15
野っ原に蹲った鴇姫と立っている男が目に入った時、戌郎の頭に血が上った。無我夢中で刺刀を撃った。男の長い髪が翻り、戌郎はそれが於仁丸であることを知った。走りながら間髪を入れず、刺客の懐から奪った手裏剣を撃つ。
「戌郎……!」
鴇姫は立ち上がり、転がるように戌郎へと駆け寄った。
自らも鴇姫に駆け寄った戌郎は、これを庇うように後ろへと押しやった。
血に汚れた鴇姫の姿に肝が冷えたが、次の瞬間にはそれが他人の血であることを見て取り、戌郎は安堵した。だが危機が去った訳ではない——。
むしろ、危機は目の前で大きく影を広げていた。
幸政の手の者ならなんとかなる、と戌郎は思っていた。だが於仁丸が相手とは。
今の於仁丸は紛うかたなき「敵」だ。頭ではわかっている。だが……。
戌郎は奥歯を噛みしめた。一方於仁丸の目には、戌郎を見ても何の動揺もなかった。復讐の炎だけがそこにあった。
鴇姫の目は於仁丸の足元に転がった包みを見ていた。褪せてはいたが、それは忘れ得ない己が小袖の袂だ。そして……。
「…………」
その包みからわずかに見える白いものが何なのか、鴇姫は気がついた。涙が頬を伝った。
それは戌郎の目の端にも入った。だが戌郎は視線を於仁丸に据えたまま、これと睨みあっていた。
「やっぱりお優しいおひとや、鴇様は。篝のために泣いてくれるのか……」
於仁丸は微かに口元をゆがめると、やはりその目は戌郎に据えたまま、手を伸ばしてその包みを拾い上げた。肩にかけていた布を解くと包み直し腰に結び、それから
「戌郎、久しぶりやな」
と、唇の端に笑みを乗せて言った。だがそれは、戌郎の中にある於仁丸の闊達な笑顔とは、似ても似つかぬものだった。よく見知ったごく親しい者の貌を持ちながら、目の前の於仁丸は得体の知れぬ者の不気味さを纏っていた。
「えろう遅かったやないか……何や、そのなりは。大事な鴇様から目を離して、どこで道草食っとった」
戌郎の眉がつり上がった。噛みしめた奥歯がぎしっ、と鳴った。於仁丸に言われるまでもない。そこに転がっている死体を見れば、この場で何があったかは容易に察しがついた。
於仁丸の意図は不明とはいえ、この男がいたから鴇姫は無事だったのだ。少なくともここまでは。於仁丸がいなければ、自分は間に合わなかった——。
「い……、戌郎……」
己れが浴びたのは他人の血だが、戌郎を汚したそれは他人のものばかりではないのに気づいた鴇姫は、思わず上ずった声を上げた。だが戌郎は反応しない。戌郎は諸刃の鎌を構えたまま、於仁丸の指先に神経を集中していた。
噴き上がるようなふたりの殺気についに耐えられなくなったのか、鴇姫が動いた。
「やめておくれ……! なんでふたりが殺し合わなならんのや! おまえらは——同朋やないか——!」
涙声でそう叫び、ふたりの間に割って入ろうとした鴇姫に、戌郎は思わず気を取られた。
空いた手を上げ鴇姫を制そうとした戌郎の一瞬気の抜けた右腕、その肘と手首の中ほどを夜条が捉えた。
「!!」
戌郎の体が衝撃に跳ね返った。
ひ……っ、とひきつけるような息が、鴇姫の両手で覆った口から漏れる。すでに夜条はぎちぎちと肉に食い込み、戌郎の足元には幾重にも血がしたたり落ちていた。
「戌郎、おまえはほんまにどうしようもない……」
於仁丸が夜条を引き絞りながら歯を見せた。
「その程度で、よう鴇様の守役が勤まるな」
於仁丸の嘲るような言葉も耳に入ったかどうか、同じく夜条に絡め取られ思うにまかせぬ左手に鎌を持ち替え、己が肉に食い込んだ黒い糸を断ち切ろうとしたその刹那、戌郎の右腕が飛んだ。
突然右腕の肘から下を切り飛ばされ、均衡を失った体が大きく傾ぐ。なんとか踏みとどまった戌郎は鴇姫を自分の後ろへ押しのけるようにすると、火を噴くような眼で於仁丸を睨めつけた。
