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「旦那様」

 と、小間の前で小さく声をかけてきたのは卯兵衛の女房・加代である。

「旦那様もお方様も、何も召し上がっておられんのではありませんか? これからでも、夕餉の支度をしましょうか……?」

 言われてみれば、朝餉のあとには何も口にしていない。だが空腹は全く感じていなかった。それどころではなかったのである。

「いや……」

 幸隆は一旦は断ろうとしたが、すぐに続けた。

「飯はいらんから酒を用意してくれ。鴇の部屋に、すぐにな」

 それから小間に入り、鴇姫に声をかけた。

「鴇、そなたも今日は大変やったやろう。今夜はもう、やすんだ方がええ」

「いえ、わたくしは───」

 と言いすのへ、卯兵衛も

「それがようございます。これはわしが、夜っぴいて看ておりますゆえ」と言葉を合わせた。

 さ……、と手を差しのべられ、鴇姫はためらいながらもようやく立った。

 鴇姫の居室には、すでに諸白もろはくが用意されていた。きれいに澄んだ最上の酒である。真信の居ずまいもそうだが、使用人の気遣いの先の香といいこの諸白といい、今さらながらに武人でありながら典雅を愛した故人の人となりが偲ばれた。

 傍らには夜具も敷き伸べてある。幸隆はまず自分が座り、鴇姫を誘った。

 肩を抱き、酒器を取って鴇姫にも勧める。鴇姫は初めのうち固辞していたが、強く勧められて一口含んだ。馥郁とした香りが鼻腔をくすぐり、喉をすべり落ちた熱が臓腑に沁みわたる。ほう……っと溜息を漏らした鴇姫に、幸隆が優しく笑いかけた。

「ゆっくり飲んだらええ。気持ちが落ちつくでな」

 幸隆に勧められるままに、少しずつ杯を空けた。鴇姫は頬をほんのりと上気させ、先にはいささか硬かった体も今はくったりと幸隆にもたせかけている。酒には慣れていないのか今日一日の緊張と疲れが一時に出たのか、いかにも心許なげな風情には幸隆の心がざわめいたほどだった。

「幸隆様、この手は……」

 鴇姫が幸隆の右手を見咎め、言った。見れば掌にひとすじ、赤い線がある。

「なんでもない。どこぞかでついたのやろう」

 幸隆は笑ってそう答えた。もうすっかり乾いていて、鴇姫に言われるまで気づきもしていなかったほどだ。多分、鎌を畳んで腰にねじ入れた時だろう。諸刃だったので注意したつもりだったが、やはり触れてしまったらしい。

