20
戌郎の回復はめざましく、心にかけて訪ねてくれた住持も舌を巻くほどであった。
「お住持さまのおかげでございます」
鴇姫が殊勝に礼を言った。住持はまんざらでもない表情になったが、いやいや、と手を振り、
「この男の気力が勝ったのでしょう。よう鍛えた頑丈な躯やが、最後にものをいうのはなんというても気力やでな」
などと言った。
「快癒の暁には、きっとお礼をさせていただきます」
門まで住持を送った鴇姫は、そう言って頭を下げた。戌郎の回復を助けたのは八卦見の薬でも、最初に命を繋いでくれたのはこの住持だという思いがあった。
「住持殿は機嫌よう帰られましたか」
槍の修練に余念のなかった真信が鴇姫を認め、庭先で声をかけてきた。
「戌郎がようなっとるのを喜んでくれました」
と、鴇姫が嬉しそうに応えた。
「それはようございました……」
真信も嬉しかった。戌郎が順調に回復し、それを鴇姫や幸隆が喜んでくれるなら、自分がはたいた大枚も無駄ではなかったと思える。
あの日鴇姫から預かったのは、百文のみであった。これだけあれば足りるだろう、と持たされたのだが、真信自身も過分だと思っていた。追加で差し出した砂金は、真信の私的な財産だったのである。
だがこれについて、真信は鴇姫に言うつもりはなかった。帰宅した真信は冷や汗をかきながら、見料と薬の代金に百文を巻き上げられたと報告した。鴇姫はただ微笑んで真信をねぎらい、大金を言い値で支払ったことについては何も言わなかった。
「それにしてもあの八卦見……。 がめつい奴やったが、膏薬は大枚を取るだけのことはありました。ほんまにたいしたもんや」
真信は本心から言った。真信はすでに初陣を済ませ、戦場で怪我人も見ている。だが戌郎ほどの傷を負って、こうまで早く回復した例を他に知らなかった。
戦場と屋敷……環境の違いや戌郎の体力、そして手厚い看護を考えに入れても、薬の効果には唸らざるを得ない。ことに傷がどれひとつ膿むこともなく治ったのには、心底感嘆したのである。
「戌郎がようなったら、大谿寺にお礼に参りましょう。その八卦見にも会うてみたい」
「はい」
真信様、と呼ぶ声がした。一礼して去る真信を見送りながら、鴇姫はあの日門付けに立った僧のことを考えていた。
笠を上げ、ほんの刹那、自分に見せたあの顔……。鴇姫には、それに見覚えがあった。いつか戌郎と黒髪村を訪ねた時に見た顔だ。名も知らず誰とも知れなかったが、確かに父の配下であった。
僧が教えた八卦見もまた、黒髪村の一員であるかは知らぬ。それは些末なことであった。黒髪村衆が信じる者は、自分にとっても信じるべき者だ。鴇姫は黒髪村衆を信頼していた。それは父が彼らを重用するのを幼い頃から見ていたからであり、何よりも村の一員である戌郎が、身を尽くし心を尽くして自分に仕えているのを知っていたからである。
狩りの日の一件のことは、あれ以来屋敷ではみな口をつぐんでいた。幸隆と幸政の間には、あるいはなんらかの応酬があったのかも知れないが、鴇姫に伝えられたことは何もなかった。
「…………」
小さく息をつくと鴇姫も踵を返し、小間へと向かった。
足音で察したものか、そこでは戌郎が寝床から半身を起こしており、鴇姫を見て居ずまいを正した。
「かまへん戌郎、寝とりや」
戌郎は左手を上げたが、しばらくの逡巡のあと、その指先は曖昧に空をなぞり再び夜具の上へと落ちた。
鴇姫が戌郎の顔を見た。戌郎は笑顔を返そうとしたが、それも模糊としたものになった。
「大丈夫や、戌郎」
鴇姫が傍らに座った。
「焦らずともよい。またすぐに、おまえの言うことはわかるようになるからな」
戌郎はますます顔を伏せた。守るべき対象である鴇姫から気遣われ立つ瀬もなかったが、鴇姫は優しく続けた。
「早う傷を治すことや。何も心配はいらん……」
そう言うと立ち上がり、言った。
「わたくしがおってはおまえも寝ておれんやろう。もう行くゆえ、ゆっくりおやすみ」
戌郎は頭を下げ、障子がぱたんと音を立てるまでそうしていた。廊下では鴇姫が、滲みそうになる涙を懸命に堪えている。
口の利けない戌郎は、これまで手振りで気持ちと要件を伝えてきた。その片腕を奪われたのだ。戌郎にとっては、言葉をも奪われたに等しい。鴇姫は戌郎の先刻の表情を思い起こしていた。
あんなにも心許なげな戌郎の表情を、これまで見たことがなかった……。
戌郎が口を利けぬことに、鴇姫はこれまでたいした気遣いをしてこなかった。幼い日に引きあわされた時から、それが「当たり前」だったからだ。はじめのうちこそ意思の疎通に苦労はしたが、すぐに慣れた。気の毒に……、と思ったのも最初だけだった。戌郎との間には、言葉など無用だとすら思えるほどだった。
だが戌郎自身は、自分の思いを言葉で伝えられぬことを、本当はずっと気にかけていたのではないか……?
