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 佐々屋敷に幸隆と真信が帰還したのは、於仁丸が闇へと消えた小半時ほど前のことである。

 出迎えた戌郎は、ふたり、ことに幸隆の表情がひどくこわばっていることに気がついた。馬を引き裏手まで一緒に来てくれた、浮かぬ表情の真信に何かあったのかと訊ねると、この頃簡単な身振りなら読めるようになっていた真信は少し逡巡した後、

「幸隆様もお方様も、おまえのことは大層信用してなさる……やはりおまえには言うておくべきやろう」

 と、言い、

「帰りに幸隆様が『鯉口を切っておけ』と申されたのや……たしか、宿原の手前やったか……。もちろん何も起こらんかった。そやからこそ、こうして無事に帰って来たのやからな。幸隆様も思い過ごしやったと笑うてらしたが……」

 そう続けた。

「もしかしたら、ほんまに何者かが野っ原に潜みおったのかも知れん……於仁丸とやらんか殿の手の者か、あるいは全く関係ない偸盗ちゅうとうか、それはわしにはわからんが……」

 そこまで言うと真信は一旦口をつぐんだが、ほどなくまた言葉をついだ。

「さっき屋敷の周りは改めた。その何者かがついてきた気配はないが、おまえもよう気をつけとってくれ。わかったな」

 戌郎は頷いた。

 馬の世話を済ませると、自身でも屋敷の周囲は探ってみた。真信の言った通り別段異状はなかったが、胸騒ぎを覚えた戌郎はその夜、ギンを置いて屋敷を抜け出した。

 幸政と真信が辿ったと思われる道筋を宿原へと走る。

 宿原は小さな集落で、その向こうには雑草の茂る野原が広がっていた。薄があちこちに生育している。いずれは一面が薄に覆われるであろう原である。

 戌郎は用心深く歩を進めた。

 所々に群生した薄の背丈は胸のあたりまである。五感を研ぎ澄ませ、周囲を探る。

 なるほどこれでは、何者かが潜みおってもわからんかも知れん……

 戌郎は懐の苦無に触れた。

 月にかかった雲が切れたその時、戌郎は前方に立つ人影を見た。

 全身に緊張が走る。だが次の瞬間、戌郎の目はそれが充三であることを見て取った。

「来たか」

 充三は近づいた戌郎にぼそりと言った。

「与兵衛がやられた」

 一瞬、戌郎の心臓が止まった。その後それは、今度は早鐘のように鼓動を打ち始めた。

 頭の芯が痺れたようになり、何もかもがぼんやりと霞んだ。だがそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には刃物の切っ先のように意識が冷たく冴えてきた。

「誰に?」とは訊ねなかった。問わずとも答えはわかっていた。

 とうとう、始まってしまった──。

 ただそう思った。

 もう後戻りは出来ないのだ。あとは殺し合うだけだ……。

「於仁丸の奴」

 戌郎の心を知ってか知らずか、充三が押し出すような声で続けた。

「一人前は口だけの若造かと思うとったが……なかなかどうして、やりおるわ」

「…………」

「よもや与兵衛がな……しかも三人もおって……」

 戌郎もそこは腑に落ちなかった。

 於仁丸がいくら優秀だといっても、まだ経験もほとんどない半人前だ。翻って与兵衛は村の誰もが一目置く、技と駆け引き共に優れた存在であった。二人が戦えばどう考えても於仁丸に勝つ目はないのだ。

 納得できない表情の戌郎に、充三は小さな布袋をつまむようにして示した。

「そこの薄にひっかかっとったのや。こういうもんを残すとは、あやつの間抜けぶりも相変わらずのようやが」

 そう言いながら、充三はそれを戌郎に手渡した。

 ごくごく小さな革の巾着である。

 村衆が日頃薬や小物を入れて持ち歩いているものと同じ造りだが大きさは随分と違い、その分柔やわく薄手ながらしっかりと肌理の詰んだものを用い、縫い目も詰まった細かな仕立てのようだ。それは掌にすっぽりと隠し持ったまま、つがりを二本の指で開閉できるほどに小さかった。

