09
「…………」
茂みに伏せ二騎が遠ざかるのを苦々しげに見送った小さな影が、自棄を起こしたかのようなぞんざいさで立ち上がった。
於仁丸である。
少し遅れて周囲にみっつの影が立った。
「……邪魔すんな」
呻くような嗄れ声に、影が応える。
「おまえが幸政を狙う分には放っとけと言われたが、相手が幸隆となると話は別や。あれをおまえに殺させる訳にはいかんでな」
そう言うと影は続けた。
「大人しゅう縛につけ、於仁丸……わしらの手を煩わさせるな」
忍び装束に頭は頭巾で覆われ、顔は見えない。だがその声は与兵衛のものであった。
「そんで幸隆がわしを幸政に差し出せば、八方丸う収まって一件落着という訳か。わしにも殺されろと言うのやな……幸政に、篝みたいに酷たらしゅう切り刻まれて……」
於仁丸は皮肉な口調で言った。
「ふざけんな。莫迦も休み休みに言え」
於仁丸の伏せた瞳に凶暴な光が宿る。形の良い唇が歪んだ。
「そこをどけ……どかんのやったら……」
「於仁丸」
与兵衛が再び呼びかけた。
「源爺が死んだぞ」
「……!」
思わず顔を上げた於仁丸に与兵衛がたたみかける。
「最期までおまえのことを気にかけとった──」
於仁丸の言葉が与兵衛の言葉を遮った。それは耳を疑うものだった。
「よかったやないか」
「……何?」
さすがの与兵衛も聞き返した。
与兵衛は於仁丸の口の端が奇妙に捻れ上がっているのを見た。そこには凄絶な笑みがあった。
「これでお爺も、村の者とわしが殺し合うのを見んですむ……」
「…………」
ち……っ、と頭巾の下で小さく舌打ちする。
──気違いめが。
これまでであった。与兵衛は腰から鎖鎌を引き抜いた。同時に他のふたりも得物を取る。
於仁丸は駆けだした。
鋭い音と共に鎖が空を切る。与兵衛の操る鎖分銅は、鎌首を上げた蛇の速さと執拗さで於仁丸に襲いかかった。分銅の重さはほぼ三十匁、打たれれば於仁丸の細い骨など簡単に砕けてしまう。分銅と他の二人が撃つ手裏剣をかわし、於仁丸は夜条を打った。だがそれは、与兵衛の鎌があっけなく刈り取った。
……やはりいかん……。
於仁丸はどこか他人事のように思った。
相手は同じ村の者、若輩のこちらの手の内など知り尽くしている。ましてや与兵衛は百戦をくぐり抜けた手練れであった。
あとのふたりはどうやら若手らしかった。声も立てず顔も頭巾に覆われ見えなかったが、おそらく於仁丸とは互いに見知った仲に違いない。一帯は薄と雑草が茂る野っ原でこの三人を相手にしては身を隠す術もなく、いつまでも逃げ回れるものでもないことは分かっていた。
於仁丸は小高い丘へと走った。
「どうした於仁丸。逃げるのはもう終いか」
丘の端で足を止めた於仁丸に与兵衛が言った。
背の高い薄に覆われて一見そうは見えないが、その先は抉られたような崖となっていた。その下に美津川が流れている。
振り向きざま、於仁丸の両手が大きく動いた。
「阿呆が! おまえの技など通じんことがまだわからんか──」
与兵衛も鎌を振り上げた。だが、そのその刹那──。
与兵衛の表情が不可解に歪んだ。
目の前の於仁丸が何人もに増えたのだ。あとのふたりの動きも固まったように一瞬止まった。同じものを見たのは明白であった。
「……しまっ……」
与兵衛の分銅が虚しく空を切った。
夜条が与兵衛の首を捉えた。
お父が帰るまで待っとる──
いつか聞いた少女の声が於仁丸の胸に蘇る。
今夜あの子はどうしているだろう。
父の無事を案じているか、それとも笑顔の帰宅を疑ってはいないか。
きっとあの子は、今夜も与兵衛の帰りを待っている……。
だが於仁丸は腕を振り抜いた。血しぶきが一帯を染めた。
「…………」
風が於仁丸の髪を撫でる。
頬が冷たい。濡れているせいだ。
於仁丸の左袖から小さなものが落ち、風に吹かれて飛んで行った。
「阿呆はどっちや」
嘲るように於仁丸は口の端を歪めた。だがその表情は見る間に崩れた。
「……年でもなかろうに耄碌しくさって、風が変わったのにも気づかんで」
言いながら嗚咽がこみ上げてくる。堪えきれずに於仁丸はしゃくり上げた。
涙が後から後からあふれ出る。
阿呆……阿呆が……! どいつもこいつも……。
とうとう小さな呻きと共に、堪えていた言葉が出た。
「……お爺……!」
禍々しく赤い夕陽が薄の原を染めている。その中にひとり立つ於仁丸もまた、血の赤に染まっていた。
空の色が紺青に変わる頃、於仁丸は社の楠の上にいた。
昼間は賑わったこの辺りも、今はもう人影もない。
「……待たせたな、篝」
於仁丸は泣き腫らした目をしていたが、表情はもう、穏やかなものに戻っていた。葉陰に用心深く隠した包みを手に取る。
「帰ろ……」
包みを懐に抱き、於仁丸は闇へと跳んだ。