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ほぼ半年ぶりの更新です^^; お待たせしまして申し訳ありません。
ふ……っ、と、意識が戻った。
視界が暗いのは瞼を上げることさえ出来ないせいだ。ただ、自分が屋内に寝かされているのはわかった。傍らには人の気配があるが、それはおそらく自分が目覚めていることに気づいていない。多分寝入っているのだろう、無防備な気配である。
戌郎は微かに身じろぎした。身を灼く痛みも苦しみも、まだ生きている証だ。それはとりもなおさず、鴇姫の無事をも示していた。
もし鴇姫の身に何かあったのなら───幸隆が自分をここまで連れ帰るはずがない───。
戌郎は混濁した意識のまま考えていた。否、考えようとしていた。だが意識はまとまろうとしてはほどけ、様々な思いがただ脳裡に浮かんでは消えるのみであった。ただひとつの思いを除いては──。
鴇姫を見失った時の胸がつぶれんばかりの不安。血にまみれた姿を見た時の目も眩むような衝撃。戌郎には、篝を無惨に奪われた於仁丸の痛みと怒りが今こそ骨身に沁みてわかったのだった。
──姫様に仇なす者は
──わしが、殺す──
於仁丸はむろんのこと、それが誰であっても、例え主の雨宮知徳でも、黒髪村の長であったとしても……。
戌郎は呻吟しながら、再び闇へと落ちていった。
朝、鴇姫が目覚めた時には、幸隆の姿はもうなかった。
怪我人を見舞うとそこにいた使用人に夫の所在を訊ねたが、夜も明けぬうちにどこへやら、真信と出かけたという。鴇姫はしばらく寝入ったままの怪我人を見つめていたが、やがて外へ出ると縁側に腰を下ろした。髪に手をやる。昨日の朝には確かに二本あった簪は、今は一本しかなかった。
あの野原でなくしたのだ。簪で使いの男の腕を突いたところまでは覚えているが、その後の記憶がない。鴇姫は我知らず怯えたような表情になった。昨日のことは、思い出したくない──。
その時、鴇姫の視界に、動くものがあった。
「──ギン! おまえ──幸隆様と一緒とは違うたのか……?」
見ると口に何か銜えている。鴇姫の簪である。鴇姫は思わず立ち上がるとギンに歩み寄った。
「おまえ……これを探して来てくれたのか……」
ギンの尾がさかんに振れている。昨夜の騒ぎではギンを気遣う者は誰もなく、土埃にまみれ、野犬の血を浴びたままのギンはひどいありさまだったが、鴇姫は身をかがめるとためらわずギンの首を抱いた。
「うわっ、ギン、なんやその汚いなりは!」
通りかかった使用人が頓狂な声を上げた。
「お方様……! 何をしとられますか、お召し物が汚れます」
気遣わしげにそう言うのに、鴇姫は
「すまんがギンをよう洗うてやっておくれ。それから何か、腹一杯食べさせてやっておくれ」
と、立ち上がりながら言った。
はあ、と曖昧に返事をすると、使用人は「ほれ、こっち来い」などと言いながらギンを連れて去った。
残った鴇姫は再び縁側に腰かけた。
簪はギン同様、ひどく汚れていた。鴇姫は脚と銅の飾りにこびりついた汚れを、愛しいものを撫でさするかのように指の腹で擦り落とした。
懸命に擦っていると、我知らず涙が滲んできた。己れの浅慮をどれだけ悔やんでも悔やみきれない。戌郎はおそらく助かるだろう。だが失った腕は、もう二度と元には戻らないのだ。
幸隆や他の者にも心配をかけてしまった。鴇姫には幸隆と兄、幸政の関係の悪化も気がかりだった。昨夜は取り乱して、言ってはいけないことを口走ってしまったという自覚もあった。そうでなくても幸政がああした手段に出た以上、今後夫と、その兄であり主君でもある幸政との確執は、一層強まるに違いない……。
俯いてそんなことを思い悩んでいた鴇姫の耳を、唐突に羽音が打った。
驚いて顔を上げた鴇姫の目に入ったのは、間近に舞い降りた隼の三郎である。