ばっくりと剥き出しの傷口からは、脈打つように鮮血が噴き出している。鴇姫は両手の指が白くなるほどの力で、己が口をしっかりと覆っていた。そうして吐瀉物のように喉まで膨れ上がった悲鳴を、必死に抑え込んでいる。血の気が引きくずおれそうになる体を、鴇姫もまた懸命に支えていた。
戌郎が耐えているのに、このわたくしが倒れて何とするのだ。これ以上、戌郎の足手まといにはなれない——
戌郎は於仁丸を睨めつけたまま、帯の下に巻いていた紐を引き出し手早く解くと、これを右腕の根本に巻きつけ力任せに締め上げた。噴き出していた血の勢いは消えたが、戌郎の全身をすでに冷たい汗が濡らしている。
不思議に痛みは感じなかった。だが大量の血を一気に失ったことで目は眩み、鼓動が激しくなっていた。
「…………」
自分の体が全く思うようにならない。まるで木偶にでもなったかのようだ。戌郎の額を、先とは違う汗が伝った。
野犬の吠声が近づいてきた。どうやら血の匂いに誘われたらしい。
「どないした。立っとるのがやっとのようやないか……」
今や於仁丸は構えもせず、再び戌郎に声をかけた。その声にはどこか、以前の親密さがあった。
「集まってきたな……谺を遣うか戌郎。そのざまで、犬どもから鴇様を守れるのか」
「…………」
戌郎の表情が険しく歪んだ。野犬の数は相当に多そうだ。於仁丸の言う通り、己が得物——獣を御す音なき「声」——谺を遣えば、於仁丸はもしかしたら倒せるかも知れない。だが傷つき朦朧とした今の自分に数多の野犬を御しきれるのか、それどころか血に狂った野犬どもから鴇姫を守れるのかどうかさえ、戌郎にはわからないのだった。
鴇姫は一言も言葉を発せず、身じろぎさえしなかったが、怯えが手に取るように背中から伝わってくる。それも戌郎の心を締めつけていた。
ふ……っ、と於仁丸が息を抜いた。表情がかすかに緩む。
「死にかけの手負いと女ひとり……ここで仕留めるはたやすいが、おまえらの死に目を篝には見せとうない。——戌郎」
於仁丸の両腕が大きく動いた。ざざ、という葉擦れの音と共に背後の竹がしなると、於仁丸に覆い被さってきた。
「また会おう……おまえの命があったらな」
たわんだそれが再び伸びようとする時、於仁丸も宙に跳んだ。
「戌郎……!」
がっくりと膝をついた戌郎の肩に、鴇姫は抱きしめるように腕を廻した。
血の匂いを嗅ぎつけ、野犬の群がふたりを遠巻きにし始めている。
戌郎の口が大きく開いた。犬どもが怯えたように、大きく後退した。
自分が正気を保っているうちは、谺で犬どもを遠ざけるくらいはできる。だがいつまで保つか……。
戌郎は血にまみれた、折られた枝のような右腕を鴇姫の背に廻すと、鴇姫の顔を胸に押しつけその視線を遮った。
切り落とされた己れの腕を拾いあげ、それを再び牙を剥き、うなり声を上げながら間合いを詰めてくる野犬の群へと投げ込む。わっと何頭かがそれに飛びついた。狂ったような犬どもの騒ぎに、鴇姫の体が大きくわなないた。戌郎は素早く手を伸ばして鎌を拾い上げるとそれを握りしめ、鴇姫を庇うように抱きしめて身を伏せた。
於仁丸が去り気が抜けたせいか、焼け付くような激痛が戌郎を責め苛んでいた。それなのに体は重く砂のように崩れ去ろうとする……すでに意識が濁りはじめていた。
「……戌郎……戌郎——」
戌郎の激しく浅い息遣いに、鴇姫は何度も名を呼ばずにはいられなかった。戌郎からは、むせ返るような雄の獣の匂いがした。それは血と汗、それから今までは知らなかった戌郎自身の体臭がないまぜになったものだ。
「…………」
戌郎の唇がゆがむ。
鴇姫は戌郎の喉がひゅう、とかすかに鳴るのを聞いた。
虎落笛にも似た甲高い、哀しい音。とぎれとぎれに繰り返し聞こえたそれは空気を震わせ、何か彼方にいる者を呼び寄せようとしているかのようであった。