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「うぬの飼い主はよほどにうぬが可愛いようやの。呼ぶ前から飛んで来おったわ」

 振り向き、戌郎に上機嫌でそう告げた幸政に戌郎の顔色が変わった。

 濁った意識も瞬く間に冴えた。現れるなら幸隆だと思っていた。真信では幸政の相手にはならないからだ。幸政がおびき出そうとしたのは鴇姫なのには気づいていたが、幸隆はおらずとも、真信をはじめとする佐々家の面々が鴇姫を守ると信じていた。なぜ、鴇姫が自ら──。

 思わず起きあがろうとするのを、獄卒が張り飛ばした。間もなく耳に馴染んだ足音が気忙しく近づいて来た。それはひどく乱れていて、足音の主の胸中が手に取るように伺える。果たして現れた鴇姫は息遣いも荒く顔色もない。流れ落ちる汗で髪は頬に貼りついたまま、強張った表情は正気とも思えぬほどであった。

「これはこれは。また勇ましいなりで──」

 愉しそうに幸政が言った。鴇姫は小袖に馬乗り袴といういでたちであった。胸が激しく上下しているのは、息も継がずに馬を走らせて来たからか、それとも目の前の惨状に動転したせいか──。

 鴇姫の目は、大の字に縛められた、血まみれの戌郎に釘付けになっていた。幸政の揶揄など耳に入ろうはずもない。蔵内にたちこめた熱気、生臭い血の匂い。そして焼けた肉の嫌な匂いに、鴇姫の心は狂わんばかりであった。

「何を──」

 鴇姫は喘ぐように言った。声がかすれ、ひどく上ずっている。

「何を、なさっておるのです……!」

「この男、おとなしそうな顔をしてえろう強情やな。何を聞いても一言も答えんゆえ、ちと手荒になってしもうたかも知れん」

 鴇姫の表情が歪んだ。

「なんということを──! 戌郎は、く……、口が利けぬのに……」

 呻くようにそう言うと、庇うように戌郎のそばへと駆け寄った。

「これは口が利けぬのに! 何を聞かれても、責めたてられても……! 答えようがないではありませぬか……!」

「それは気づかず失礼した」

 悲鳴のように尖った鴇姫の声に対し、幸政のそれは気味が悪いほどの猫なで声である。

「わしとて唖のふたりや三人は知っとるが、どれもこれのように、泣き声ひとつ上げんということはなかったでな」

「…………」

「唖でも嬲れば悲鳴のひとつも上げるもんや。廻らん口で命乞いもする。ところがこれは命乞いどころか呻き声ひとつ漏らさん」

 幸政は鴇姫の怖気おぞけた様子に、にやりと歯を見せた。

「たまにおるのさ、そういうのがな。どんだけ責めても音を上げん……間者や刺客といった手合いがな」

 鴇姫の血の気が引いた。

「こ……、これは」

 心なしか声も震えている。

「わたくしどもの下人です。幼い頃からこのわたくしにつき従って参りました。そうした者では、ありませぬ……!」

 幸政は応えず顎をしゃくった。傍らの獄卒がかすかに頷く。

「おどきなされ」

 獄卒が近づいてきて言った。手には笞を持っている。柄巻きにした麻縄は血を吸って黒い。先刻まで戌郎を打ち据えていたものに違いない……そう思うと震えが来た。鴇姫は目を反らし、きつく唇を噛み締めた。そうしなければ、悲鳴を上げてしまいそうで──そして一旦声を上げれば、あとは恐怖に失神するまで叫び続けるに違いなかった。

「──どきませぬ……!」

 噛み締めた唇の間から、ようやくそれだけを言った。鴇姫は戌郎の、磔けられた躯の上に身を伏せた。

 幸政が目を細めた。唇が薄く引き伸ばされ、酷薄な笑みを形作っている。獄卒の目にも残忍な悦びが灯った。


 ──おやめくだされ!

 ──おどきくだされ!