 そう言えば、と幸隆はふと思い出した。

 戌郎の研いだ刃物は恐いほどによく切れる、と言っていたのは、卯兵衛だったか女房だったか……

「ご無事で良かった……幸隆様が大怪我をされたと聞いた時は、息が止まるかと思いました……」

 鴇姫が俯いたまま、小さく呟くように言い、幸隆は我に返った。白い指先が微かに震えている。幸隆は鴇姫に廻した腕に一層の力を込めた。

「それはわしが言いたい。あの野っ原でそなたを見つけた時、いやその前から、わしがどんな気持でおったか……」

 幸隆は一旦言葉を切ったが、ほんの少しの間を置いて言葉を継いだ。

「鴇……そなたは……わしが怪我をしたと言うて、そなたを呼びつけたりするような男やと思うたのか……?」

「思いませぬ」

 小さく、だがはっきりと鴇姫が答えた。

「そやけど使いの者にそう言われたら……、矢も楯もたまらんようになって一刻も早うお側にと思うのが、妻というものにございましょう」

「…………」

「……そやけど、此度のことは……」

 と、声を震わせ鴇姫が続けた。

「わたくしが愚かでした……わたくしのせいで、こんなことに」

「そなたは何も悪うない。気に病むな」

 みなまで言わせず、幸隆は鴇姫を抱きしめた。

「責めるようなことを言うてわしが悪かった。泣くな、鴇」

「───幸隆様」

 と呼ぶ声にえもいわれぬ艶めかしさを感じたのは、疲れた体に煽った酒が、幸隆自身にも思いの外効いたからかも知れない。

「今夜は、側にいてくださいますか……?」

 鴇姫が顔を上げ、幸隆に言った。大きな黒い瞳は露を含み、見つめられると吸い込まていくような心地になる。

「むろんや」

 幸隆は微笑み酒器を隅に押しやると、鴇姫の帯を解き表着うわぎを脱がせて夜具に横たえた。

 そして自らも袴を脱ぎ横になると、鴇姫を胸に抱いた。

「朝までこうしていよう。悪い夢がやって来ても必ずわしが遠ざけてやるから、何も心配するな」

 鴇姫は頬と身体をすり寄せてきた。その様はまるで夜の闇に怯える幼子のようであった。


 夜半。

 ふと目を上げた幸隆は、腕の中で寝息を立てている鴇姫を起こさぬようゆっくりと身を離すと、夜具からそっと抜け出した。

 小間からはかすかな明かりが漏れている。

 そこにいたのは真信である。入ってきた幸隆を認め、頭を下げた。

「戻ったか。卯兵衛はどうした」

「わしがついとるからと言うて下がらせました。一寝入りしたらまた来るでしょう。先に幸隆様にご報告をと思うたのですが、鴇様がご一緒でしたので……」

「うむ」

 幸隆は頷くと、真信の傍らに腰を下ろした。

 怪我人は苦しげに息を継ぎながら、目を閉じたままだ。

「村の外れでギンが死体をふたつ、見つけました」

 幸隆は何も言わず、真信は低い声のままで続けた。

「いずれも忍び装束で、ひとつは背中に苦無が、もうひとつは腹を裂かれ首を突かれて死んでおりました」

「……それで」

「ふたつとも草むらに隠し、着物は剥ぎ得物は抜いておきました。明日の朝までには、獣が始末するでしょう……すでにあちこち食い荒らされておりました」

「そうか」

 短く応えた幸隆は、戌郎に目を落としたまま言った。

「卯兵衛からあらましは聞いた。わしが怪我をしたと言うて、迎えの駕籠が来たそうや。そのあと戌郎の姿も見えなんだというから、これは駕籠の後をつけたのやろう。そのふたりというのは、おおかたこれを足止めし、あわよくば仕留めるつもりやったのに違いない」

 真信は戌郎が何者であるかを知らなかったが、この男に対する鴇姫と己が主の分不相応な信頼を見るにつけ、ただの下人ではあるまい……というくらいの気持ちはあった。死んでいたふたりのなりを見れば、彼らの後ろ暗い稼業しのぎにも見当がつく……。真信はあらためて怪我人を見た。

 そんな奴儕やつばらたおした戌郎、この男もまた、闇に跋扈するひとりではあるまいか───。

 だが真信は、自分の疑問は胸に畳んで訊ねた。

「これの腕は、その迎えが……」

「いや」

 幸隆が短く答える。

「於仁丸やそうや」

 それを聞いた時の幸隆がそうであったように、真信もまたひどく驚いた様子で顔を上げた。

「……では、鴇様を呼び出したのは於仁丸ということですか」

「おそらく違う。そなたもあの場で駕籠舁きやらの死体を見たやろう……あやつらを殺したのが於仁丸か戌郎か、それはまだわからんが……」

 幸隆はそこで短く息を継いだ。

「鴇には話を聞けなんだ。痛ましゅうてな……。明日にでも聞いてみるつもりや」

 真信は黙って聞いていたが、ややあってまた訊ねた。

「やはり、鴇様をかどわかそうとしたのは」

「それ以上、言うな」

 幸隆が固い声で制した。

 口をつぐんだ真信はしばらく黙っていたが、今度はひとりごちるように言った。

「ギンのやつ、戌郎の腕を持ち帰ろうとしていましたな」

「…………」

「畜生にさえ、心があるというのに───」

 燭台の仄暗い明かりが揺らめき、陰影をつくる。うめくようにそう続けた真信の横顔にも、くらほむらが燃え立つようであった。幸隆は眉根を寄せ、頬を引き締めると目を閉じた。

 どす黒いものがみなの内側を脈打ち流れはじめたのだと思った。憎しみという名の汚れた血が……。



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