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13


 日が傾き始めた頃、一行も帰宅の途に着いた。

「幸隆様、おまえさまの犬がおりませぬ……」

 支度をすませ幸隆が騎乗しようとしているところに、犬飼がそっと近づいてきて耳打ちするように言った。その顔には色がない。

「大事ない。もう狩りも終わったゆえ、あれももう帰るつもりでそこらにおるのだろうよ」

 幸隆が笑ってそう答えると、犬飼の頬にようやく赤みが差した。

「そうでしょうか……それならよいのですが」

「あの犬のこと、殿や皆には内密に頼む」

「……はい」

 犬飼は頷くと、

「それにしてもあの犬、よう仕込んでありますな。役割をようわかっとるし、獲物も決して食おうとはせん。幸隆様が仕込まれたのですか」

 と訊ねてきた。

「いや」

 幸隆は短く答えた。

「あれは妻が実家さとから連れてきた犬でな。普段は屋敷で妻の話し相手になっとるだけや。……そうか、そないにええ犬か。それは今まで勿体ないことをした」

 そう言って笑うと、犬飼も気の緩んだ笑顔になり

「ほんまにございますよ。これからは狩りに精を出すのがよろしゅうございます」と軽口を言った。

 ギンは幸隆の言葉通り、一行から少し離れた草むらの中にいた。そこは風下で、やがて動き出したよく知る匂いに追随していたが、小半時も立たぬうちにぴんと耳をそばだてた。次の刹那、ギンは一行に向かって駆けだした。


「うわ……っ!」

 一瞬、幸隆の馬の足元を巻くようにして影が走った。驚いた馬が立ち上がり、それにつられたか真信の馬も唐突に立ち止まって前足を上げた。

 声を上げたのは真信である。影がふたりの前を行く他の馬の足元をすり抜け駆け去ったので、その場は一瞬騒然となった。

 いち早く馬を御した幸隆が、その尻に笞を叩き込んだ。馬が駆けだすと同時に、眼前を走る影を見据えたまま叫んだ。

「生田! 来い!」

「……っ!」

 真信は一瞬周囲を気遣う素振りを見せたが、「ご免!」と叫ぶと馬を駆り、主の後を追った。

 残った者は呆然としている。

「……何事や……」

「よい。放っておけ」

 幸政が口元を歪めて言った。

「今宵は館で、獲物を肴に酒盛りや」

 一行は落ちつかぬ面持ちながら、再び馬を進めはじめた。



 幸隆と真信が影を追い、馬を駆って走り出す一刻ほど前のことである。佐々屋敷の門扉を叩く者があった。

「お、お、お方様……!」

 応対に出た者があわてふためき鴇姫を呼ばわった。

「だ、旦那様が……! 大怪我をされたと……!」

「何……!?」

「猪めに突かれてひどいお怪我です。近くの寺に運びましたが、傷が深うて動かせませぬ。鴇様をお連れするよう申され、お迎えに上がりました。さ、早うなされ」

 見れば使いは笠を被り、射籠手もつけたままである。鴇姫は蒼白になった。

 裏で聞いていた戌郎の胸には一瞬、罠ではないか、という思いがよぎった。鴇姫にもそれは同様であったかも知れない。しかし鴇姫は即座に

「すぐに参ります」

 と答えた。戌郎も素早くその場を離れた。

「わ……私も一緒に……」

 と、白髪混じりの使用人頭が言うのに、鴇姫は言下にこれを退けた。

「なりませぬ。そなたは留守を頼みます」

 ほどなく鴇姫を乗せた駕籠が走り出した。戌郎は手近にあった鎌を帯にたばさんだだけでこれを追った。懐には苦無がある。万が一の備えとしてはどうにも心細いが、鴇姫を見失う訳にはいかなかった。

 駕籠舁きと騎乗の使いに気取られぬよう後を追ったが、集落を出た辺りで背後から殺気が奔った。戌郎は飛びすさるとその殺気に向かって苦無を撃った。

 どさり、と重い音がした。だが殺気は消えていない。それは戌郎と駕籠の間に姿を現した。

「……先には行かせん」

 面を隠した忍び装束である。言葉には微かな違和感があった。

 余所者か……、と頭の隅で考えながら、戌郎は鎌を引き抜き大きくこれを振った。鎌の刃が開き、留め金がかかる。峰にも刃を立てた諸刃の鎌である。

 男は得物も取らず一気に突っ込んできた。戌郎の鎌が風を切る。男は鎌を左手で受けた。がきっ、と金臭い音がし、戌郎の腕には肉ではないものを叩いた衝撃が走った。その刹那、男は馬手めて差しにした短刀を引き抜き、戌郎の腹をめがけて突き出してきた。刺刀サスガである。