 血を吐くような戌郎の叫びは、しかしやはり声にはならなかった。四肢に食い込んだ縄がぎしぎしと音を立てても、むなしくあがくのみである。

「戌郎、ええのか? うぬがいつまでも強情を張っておると、代わりにうぬの主人が打たれるぞ」

 幸政の声は心底愉しそうである。

「主が身を挺して庇ってくれとるというのに、うぬは自分さえ痛い目を見ぬならそれでええのか。どいてくれとも言わんとは、薄情な従者もあったものやな──」

 戌郎の全身からはどっと汗が噴き出した。笞が空気を鋭く切り裂く。鴇姫は歯を食いしばり、きつく目を閉じた。

 びちっ、という、肉がはぜる濡れた嫌な音がした。その刹那、蔵の空気が張りつめた。

「…………」

 獄卒はもとより、幸政も胡乱な表情のまま固まっている。鴇姫は背中に受けるはずだった衝撃の代わりに、自分を抱く強い腕を感じて戸惑っていた。

「……き」

 獄卒が裏返った声を漏らした。

 自分が振るった笞を、磔けられ、動けぬはずの囚人が掴み取っていた。ぎっちりと笞の先を握った拳から血がひとすじ流れ出た。その手首にきつく食い込んだままの縄もまた、赤黒い血に染まっている。それは半身を起こし自分を守ろうとした姫を欠けた腕で抱き締め、もう一方の手は笞を握ったまま、獄卒を睨めつけていた。

 黒い小さな影がいくつか、磔台の下から走り出て暗がりへと消えた。獄卒は手荒に笞を引いたが、それを固く握り締めた掌は開かなかった。先刻まで卑屈なほどに目を伏せ視線を逸らしていた囚人の双眸が、今は火を噴くような怒りと憎しみをたぎらせて、獄卒とその後ろに立つ幸政を射ている。

 獄卒の頬に、見る間に血が上った。

「きーさーまーァああ……!」

 獄卒が調子の外れた声を張り上げたその時である。

 騒がしい一団が足音高く近づいてきた。

「幸隆殿!」

「ご遠慮下さい! 幸隆殿!」

「どけい! 邪魔をするな!」

 怒号と共に蔵の戸が開いた。

「幸隆さま……!」

 戌郎に抱き締められたままの鴇姫が、首をねじり小さく声を上げた。一方戌郎は幸隆と続けて現れた真信の姿に気が抜けたか、笞を掴んでいた拳もゆるむと、その体がぐらりと傾いだ。

