16
ギンはまさに弓弦から放たれた矢の如く、ただ一点を目指し野を切り裂いていった。
やがて視界が開けた。背の低い草が茂る野っ原に幸隆が見たものは蹲る何ものかと、それを取り囲む野犬の群だった。
幸隆が矢をつがえるより先にギンが群の中に躍り入った。山犬のごとく猛々しく牙を剥き、稲妻の速さで身を翻しては野犬どもの喉笛に食らいつき、これを仕留めていく。常の人懐こくおっとりとした風情からは及びもつかない俊敏さと獰猛さに、馬上のふたりは目を見張った。
幸隆、そして真信も次々に矢を射かけた。幸隆の矢は確実に野犬の急所を捉えた。
「鴇!」
野犬どもを追い散らし、下馬した幸隆が大声で呼ばわる。
その声を聞いてか、鴇姫が己れを押し隠すように覆い被さっていた戌郎の下から這い出るように姿を現した。
「……幸隆様……!」
「無事やったか! ……良かった——」
手を差しのべ、そういいながら素早く鴇姫の様子をあらためる。血と土にまみれた着物はひどいありさまだったが、どうやら鴇姫自身の血ではないとわかり、幸隆はひとまず胸をなで下ろした。
「幸隆様……! 戌郎が……!」
「うむ」
膝をつき、戌郎を抱きかかえて仰向けた。黒い血に汚れたその顔は蒼白で、呼んでも応えず、心配そうに寄ってきたギンがしきりに手を舐めるのにも反応しない。
「しっかりせい、戌郎! おまえは鴇を見捨てるのか! 放り出してもう守らぬのか!」
ぴくり、と左手に握った鎌の刃先が動いた。
「ゆ……幸隆様……」
鴇姫の目から涙が溢れる。
「戌郎……! 目を、開けて……!」
「く……」
固く握りしめた戌郎の手指をやっとの思いでほどくと幸隆は鎌を投げ捨てようとしたが、それが諸刃であることに気づき、畳んで袴の腰にねじ入れた。それから戌郎の左袖を引きちぎるようにすると、それを幾重にか折り畳み戌郎の右腕の傷にきつく押し当てて覆い、腕の付け根を縛った紐を解いて上から巻き上げた。そして着物の懐にその手をつっこみ帯を一旦解いて戌郎の体に固定し、真信とふたりで、これの馬に引っ張り上げた。真信はぐったりと意識のない戌郎をしっかりと抱きとめ、幸隆自身は鴇姫を前に乗せ後ろから手綱を取った。
鴇姫の髪、そして着物に染みついた、ひどく血なまぐさい匂いが鼻をつく。幸隆の心には、わけのわからぬ怒りが突き上がってきた。
「ギン!」
振り返るとギンが山犬どもの骸の中から、何やら引っ張り出そうとしていた。それが何かを見て取った幸隆は鴇姫の目を己れの手で覆い、叫んだ。
「捨てろ! それはもう、役には立たぬ!」
ギンが引っ張り出してきたのは、血まみれのボロ切れのようなものがまとわりついた、赤茶けた棒きれである。それを口にくわえたままほんの少しためらう素振りを見せたが、ぽとりと落とすと、ギンもまた駆けだした馬を追い走り始めた。
佐々屋敷では、血まみれの主従の帰還に騒然となった。
「だ、旦那様……ご無事で……? これは、いったい……」
「話は後や! 水を汲め! 湯を沸かせ!」
ばたばたと怪我人を運び込む合間に、幸隆は
「卯兵衛!」
と、ごま塩頭の使用人頭の名を呼び、
「女房に言うて、鴇の体と髪を洗うてやってくれ」と気ぜわしく続けた。
「は……」
「幸隆様……! わたくしは、戌郎のそばに——」
「戌郎が気づいたとして、そなたのそのなりを見て喜ぶと思うか。ええから早うその血を洗い流してくるのや」
幸隆の険しい表情と声に、鴇姫も思わず言葉を呑んだ。
「卯兵衛はわしを手伝うてくれ」
「はい」
卯兵衛はそう答えると、鴇姫には
「さ、お方様……。 すぐに湯を立てますから」
気遣うようにそう言い、鴇姫を誘い裏へと去った。
卯兵衛が戻ると、戌郎は裏に薄い筵を敷いた上に横たえられ、着物を解かれていた。気付けに熊肝を含まされても朦朧としたままで、すでにあらかたの血は止まっているとはいえ、その身もどす黒く汚れてひどいありさまである。切られた右腕の先端を覆う布はそのままだったが、そこにはじくじくと血が滲み、滴り落ちんばかりであった。
「旦那さま」
「傷を洗う。手伝うてくれ」
たっぷりのぬるま湯で傷を洗い、こびりついた血を流す。幸隆は凝まった血を溶かさぬよう用心深く腕の傷を拭い、卯兵衛は体の傷と汚れを洗い落としていた。