はじめて鴇姫はそう思ったのだ。かいま見た戌郎の、弱った獣のような表情が、鴇姫の心を乱していた。
翌日。
この日は卯兵衛の女房が山菜を摘みに行くというのに、鴇姫が同行した。以前篝から薬草の見分け方を教えて貰ったことを思い出し、自分でも摘んでみようと思い立ったのだ。周囲は先の事件から日がそう経っていないこともあり止めたのだが、鴇姫は聞かず、また幸隆も、「怪我人の心配ばかりしていては心身にも障る。鴇にも気晴らしが必要やろう」と言い、警護として真信が同行することで卯兵衛も納得した。
幸隆はこの日、呼ばれて島田家に出向いていた。島田家の先代は一正といい、義父兼嗣の旧友であり、幸隆の理解者でもあったひとである。現在の当主は長子の一臣で、これもまた、幸隆に好意的なひとりであった。
早朝の冷えた空気を吸い込み、木々や下草の緑に心を洗われて帰宅した鴇姫を待っていたのは、耳を疑う出来事だった。
「お、お方さま……、生田さま……! い、今、お呼びに参ろうかと……」
「何事や? 何かあったのか?」
ひどく取り乱した風の卯兵衛に、鴇姫を制し、真信が訊ねた。
「さ、先ほど殿の使いやという方が来られて……その……」
卯兵衛はひどく言いにくそうに一旦言葉を切ったが、すぐに押し出すように続けた。
「戌郎を、……その、……つ、連れて行ってしまわれたので……」
「何……!?」
真信の声が厳しくなった。鴇姫の顔色も変わっている。
「も、申し訳ございません……! お止めしたのですが、あ、あの、……聞きたいことがあると申されて、その……。戌郎も……お、おとなしゅうついて参ったので……」
卯兵衛は話すそばから声も身体も痛々しいほどに小さくなり、何度も頭を下げた。
「それでよい、そなたらに何かあっては困る」
鴇姫は急いで言った。
「馬を引け。お館へ参ります」
「お、お方さま……」
色を失い、卯兵衛が呻いた。
「鴇さま、なりませぬ……! わしが参ります」
「お方さま! こ、ここは生田さまにおまかせして」
「いいえ、生田、そなたはこのこと、幸隆さまにお知らせしておくれ」
鴇姫はふたりの言葉を遮ったが、なおもふたりが言い募るので、とうとう叫ぶように言った。
「あの戌郎がおとなしゅう従ったのは、わたくしがためであろうが! こんなことになったのも、元はといえばわたくしのせい、ここで戌郎を見捨てたらわたくしはひとでなしや、もう生きてはおられませぬ!」
「…………」
真信と卯兵衛、それからその場に居合わせた他の者も息を呑んだ。
また間違った選択をしたかも知れない。それは鴇姫にもわかっていた。それでも、苦境に落ちた戌郎のそばへ行ってやりたかった。
鴇姫は袴をつけに足早に居室へと向かった。
佐々屋敷の門を、二騎が跳ぶように駆け出た。
一騎は天津館へ向かう鴇姫、もう一騎は島田屋敷を目指す真信である。馬上のふたりの胸には、そしてふたりを見送った者のそれにも、不安と怒りが沸き立ち渦を巻いていた。