 戌郎はそれの口を開いた。月の光では小さな袋の中は良く見えない。手触りからも何も入っていないようだったが、覗き込むように顔を近づけたその時──。

 ぐらり、と頭の中が揺れた。奇妙に歪んだ視界の中で、充三の姿が滲むとふたつになった……。

「……!」

 あわてて顔を背け、戌郎が巾着の口を閉じるのと、充三の短い叱責が飛んだのはほぼ同時であった。

「何をやっとるのや!」

 そう言うと充三は戌郎から巾着を取り上げた。

「仲間に手渡されたからというて不用心にもほどがある」

「…………」

 頬が火のように熱くなる。死んだ与兵衛はなんと言っただろうか。

 素直すぎる──あれはギンのことではなく、このわしのことやったのか……?

「餓鬼の時分からお館様や鴇様に可愛がられて、薄らぼんやりと育ちすぎたな、戌郎」

 そう言われても返す言葉もない。

「於仁丸が春霞しゅんかを遣うとはな……さしもの与兵衛も、思うてもおらなんだやろうな」

 そう言いながら充三は巾着を帯の間にねじ入れた。

 春霞とは幻術のことである。催眠術や薬、あるいは毒を用いて幻覚を見せる。それひとつで敵を倒すことは難しいが、得物と併せて用いることで恐ろしい武器となり得る技であった。

 先刻取り上げられた巾着には、幻覚を見せる散薬が入っていたのだろう。おそらく与兵衛とあとのふたりは幻覚を見、我を失ったところを仕留められたのだ。そして戌郎は、巾着の中に微かに残っていたそれを無造作に吸い込んでしまったものらしい。

「おおかた篝の手製やろうが……於仁丸が調合の手ほどきを受けとるとなると、ちと厄介な」

 ほの暗い月の光の中でも、充三の厳しい表情はよく見えた。

「あれの父親は夜条の遣い手としては並やったが、あれは違う。源爺の血を濃ゆうに継いで先が楽しみやと長様も言うとったくらいや。カンもええし身も軽いしな。足りんもんといえば経験くらいやが、それもこれから嫌というほど積めるやろ……生きとる限りはな」

 最後の言葉に皮肉を込めて、充三はそう言った。


  おにまるは ねぐらには


 戌郎は気にかかっていたことを訊ねてみた。

「もぬけの空や。さすがにあれもそこまでの阿呆やなかったわ」

 そう言うと充三は戌郎を見据えた。

「次はおまえの番や。おまえが幸隆のそばにおる限り、あれはおまえも殺すぞ」

「…………」

 戌郎の表情が固くなる。

 おまえの知る於仁丸は、もう死んだものと思え──。

 そう言ったのは長だ。いつか牢で見た於仁丸の姿が再び戌郎の胸に蘇った。

 あの時於仁丸は空っぽだった。体はまだ死んではいなかったが、心はもう失われていたのだ。

 魂の抜けた死体には鬼が入りこむという。そうであれば、今於仁丸を動かしているのは、あの時あの小さな体に入りこんだ鬼に違いなかった。

 於仁丸は、やはりもう死んだのだ……と、戌郎は思った。

 篝と共に、於仁丸も死んでしまった。今血に飢えて闇をさまよっているのは、あれは於仁丸の姿をした鬼だ──。

「……今のあれは復讐の鬼や。誰の言葉も、もう届かん」

 戌郎の心を読んだかのように充三が言った。

「覚悟を決めろ戌郎。やりあうことになったら、おまえが引導を渡したれ。ええな」

 戌郎は奥歯を強く噛みしめたまま、目を伏せた。


拙作「紅蓮の鬼」をお読みくださり、ありがとうございます。

ごく個人的な都合により「恋恋記」の更新を優先させていただきたく……

こちらの更新は11月頭、もしくは恋恋記完結までお待ちください。

よろしくお願いいたします。また11月にお訊ねいただければ幸いです。

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