 幸隆は戸を開けた刹那に、そこで何があったかを見て取っていた。憤怒の白い火花が散り、目が眩んだ。

「戌郎!」

 思わず鴇姫は戌郎の背に両手を廻して支えようとした。が、支えきれずに一緒に台の上に倒れ込んだ。

「貴様……! わしの妻を打とうとしたか!」

 これまでにない激しさで叫ぶが早いか、幸隆は刀の柄に手をかけ、これを引き抜こうとした。

「なりませぬ、幸隆さま!」

「やめい!」

 真信が幸隆を押し止めるのと同時に、幸政の一喝が飛んだ。

「ここで抜刀すればただではすまんぞ!」

「……!」

 一刹那、兄弟の間に火花が散る。ぎり……っ、と奥歯を噛み締めると幸隆は長い息を吐き、一旦は抜きかけた刀をまた鞘に戻した。

「妻と当家の下人、お返しいただきましょう」

 幸隆は顔を上げ、幸政を見据えて決然と言い放った。

 幸政は弟の顔を睨めつけた。幸政に対しては常に一歩引いてきた幸隆だが、今日ばかりは恐ろしいばかりの気迫で押し返してくる。

 真信は幸隆のそばを離れ、鴇姫を気遣っていた。

「お怪我はありませぬか、鴇さま──」

 鴇姫は真信に手助けられて身体を起こしたものの、これもまたふたりの姿を見て緊張がゆるんだものか、台の傍らにへなへなと再びくずおれた。

 ふっ……、と、幸政が笑いを漏らした。

「ええぞ、解いてやれ」

 獄卒は不満げな表情を隠さず、のろのろと振り返った。真信はこれに手出しをさせず、戌郎の足首の縄を慎重に切った。腕の縄は皮膚を破り、文字通り肉に食い込んでいた。

「…………」

 真信は眉を顰めた。縄はよほどの怪力であっても、片腕で引いたくらいで切れるものではない。鴇姫を守るために、いったいこの男はどれだけの力を振り絞ったのか……。

「生田、肩を貸してやれ」

「わたくしはもう平気です。戌郎を──」

 言われる間もなく真信は、床に落ちていた戌郎の着物をこれに羽織らせ、その脇に腕を差し入れるようにして抱え上げた。

「早う行け」

 そう言った幸隆にかすかに頭を下げると、真信は蔵を出て行った。鴇姫は不安げに幸隆を見たが、これが頷くのを見、振り返りつつも真信と共に去った。

「見たか、幸隆。おぬしの嫁御、身を投げ出してあの下郎を庇いおった……妬けるのう」

 ふたりを見送った幸隆の背中に、幸政が笑い声とともに言葉を投げかけた。幸隆はただ、奥歯を噛み締めただけである。

「とんだ狂犬を飼うとるものや。あの男……。どんだけ責めてもしおらしゅう下を向いとったが、主を見た途端に牙を剥きおった」

 幸隆が幸政を振り返った。その表情は、感情を覆い隠したいつものそれに戻っている。幸隆は幸政の戯言には応えず言った。

「此度の仕打ち、いかなる理由によるものか、ご説明頂きたい」

「しらじらと……」

 幸政がまた笑った。

「先だっての狩りの日、おぬしの家では一騒動あったようやの」

「…………」

「わしの方でも、手の者が何者かに殺されてな……」

 弟の表情を透かすように見ながら、幸政は続けた。

「ちょうど一部始終を見とった者がおってな、わしに知らせてくれたのや。下手人は風体からして於仁丸や。……ところが聞けばそこには於仁丸のほかに、あの戌郎とやらもおったそうやないか」

 わざとか、幸政は鴇姫の名は伏せて言った。幸隆が幸政を見た。

「鴇をかどわかそうとしたこと、殿はお認めになるのか」

「知らんな」

 幸政は動じもせず、にべもなく言った。

「わしは宴におぬしの嫁御も招こうと使いをやっただけや。使いも男や。たいそう美しい女御ゆえ、つい良からぬ企みを抱いたのであろうよ」

「知らせてきたというのは何処の者ですか。それはなんで於仁丸に気づかれずにすんだのです。でまかせを言うとらんという確証はあるのですか」

 畳みかけるように問うた幸隆に、幸政はのらりくらりと答えた。

「どこの誰とも知れんわ。おおかた近在の百姓であろうよ。恐ろしゅうて遠巻きに見とったのやろうさ」

「…………」

 ほんのかすかに、幸隆は眉根を寄せた。

 於仁丸も戌郎も、並の人間とは違う。闘いのさなかで夢中であったとしても相手が遠巻きにしていたとしても、そこらの人間が盗み見ていることに気づかぬものだろうか──。

「おぬしこそ何や、わしが鴇姫を拐かそうとしたと? もしほんまにそう思うたのなら、なんでこれまで黙っとった」

 幸政のねちっこい問いに、幸隆もそっけなく返した。

「むろん、そんな訳はあるまいと思い直したからにございます」

「ご無礼つかまつりました──では」

 そう告げると、幸隆は踵を返した。

「せいぜい気をつけることや。鴇姫のあの飼い犬にはな──寝とる間に、あれに喉笛を食い破られんとも限らんからな」

 嘲笑を含んだ耳障りな声が追いかけてくる。幸隆はそれを黙殺した。



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