「────」
鴇姫は呆けたような表情で三郎を見た。手にした簪が揺れ、今汚れを落としたばかりの簪に朝の光が反射する。三郎がまた小さく羽ばたいた。
「三郎──」
言い止し、はっと何かに気づいたような表情になると、
「そこにおりや!」
叫ぶようにそう言い、鴇姫は自室へと急ぎ足で戻った。
文箱の傍らには書き損じの反故紙も大事に取ってある。鴇姫はそこから一枚を抜くと余白に小さく何やら書きつけ、墨が乾くやいなやその部分を細く切り取った。
縁側に戻ると果たして三郎の姿はすでになかったが、手にした簪を鴇姫が振ると、再び屋敷のそばの木立から舞い降りてきた。
「三郎! 来や!」
鴇姫の言葉を理解したか否か、三郎は庭木の低い枝に留まった。鴇姫は三郎の脚環のカンに、紙縒に撚った手紙をしっかりと結びつけ、袂で覆った手に三郎を据えて空へと放った。
「行け! 三郎、頼んだぞ……!」
あの夜戌郎が三郎の脚環に文を結びつけ、夜空へと放ったのを鴇姫は見ていた。同じことをすれば、きっと三郎は同様に、いずこかへと文を運ぶはずだ。そしてそこは、黒髪村以外にはあり得ない──。
三郎が蒼穹へと吸い込まれていくのを鴇姫は見送った。それから手にした簪に目をやった。鴇姫は戌郎がこの簪をくれた理由を、篝の件で傷ついた自分に詫び、慰めるためだと思っていた。だがきっと、そうではなかったのだ……。
屋敷に主の帰還を告げる声があった。鴇姫は簪を髪に挿すと踵を返し、表へと向かった。
「鴇」
「おかえりなさいませ」
そう言う鴇姫の声も穏やかで、昨夜とは違い、落ちついて見える。幸隆は内心ほうっと息をついた。
「膳が整うております。どうぞお召し上がりください」
卯兵衛の女房が顔を出し、言った。
幸隆はちらっと妻の表情を盗み見た。朝から真信と出かけた先は昨日の野原である。昨日の事件について何か手がかりはないかと戻ってみたのだが、面妖なことに、手がかりどころか転がっていたのは野犬の死体ばかりであった……。
だが鴇姫に何も訊ねる様子がないので、幸隆はただ
「おお」
とのみ返事をし、手を差しのべて鴇姫をうながした。
朝餉の後、鴇姫は再び戌郎を見舞った。戻った鴇姫に、
「様子はどうや」
と幸隆が訊ねた。
「はい。まだ熱も高うて眠ったままですけど、……呼吸も昨夜よりは楽そうやし、きっともう大丈夫やと思います」
鴇姫がそう答えると、幸隆も心なしか安堵したような表情になった。
「それにしても」
と、ややあって幸隆が口を開いた。
「ギンが迷わずそなたらを見つけたのにも驚いたが、戌郎も……。一度は見失いながら、ようそなたを見つけてくれた」
「それは……」
わずかに逡巡を見せながら、鴇姫がつぶやくように応えた。
「多分、三郎が知らせたのやと思います」
「三郎が?」
怪訝な声で幸隆が繰り返した。
「どうやって……」
鴇姫は微笑んだ。
「あれはわたくしに懐いておりますゆえ。きっとわたくしが駕籠に乗るのを見、案じてついてきてくれたのやと思います」
「…………」
幸隆はかすかに眉を顰めたが、重ねて訊ねることはしなかった。だが、三郎が鴇姫を常に見守っており、此度の変事をなんらかの方法で戌郎に知らせた、というのは、あながち荒唐無稽な想像とも思えなかった。於仁丸が屋敷に忍んできたあの事件の後、幸隆は言うに及ばず、長く従ってきた鴇姫にさえ見せたことのなかった三郎を佐々家の皆に披露したのは、それがためだった……と考えると納得できるのだ。
全ては鴇姫を守るため……どうしたやり方かはわからなかったが、隼に鴇姫を見守らせ、その言葉を聞くことも、きっと戌郎にならできるのだろう。
「旦那さま、お方さま」
卯兵衛の声に、幸隆は我に返った。
「戌郎が目を覚ましました」
ふたりは顔を見合わせると、弾かれたように小間へと向かった。