23
音を立てぬよう、鴇姫は静かに小間の襖を閉めた。
「大丈夫でございますよ、お方様。あれは頑丈な男ですから……」
卯兵衛が気遣うように声をかけた。
鴇姫は卯兵衛に笑って見せた。が、その笑顔は見る間に頼りなく崩れ、歪んだ。
「鴇」
と、やってきた幸隆が名を呼んだ。鴇姫は、
「戌郎のこと、よろしゅう頼みます」
と言うと卯兵衛に向かって頭を下げ、幸隆の後ろに従った。
「皆も心配しとる。戌郎のことやない、そなたをや」
夏の陽も既に低く傾いている。居室の障子は開け放たれていたが、室内はほの暗い。だがその中でも、向かいあった幸隆の眉を顰めた厳しい表情がわかる。
「……すみませぬ……」
俯いたまま、鴇姫が応えた。
「そなたがあれを気にかけるのはようわかる。そなたにとってあれがただの下人やないことも、ようわかっとるつもりや」
幸隆が低く続ける。
「すみませぬ……」
と、消え入りそうな声が繰り返した。
「幸隆様の仰ることはようわかります……私が下人のあれに心を乱しては、他の者にも示しがつかん……。そやけどわたくしは……、あれはわたくしのせいであんな目に……」
「鴇」
静かな声に厳しさが募る。
「では聞くが、そなたが泣いたら戌郎のためになるのか。戌郎を思うなら、なおのことしっかりと気を張って笑うとれ」
鴇姫はもう応えなかった。いっそう俯くと、唇を噛みしめた。
「幸隆様」
障子の向こうで、真信の声がした。
「何や?」
「島田様のお屋敷に、誰か遣いをやった方がよろしゅうございませんか? 何でしたら、わしが今から行ってまいりましょうか……?」
「おお、そうや。よう気付いてくれた。何も言わずに発ったゆえ、島田殿も心配しておられよう」
小声で問うた真信に、幸隆は今気付いた風で応えた。
「島田殿とはまだ話の途中やった。わしが出向くゆえ、そなたは鴇を頼む」
そう続けると鴇姫へ向き直り、
「鴇、少し出てくる。戌郎のことは気に病まず、今夜はゆっくり寝むのやぞ」
と声をかけた。
「行ってらっしゃいませ。どうぞお気をつけて……」
鴇姫が手をつき、頭を下げる。真信も深く一礼した。真信は終始顔を伏せたまま、一度も居室の中の鴇姫を見ようとはしなかった。
「生田、何かわしに言いたいことがあるか?」
廊下を歩きながら、幸隆が問うた。
「いえ……」
と真信は言葉を濁したが、ややあって、小さくひとりごちるように言った。
「鴇様が、お気の毒です……」
「聞いておったのか」
「申し訳ありません。立ち聞きなどするつもりはなかったのですが……」
「わしを狭量な男やと思うたか」
「……いえ。そのようなことは」
顔を上げ、真信は即座に否定した。それから再び顔を伏せると、
「……わしは戌郎という男を見誤っておりました」
と言った。
「あの男……。鴇様を守るためなら、何でもしましょうな……」
真信の脳裏にあったのは、戌郎の手首の引きちぎられた縄である。だが幸隆は違うことを考えていた。
──せいぜい気をつけることや──
──寝とる間に、あれに喉笛を食い破られんとも限らんからな──
鴇姫の愛も戌郎の忠誠も、幸隆は疑ってはいない。だがもし、己れが鴇姫を裏切るようなことがあったら……真実はそうではなくても、誤解でかそれ以外でか戌郎がそう断じたら……。
幸隆はほんの刹那目を閉じ、今し方浮かんだ考えを心から押し出した。
自分のような者に、信じるべき人間は多くはない。数少ないそうした者さえ信じ切れぬなら、この乱世は生きてはいけぬ筈であった。
幸隆が屋敷に戻ったのは、夜も更けた頃である。卯兵衛と真信は起きてこれを待っていた。
「鴇はどうや」
と、幸隆がまず聞いたのは鴇姫の様子であった。
「先ほどまで寝苦しそうにしとられましたが、今はお寝みです。……今日のことで、存外にお疲れやったのでしょう。一旦寝入れば、朝までお目は覚まされますまい」
真信が答えた。しばらく幸隆の言葉を待っていたが、これが何も応えぬので続けて言った。
「島田様のご用向きは、どういったことやったのですか?」
ほんの刹那の間を置いて、幸隆が答えた。
「水争いや」
「水争い……」
「一正殿のお屋敷近くの、天河村の話やが……」
「それは……」
と、真信も思い当たった。
「あそこは久間田領との国境、争いが大きゅうなって百姓どもが訴えて来たり、久間田が自ら介入して来たりすれば、難しいことになりましょうな」
「久間田勝重は村上忠興の縁者や。島田殿には遺恨がある」
一正というのは今朝訊ねた島田一臣の父である。今は隠居の身だが先の村上家との戦で武勲を立て、褒賞として得た土地に新たに居を構えた。一帯は天津領の南に位置し、緩やかな斜面を持つ台地で、元々雨が少ない土地柄である。天津の中心からは遠く元々村上家のものであり、それ以前にはまた別の主があった。ことに天河村は国境の村であり、古くから主が煩雑に入れ交わる不運な土地だったのである。
「ことによっては戦になることもあろうと……。その時には手を貸して欲しいと申された」
「はい」
真信も頷いた。島田親子が何くれとなく幸隆を気遣っていることを、真信もよく承知していたのである。
戦になるやも知れん──。
八卦見の言葉が、真信の脳裡をちらりとかすめた。
あの八卦見が予言したのは、このことだったのだろうか? あの時真信は、八卦見のあの言葉にえもいわれぬ不安を感じたのだったが、蓋を開けてみればどうということはない、ただの水争いであったか──。
いや、と真信は気を引き締めた。
たかが水争いの百姓の加勢でも、命を落とすこともある。ましてや此度の相手には積年の遺恨がある。水争いを口実に、天津と久間田の全面的な戦にならぬとも限らぬ……島田一臣がわざわざ幸隆を呼び、「万が一のことあらば、手を貸してほしい」とあらかじめ伝えたのは、彼のひとにもそうした危惧があったからに違いなかろう、と真信は思い直した。
「もう夜も更けた。そなたも寝むがよい」
表情を和らげ、幸隆が言った。おやすみなさいませ……、と真信が一礼し、去った。
それを見送り、幸隆は寝間へと向かった。みしり……、と、時折廊下板がかすかに音を立てる他は、何の物音も気配もない。だが幸隆は、暗がりから姿なき者が自分を監視していることを確信していた。
自分が屋敷を留守にしたこの日に戌郎を連れ去られたのは、偶然ではあるまいという思いである。
なるほど番犬が弱ると、鼠ものさばるものか……。
幸隆は縁側へ出ると、小さな声でギンを呼んだ。
ギンはほどなくやって来た。尾を振りつぶらな黒い目で己れを見上げるこの犬を、濡れ縁に座り、妻がいつもしているように撫でてやりながら、幸隆は囁くように言った。
「おまえの主は当分は働けまい。頼むぞ、ギン。鴇を守ってくれ」
ギンはただ尾を振り、幸隆を見つめるのみである。