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 音を立てぬよう、鴇姫は静かに小間の襖を閉めた。

「大丈夫でございますよ、お方様。あれは頑丈な男ですから……」

 卯兵衛が気遣うように声をかけた。

 鴇姫は卯兵衛に笑って見せた。が、その笑顔は見る間に頼りなく崩れ、歪んだ。

「鴇」

 と、やってきた幸隆が名を呼んだ。鴇姫は、

「戌郎のこと、よろしゅう頼みます」

 と言うと卯兵衛に向かって頭を下げ、幸隆の後ろに従った。


「皆も心配しとる。戌郎のことやない、そなたをや」

 夏の陽も既に低く傾いている。居室の障子は開け放たれていたが、室内はほの暗い。だがその中でも、向かいあった幸隆の眉を顰めた厳しい表情がわかる。

「……すみませぬ……」

 俯いたまま、鴇姫が応えた。

「そなたがあれを気にかけるのはようわかる。そなたにとってあれがただの下人やないことも、ようわかっとるつもりや」

 幸隆が低く続ける。

「すみませぬ……」

 と、消え入りそうな声が繰り返した。

「幸隆様の仰ることはようわかります……私が下人のあれに心を乱しては、他の者にも示しがつかん……。そやけどわたくしは……、あれはわたくしのせいであんな目に……」

「鴇」

 静かな声に厳しさが募る。

「では聞くが、そなたが泣いたら戌郎のためになるのか。戌郎を思うなら、なおのことしっかりと気を張って笑うとれ」

 鴇姫はもう応えなかった。いっそう俯くと、唇を噛みしめた。

「幸隆様」

 障子の向こうで、真信の声がした。

「何や?」

「島田様のお屋敷に、誰か遣いをやった方がよろしゅうございませんか? 何でしたら、わしが今から行ってまいりましょうか……?」

「おお、そうや。よう気付いてくれた。何も言わずに発ったゆえ、島田殿も心配しておられよう」

 小声で問うた真信に、幸隆は今気付いた風で応えた。

「島田殿とはまだ話の途中やった。わしが出向くゆえ、そなたは鴇を頼む」

 そう続けると鴇姫へ向き直り、

「鴇、少し出てくる。戌郎のことは気に病まず、今夜はゆっくりやすむのやぞ」

 と声をかけた。

「行ってらっしゃいませ。どうぞお気をつけて……」

 鴇姫が手をつき、頭を下げる。真信も深く一礼した。真信は終始顔を伏せたまま、一度も居室の中の鴇姫を見ようとはしなかった。

「生田、何かわしに言いたいことがあるか?」

 廊下を歩きながら、幸隆が問うた。

「いえ……」

 と真信は言葉を濁したが、ややあって、小さくひとりごちるように言った。

「鴇様が、お気の毒です……」

「聞いておったのか」

「申し訳ありません。立ち聞きなどするつもりはなかったのですが……」

「わしを狭量な男やと思うたか」

「……いえ。そのようなことは」

 顔を上げ、真信は即座に否定した。それから再び顔を伏せると、

「……わしは戌郎という男を見誤っておりました」

 と言った。

「あの男……。鴇様を守るためなら、何でもしましょうな……」

 真信の脳裏にあったのは、戌郎の手首の引きちぎられた縄である。だが幸隆は違うことを考えていた。


 ──せいぜい気をつけることや──

 ──寝とる間に、あれに喉笛を食い破られんとも限らんからな──


 鴇姫の愛も戌郎の忠誠も、幸隆は疑ってはいない。だがもし、己れが鴇姫を裏切るようなことがあったら……真実はそうではなくても、誤解でかそれ以外でか戌郎がそう断じたら……。

 幸隆はほんの刹那目を閉じ、今し方浮かんだ考えを心から押し出した。

 自分のような者に、信じるべき人間は多くはない。数少ないそうした者さえ信じ切れぬなら、この乱世は生きてはいけぬ筈であった。



 幸隆が屋敷に戻ったのは、夜も更けた頃である。卯兵衛と真信は起きてこれを待っていた。

「鴇はどうや」

 と、幸隆がまず聞いたのは鴇姫の様子であった。

「先ほどまで寝苦しそうにしとられましたが、今はお寝みです。……今日のことで、存外にお疲れやったのでしょう。一旦寝入れば、朝までお目は覚まされますまい」

 真信が答えた。しばらく幸隆の言葉を待っていたが、これが何も応えぬので続けて言った。

「島田様のご用向きは、どういったことやったのですか?」

 ほんの刹那の間を置いて、幸隆が答えた。

「水争いや」

「水争い……」

「一正殿のお屋敷近くの、天河村の話やが……」 

「それは……」

 と、真信も思い当たった。

「あそこは久間田領との国境、争いが大きゅうなって百姓どもが訴えて来たり、久間田が自ら介入して来たりすれば、難しいことになりましょうな」

「久間田勝重は村上忠興の縁者や。島田殿には遺恨がある」

 一正というのは今朝訊ねた島田一臣の父である。今は隠居の身だが先の村上家との戦で武勲を立て、褒賞として得た土地に新たに居を構えた。一帯は天津領の南に位置し、緩やかな斜面を持つ台地で、元々雨が少ない土地柄である。天津の中心からは遠く元々村上家のものであり、それ以前にはまた別の主があった。ことに天河村は国境の村であり、古くから主が煩雑に入れ交わる不運な土地だったのである。

「ことによっては戦になることもあろうと……。その時には手を貸して欲しいと申された」

「はい」

 真信も頷いた。島田親子が何くれとなく幸隆を気遣っていることを、真信もよく承知していたのである。

 戦になるやも知れん──。

 八卦見の言葉が、真信の脳裡をちらりとかすめた。

 あの八卦見が予言したのは、このことだったのだろうか? あの時真信は、八卦見のあの言葉にえもいわれぬ不安を感じたのだったが、蓋を開けてみればどうということはない、ただの水争いであったか──。

 いや、と真信は気を引き締めた。

 たかが水争いの百姓の加勢でも、命を落とすこともある。ましてや此度の相手には積年の遺恨がある。水争いを口実に、天津と久間田の全面的な戦にならぬとも限らぬ……島田一臣がわざわざ幸隆を呼び、「万が一のことあらば、手を貸してほしい」とあらかじめ伝えたのは、彼のひとにもそうした危惧があったからに違いなかろう、と真信は思い直した。

「もう夜も更けた。そなたも寝むがよい」

 表情を和らげ、幸隆が言った。おやすみなさいませ……、と真信が一礼し、去った。

 それを見送り、幸隆は寝間へと向かった。みしり……、と、時折廊下板がかすかに音を立てる他は、何の物音も気配もない。だが幸隆は、暗がりから姿なき者が自分を監視していることを確信していた。

 自分が屋敷を留守にしたこの日に戌郎を連れ去られたのは、偶然ではあるまいという思いである。

 なるほど番犬が弱ると、鼠ものさばるものか……。

 幸隆は縁側へ出ると、小さな声でギンを呼んだ。

 ギンはほどなくやって来た。尾を振りつぶらな黒い目で己れを見上げるこの犬を、濡れ縁に座り、妻がいつもしているように撫でてやりながら、幸隆は囁くように言った。

「おまえの主は当分は働けまい。頼むぞ、ギン。鴇を守ってくれ」

 ギンはただ尾を振り、幸隆を見つめるのみである。



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