「……惨うございますな……。この男……助かりますのか……」
肘から中ほどを失った右腕、そして浅手だが全身に散らばった刀傷と噛み傷に、卯兵衛は眉を顰めた。幸隆は険しい表情のまま、答えなかった。
傷を洗って小間に運び込んだ頃に、真信がひとりの男を伴い屋敷に戻った。近隣に住む住持だが、戦の際には金瘡医として従ったこともあるひとである。幸隆はこの男を見るなり言った。
「どうか救うてやってくだされ……! お頼み申す」
切々とした声に住持はもとより、真信も卯兵衛も胸を衝かれた表情になった。
「……まずは傷の手当てです」
住持はそう言うと戌郎の傍らに膝をつき、持参した薬籠の蓋を開けた。
鴇姫がやって来た時には住持はすでに去り、戌郎の全身は晒に覆われていた。
「戌郎……!」
転ぶように枕元にひざまずくと、眉根を寄せ苦しげな戌郎の頬を撫でた。呼吸が弱く、今にも途切れそうだ。幸隆はそっと鴇姫を見た。髪はまだしっとりと露を含んでいたが、微かに香のよい匂いがした。どうやら卯兵衛の女房が気を利かせたらしい。戌郎を見つめる鴇姫の目からは、涙が次々にこぼれ落ちている。鴇姫は泣きはらした、真っ赤な目をしていた。
「戌郎……お願いや……目を開けて……」
頬を撫で、髪を撫でながら、嗚咽混じりにそう繰り返す鴇姫に、幸隆は訊ねるともなく言った。
「戌郎の腕を落としたのは誰や。……殿の手の者か」
いいえ、と鴇姫は首を振った。
「於仁丸です。……於仁丸が、戌郎をこんな目に……」
幸隆は思わず顔を上げ、鴇姫を見た。鴇姫は幸隆の驚きにも気づかぬげに、戌郎に視線を落としたまま続けた。
「そやけどわたくしは……、……於仁丸を憎む気には、なれん……」
「……鴇」
「於仁丸かて、篝を殺されたのやないか……。殿が篝を殺しさえせなんだら、こんな……、戌郎と於仁丸が殺しあうようなことには、ならなんだのや……」
「鴇、やめろ……!」
「……もし、戌郎が死んだら——」
幸隆が低いが厳しい声で制した。だが鴇姫は噛みしめた唇の奥から、うわごとのように続けた。
「わたくしは……、殿を決して、許しませぬ……!」
幸隆は暗澹たる気持ちになり、奥歯を噛みしめた。野原で嗅いだ鴇姫に染みついた血の匂いと、そのとき突然突き上げてきたどす黒い怒りを思い出した。
あれは、鴇姫を染めた憎しみの匂いだったのだ——と、幸隆は思い当たった。
怒りはその憎しみ自体に対してか、それとも鴇姫を憎しみに染めた、その大元に対するものか——
旦那様、とその時使用人が幸隆を呼んだ。
「坂下殿と仰る方がおみえです」
「…………」
幸隆はいぶかしげに眉を曇らせた。坂下というのは、今日狩場で話しかけてきた足軽組頭である。真信が出かけていたので、幸隆自身が応対に立った。
「かような時刻に申し訳ない」
と、幸隆を見るなり坂下は頭を軽く下げた。
「別れ際の佐々殿の様子が、どうにも気にかかって……何かありましたのか……?」
かすかに酒の匂いがする。どうやら酒宴の帰りらしかった。
「いや」
幸隆は短く言った。
「何もあり申さん。……急な用事を思い出したゆえ、礼儀もわきまえず失礼いたした」
「…………」
辺りはすでにとっぷりと暮れ、手燭の明かりでは坂下の表情はよく見えなかったが、納得しかねている様子はよくわかった。屋敷の空気がざわついているのは、酔客の身にもありありと伝わっているはずだ。だが幸隆はかまわずに言葉を続けた。
「お気遣いには心より感謝する。しかし心配は無用や……今夜はもう帰られよ」
「……佐々殿」
「坂下殿」
と、幸隆は格下のこの男に呼びかけた。
「今夜当家へ参られること、先にどなたかに話されたか? あるいは……例えばそなたの主に言われて来られたのか……?」
「いえ」
坂下は怪訝な表情で答えた。
「わしの一存です。殿にも誰にも、何も言うてはおりませぬ」
幸隆は微かに頬を緩めた。だが眼光は鋭い。狩場でも見ることのなかった、勁い光である。
「それがええ。今夜当家を訪ねられたこと、誰にも言いなさるな。それが御身のためや」
坂下はひどく落ちつかぬげな表情になったが、それ以上は何も言わずに去った。幸隆も小間へと戻った。




