12
寺で鴇姫を見初めて以来、幸政はしばしば佐々家に使いをやり鴇姫を呼び出そうとしたが、鴇姫は何かと理由をつけてはこれを拒んでいた。
だが主君の誘いを、いつまでも断り続けられるはずもない……佐々家の面々が苦慮していたある日、今度は幸隆に狩りの誘いがあった。幸隆のみならず、主だった家臣を集めての催しである。こうした時には蚊帳の外に置かれるのが常であった幸隆には幸政の真意を量りかねたが、もとより断る理由もなく、真信とともにこれを受けた。
出立の折、不安げに戌郎をお連れ下さい、と言う鴇姫に、幸隆は
「いや、戌郎はそなたの側に置いておく。留守中になにかあっても困るでな」と答えた。
「ではせめて、ギンをお連れください」
鴇姫は言いすがった。
「鴇……」
と、幸隆はなにかを言おうとしたが、言葉を呑み込み、
「わかった。そうしよう」とのみ言った。
ギンが戌郎とともに、幾度か幸政の間者を始末していることを幸隆は知らない。ギンを連れて行ったところでどれほどの役に立つのかはわからないが、鴇姫がそれで安心するなら、と思い直したのだ。
「ギン!」
鴇姫がよく通る声で呼ばわると、ギンはほどなく現れた。
鴇姫はひざまづくと、ぴんと上げた尾を盛んに振っているギンの首を抱くようにして、
「頼むぞ、ギン。幸隆様をお守りしておくれ」と言った。それから真信に向き直り、
「そなたにもお願いします。幸隆様のこと、くれぐれもよろしゅう頼みます」と続けた。
「ご心配めさるな、鴇様」
真信は力づけるように笑顔で答えた。
「この真信が我が身に代えましても、幸隆様はお守りいたします。──なに、此度の狩りには、天津の主だった面々がお見えです。於仁丸とやらんにつけいる隙などなかろうし、殿とて無体な真似はなさいますまい」
「そういうことや。なにも心配はいらん。そなたこそ気をつけよ」
幸隆も鴇姫に笑いかけた。だが振り向き、戌郎に見せた顔には笑みはなく、
「戌郎、留守を頼んだぞ」
そう言った声も厳しかった。
戌郎は目を伏せ、小さく頷いた。それを見、幸隆は微かに頬を緩めると、真信とともに出ていった。
此度の狩場は、雨宮領に近い山麓であった。
犬飼が見知った者であることに気づいた幸隆は秘かにこれを呼び、ギンを見せて言った。
「おぬしの犬の中にこれを加えてもらえんか? 訳あって仕方なしに連れては来たが、どうしたものかと思うておったのや。そこらに放しておいて獲物と間違われても困る……おぬしが預かってくれると助かるのやが」
見れば額に星がある他は、どこにでもいそうな赤犬だ。まだ若く賢そうな顔はしていたが、いかにも女子供にかわいがられていそうな、のんびりとした風情であった。
「そうですねえ……うちの犬どもと喧嘩をせねばよいのですが……」
と、犬飼はあからさまに乗り気でない様子でもごもごと答えたが、自分の犬どもがその赤犬を取り囲み匂いを嗅いでも、動じるふうもないので表情を変え、
「……まあなんとかなるでしょう。狩りの場ゆえ怪我など負うこともないとはいえませんが、それはよろしいのですな?」
と訊ねた。
「むろんや」
幸隆は心なしか安堵したような表情になった。
「すまぬな。恩に着る……それは元々雨宮の犬や。狩りの邪魔にはなるまいよ」
「そうですか。それはええ。逃げる分にはかまわんが、獣の本性を露わにしてせっかくの獲物を食い荒らしでもしたら、短気な殿様のことや、怒って射殺しかねませんからな」
そう言うと犬飼は笑った。幸隆も笑った。そしてこの率直な犬飼に好感を持った。
この日の狩果は上々で、幸政も終始機嫌がよく、他の家臣もみな久々の狩りを楽しんでいた。幸隆、真信も同様である。初めのうちこそ周囲を警戒し、用心もしていたが、やがてそんな懸念も汗とともに流れ去った。緑の草原や木々の中を馬を駆り、矢をつがえ、獲物を射る。彼方には青々とした田が見える。幸政の思惑や於仁丸の存在が遠くなるほどの、久々に味わう爽快感であった。
今日の面々は比較的若かった。法要の日、老臣の言った言葉がふと蘇る。たしかに幸政は父に仕えた老練な武将より、若く新しい者を登用しようとしているようであった。
「先ほどから拝見しておりますが幸隆様の弓の腕前、たいしたものにございますな」
壮年の男が声をかけてきて、幸隆の思念は破られた。
先の戦で武勲を上げ、新たに足軽組頭に任ぜられた男である。ずんぐりした体躯に純朴そうな顔立ちの頭が載っている。身分は低いが勇猛にして果敢、戦のたびに名を上げ、今では幸政も一目置く存在であった。
「とんでもござらぬ」
と幸隆が目を伏せ言うと、いやいや、という風にこの男は小さく手を振り、
「お目の悪いお方ゆえ、お見それいたしておりました。わしの目こそとんだ節穴にて、まことに失礼いたしました……」
そう言いながら人懐っこい笑顔を見せ、
「操馬の術もたいそう巧みや。弓といい操馬といい、戦場でも決して敵に引けを取るものではございませんぞ」
などと、いかにも熱っぽく、また足軽組を束ねる者らしい物言いであった。
「それは買い被りというものや」
幸隆は少し持て余したように笑うと言った、
「狩りと戦では全く違う。この通りの不具者ゆえ、戦では何の役にも立ち申さぬ。情けないかぎりや」
犬が吠えている。獲物を見つけたらしい。幸隆は小さく頭を下げると轡を返して走り去った。
「……ほんに勿体のうござるな。あのお身体でなければ重用され武勲も立て、ひとかどの武将になられたであろうに」
幸隆の後ろ姿を見送りながら、組頭は誰にともなくそう言ったが、隣でふたりの会話を聞いていた真信には、また違う思いがあった。
あの身体であればこそ、これまで永らえてきたのかも知れぬ……、という思いである。
この一年足らずで、真信の身にも幸政の幸隆に対する敵意が沁みていた。
幸隆が健常な身体の持ち主であり、また相当の武勲も立てていれば、兄といえども幸政の跡目は危ういものであっただろう。そうであれば、あの幸政が弟を放っておくはずがない。それでなくとも幸隆には幸政にない、人を惹きつける高潔さがあった。