もひどく硬く、怒気を孕んでいる。

「そなた……! 何をしとるのや……!」

 言葉が終わるか終わらぬかのうちに戌郎が立ち上がり、大きく手を振りながら鴇姫に近づいた。何事かを必死で伝えようとしている。

 戌郎が短刀を両手で捧げ、鴇姫に手渡した。鴇姫が真信を見た。

「生田」

 再び鴇姫が真信を呼んだ。その声には、先の怒りはもうなかった。

「戌郎がふざけてそなたを怒らせてしもうたと……この脇差、そなたのものやそうやな」

 真信は顔も上げられない。押し出すように、ようやく答えた。

「は……」

「使用人が主の大事なものに手を出すなどとんでもないことや。何も知らず、大声を出したりしてすまなんだ。どうか許しておくれ」

「いえ……おそれ多うございます」

 真信は顔を伏せたまま、短刀を押し戴いた。戌郎は真信に対し深々と頭を下げると、鴇姫に従った。



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