 男の左手にかかったままの鎌を支点に、戌郎の体が反転した。

「ちいっ!」

 男はよろめき、鋭く舌打ちした。

 このまま振り切るか、と戌郎は一瞬考えたが、次の刹那には身を翻し、男に向かっていた。

 やはりここで、これの息の根を止めねばならない。

 鴇姫を思うと不安に胸が裂けそうだが、自分が今これを振り切ればこれは戻って佐々屋敷の者に害を為すかも知れず、また己が飼い主には間違いなく戌郎が何者であるかを告げるだろう。それはどうしても避けねばならなかった。

 幾たびかふたつの影が交差し、離れる。戌郎は焦っていた。男は戌郎が自分を振り切ろうとはしていないことを見て取ったか、最初の攻撃の後は組み合おうとはしなかった。男の第一の目的は戌郎を足止めすることだ。戌郎には時間がなく、逆に男には持て余すほどの時間が与えられていた。

 何を思ったか、戌郎は突然背にした灌木に鎌を突き立てた。両手が次々に印を切っていく。

「何のマネや」

 口元を歪め、丸腰の戌郎に襲いかかろうとした男に、草むらから突然飛び出してきた数匹の野犬が襲いかかった。

「何や──」

 むろん野犬に怯むような男ではない。だが野犬に気を取られた一瞬を戌郎は見逃さなかった。切られた野犬を目くらましに、ひと飛びで男に肉薄する。いつの間にか戌郎の手にあった苦無が、深々と男の下腹を抉った。

 が……っ、という、獣のような声が男の口から、血の泡とともに吐き出された。たたらを踏んだ男の刺刀を握ったままの右手首を掴むと、戌郎はそのまま刺刀をまっすぐ持ち主の首に突き立てた。

 倒れた男の懐を探り手裏剣を抜き取ると、刺刀も引き抜いて駆けだした。駕籠の姿はとうにない。駕籠が去った方向に向かって駆けながら、戌郎は鋭く指笛を吹いた。


 駕籠の中の鴇姫は、膨れ上がる不安と疑念を御しきれずにいた。

 大怪我をしたと言われ、矢も楯もたまらず促されるままに駕籠に乗ったが、考えれば考えるほどに、そうした行動を幸隆が取るとは思えなくなってきたのだ。

 じっとりと汗ばんだ手で髪に挿した簪を一本引き抜くと、鴇姫はそれを握り締めた。

 もし本当に怪我をして、それが命にかかわるものだったとしても──むろんそうした時には、自分の気持ちとしては呼んでくれなければいけないのだが──果たして夫が、自分を呼びつけたりするものだろうか……ましてや今朝は、あれほど自分の身を案じていた幸隆ではないか──。

「止めて……! 止めてください!」

 とうとう鴇姫が叫んだ。だが駕籠舁きが止まる気配を見せないので、簾を上げ強引に出ようとした。

 さすがに駕籠舁きは慌てて立ち止まった。鴇姫は転げ落ちるように駕籠から出た。

 竹藪がすぐそこまで迫り、茫々と背の低い草が茂った野っ原である。

「危のうございますな……何事でございますか」

 使いが馬上から冷ややかに、膝をついた鴇姫を見下ろした。

 鴇姫は立ち上がると気丈に言った。

「ここはどこや。わたくしをどこに連れて行こうというのです」

「これは異なことを。……先ほども申し上げました。幸隆様の命で、お迎えに上がったと──」

「それはまことか。わたくしをたばかろうとしておるのではあるまいな」

「…………」

 厳しい表情で詰問する鴇姫を使いは睨め付けるように見ていたが、やがてふ……っ、と嘲るような笑いを漏らした。

「謀ろうとしたのならなんやというのです。どのみち我らについて来る他はないのや。おとなしゅうなされ」

 気づけば駕籠舁きも、にやにやと下卑た笑いを浮かべながら鴇姫を見ている。

「山出しの姫やというからどれだけ田舎じみた女かと思うとったが、なかなかの上品じょうぼんや。ここで味見をしていくか」

 ひとりが恐ろしいことをあっさりと言い放った。

「無礼な! そなたら何者や、このわたくしを佐々幸隆の妻と知っての狼藉、許しませぬぞ……!」

 男達は声を上げて笑うと口々に言った。

「これは威勢のええ姫さんや。だがその空元気、いつまで保つかな」

「許さんかったらどうやというんや」

「鴇殿」

 と、最後に下馬した使いの男が言った。

「助けを待っているのなら無駄なことですぞ。今頃はこちらの手の者と、仲良う戯れておることでしょう──あるいはもう、冷とうなっとるやも知れませぬな」

 最後の言葉に、鴇姫の胸の内をひんやりしたものが伝った。

 ──まさか。戌郎に限って、そんなことがあるはずがない。だが──。

「どうなされた。先ほどとは違い、お顔の色がすぐれんようやが」

 男達が笑いながらじりじりと近づいて来る。鴇姫は袂に隠し持った簪を固く握った。その時。

「大の男が寄ってたかってひとりの女に悪さとは、天津の国は上が上なら下も下よな」

 ひどくかすれた声に男達が振り返った。


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