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01


 山を錦と染め上げた秋空の下、於仁丸は山中深くせせらぎに腰を下ろし、篝の首を洗っていた。上流のこととて水かさは腰のあたりまでしかなかったが、流れは冷たく、身を切るようである。

 初めのうち、それはひどく苦しく、心の滅入る作業であった。腐った肉を剥ぎ、細かく砕いて川に流す。変わり果てた首が無惨で、またむごたらしく殺された篝を再び切り刻むようで耐え難く、於仁丸は吐き気と嗚咽をこらえながら手を動かしていたが、やがて白く小さな骨が姿を現しはじめた時、不思議な気持ちになったのだ。

 どんな姿になったとしても、篝はやはり篝だと思った。

 全てを奪われ剥ぎ取られたとしても、篝が於仁丸を愛し、於仁丸が篝を愛したその心までをも奪えるはずもない。手の中の小さな髑髏は愛しい篝自身であり、於仁丸と篝の想いの結晶であった。



 於仁丸がそうしていた頃、佐々家では招かれて出かけた旧友島田一正の屋敷から帰宅した兼嗣が、邸内の異様な雰囲気に眉を顰めていた。

 幸隆も鴇姫も、使用人までもが硬い表情で口数も少なく、座敷の天井には穴が開き軒裏も破れている。

「これは一体……」

 兼嗣は不安げにごちた。

「何があったのや……まさか……」

「いえ、ご心配には及びません。賊やかたきなどではありません」

 幸隆は努めて穏やかな表情を作って言った。

「心配するなと言うても、この有様では……」

 気遣わしげにそう言う兼嗣に、幸隆は重ねて言った。

「私も見知った者のしわざです。あれは、敵ではありません……」

 老人はまた口を開きかけたが、思い直した。彼は幸隆という人間をよく知っていた。

「……嫁御は怖がってはおらんのか……?」

 幸隆は微笑んだ。瞳に温かなものが浮かぶ。

「あれは情に脆うていささか泣き虫なところがあるが、頼りなげに見えて芯のしっかりした女です。大丈夫です」

「それなら良いが……」

 兼嗣は言い止し、気を取り直したように言葉を継いだ。

「おお、そうや。島田殿から栗をようけ貰うたのや。ちょうど裏山で拾うたばかりやと言うとった」

「それはええ。今宵は栗飯でも作らせましょう」

 幸隆は笑顔でそう言うと、「誰か」と呼ばわった。

 姿を現したのは戌郎である。幸隆は兼嗣の小姓が持っていた栗の包みを戌郎に手渡すと、台所へ持って行くようにと言った。

「……あれは口は利けんようやが……」

 と、戌郎の後ろ姿に兼嗣が言った。

「よう見ると隙のない身のこなしやな。それに気づくといつもそばにおる……。嫁御の下男やそうやが、ああ言う者をつけて寄越すとは雨宮智徳という御仁、なかなかに食えんおひとのようや」

「…………」

 幸隆は答えなかった。

 この老人も見抜いた戌郎とその主雨宮智徳の本質に、自分は昨夜まで気づかずにいた。それは我知らず戌郎を軽んじ、疎んじてもいたせいだ。今ならわかる……。

「あれはよう気のつく、使い勝手のええ男です。父上もどうぞかわいがってやって下さい」

 と、ただそれだけを言った。



 台所の女房に栗を渡した戌郎は、鴇姫の居室へと廻った。朝から何度目かの訪問である。

 しかしいつ訪っても障子はしっかりと閉ざされており、此度もその例に漏れず、戌郎はむなしく踵を返した。

 昨夜、呆然としている鴇姫をこの部屋に連れ戻った時、姫はいつにないしつこさで「あれは誰や、なんでここにおったのや」と訊きすがった。しかし戌郎は、それに答えなかった。否、答えられなかったのだ。

 鴇姫も侵入者が於仁丸であることには気づいたはずだ。望月が見まがうはずもない端正なかおをはっきりと照らし出していた。

 天井裏に潜んでいたこと、そして自分と与兵衛がためらわず攻撃したことで、鴇姫は間違いなく於仁丸を幸隆の敵と認識しただろう。しかしなぜ、於仁丸が「敵」なのか……。

 此度の事件、主君幸政の命を狙い、愛しい夫を陥れようとしたのは於仁丸だったのか……?

 それを鴇姫は確かめようと、執念くひとつことをくり返したのだった。

 姫はこの時まだ事の顛末を知らず、戌郎は己れの見知った事実を告げていいものかどうかを量りかねた。あらかじめ村で行われた与兵衛を交えての話し合いでは、篝のことは鴇姫には伏せておくことになっていたし、何より於仁丸と篝を気に入り思いやっていた鴇姫に経緯を告げるのが忍びなかったからだ。

「言えんのか──おまえは──。

 何のためにここにおるのや……!」

 とうとう鴇姫の噛みしめた唇から厳しい言葉が漏れたその時である。

「戌郎を責めるな。戌郎に聞かずとも、そなたも賊の顔は見たはずや」

 と、幸隆の声がした。

 どれだけの時間が経ったものか、いつの間にか幸隆が障子の外に立っていた。

「幸隆様……」

 鴇姫は顔を上げて幸隆を見た。何かいいたそうに口を開いたが、うつむき唇を噛みしめた。

「あの与兵衛とやら、戌郎の同朋やろう。違うか?」

「…………」

 鴇姫は答えなかった。何と答えていいのかわからなかったのだ。

「村の娘が殺されたそうや。あれが言うには、殺したのは殿と先に死んだ近従やということやった」

「…………」

「与兵衛の奴……そなたも見知った娘やと言うとった」

 鴇姫は弾かれたようにまた顔を上げ、幸隆を見た。それから──。

「篝か……? 篝が……」

 鴇姫は戌郎を振り返った。

「どういうことや──戌郎──」

 わななく声に、戌郎は苦しげに顔を背けた。

「知っとったな……おまえは……知っとって……」

 怒りと痛み。それは鋭い刃となって、鴇姫の言葉と共に戌郎の胸を刺した。

「なんでいわなんだ……!」

 言うが早いか、鴇姫は手を挙げ、戌郎の頬を打った。瞳からは大粒の涙が幾重にもこぼれ落ちている。

「やめんか!」

 鋭い声が飛んだ。嗚咽を堪えきれず、鴇姫はその場にくずおれた。

 幸隆が座敷に上がり鴇姫に近づいた。

「わしはあの男のことはよう知らん。あれががなんで今夜ここにおったのか、そなたにならわかるやろう……」

 姫の傍らに膝をつき、先とは打って変わった声で静かにそう言うと、幸隆は戌郎を振り返らずに続けた。

「戌郎、ここはもうええ。おまえもやすめ。……今夜はご苦労やった」

「…………」

 戌郎は小さく頭を下げるとその場を辞した。

 幸隆はこのあと鴇姫の肩を抱き、姫の傷ついた心を癒すだろうか。

 子細を打ち明け、この難事をふたりで乗り越えようと誓うのだろうか。

 鴇姫は──。

 戌郎は目を伏せた。

 鴇姫のことは、夫である幸隆に任せておけば良い。ふたりは信じ合い、思いあっている。自分の出る幕などない。

 戌郎が考え、為さねばならないことは他に山ほどあった。昨日の長い夜はそうして終わったのである。


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