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テレフテア・アポカリプス  作者: ほざお
第五章 真珠色の双子
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 暗がりを抜けた先、黒喰の輝きに守られたそこに彼はいる。

 地下にあった檻にいた時と変わらず、髪はどこまでも長く、抉られた両の双眸にはただ深い暗闇だけが広がっている。手足は色も長さも異なり、不安定な体勢で立ちながら、掠れたような声だけを漏らし続けている。

 柊零余――救うべき兄が、そこにいた。

 椿は手を伸ばす。七年と言う永きに渡って触れることも侭ならなかった兄に触れ、その確かな感触に電流のような何かが身体を走り抜ける。それは、兄として振舞った『兄さん』からは決して得られなかった感覚。双子の半身、自分の兄だと言うことを如実に表している。

 幼子のように小さい兄の頭に触れる。その瞬間、椿は抑えきれない想いのままに兄を胸元に抱き締めた。その髪に顔を(うず)め、確かな兄の感触に身を震わせる。そこにある生を知り、命を分けた兄と再び一つに溶け合うように、強く抱く。

 椿の瞳から、一筋の涙が零れる。それは(とど)まるところを知らず、滂沱のそれとなって流れ行く。抱え続けた想いが胸の内に渦巻き、堪えることも無く、嗚咽すら上げて両の瞳から零れ落ちる。

 痛い。ただ、痛かった。傷だらけの兄の姿が、ぼろぼろの兄の姿が、回復の力を得ているはずなのに、自分を治すことも忘れてただ力を振るい続ける兄が不憫でならなかった。

 その零余が、椿の胸に抱かれながら何かを零している。

 それは小さく、か細く、聞き逃してしまいそうな掠れた言葉。だが、それは零余にとって何より大切な想い。どんな状況にあっても忘れなかった、たった一つの約束。彼を支え続けた願い。

「……き……る」

 その願いは、椿には聞こえなかった。小さな声は確かに耳朶を打つのに、しっかりと届かない。だから、椿を耳を済ませる。兄の発する確かな意思を聞き届けようと、彼の言葉に耳を傾ける。

「つ……き……る」

 ああ、と椿は息を吐く。その言葉は、はっきりとはやっぱり聞こえなかった。それでも彼女は知る。兄の抱えている想いが何なのか。胸に宿し続けた意思が何なのか。

 その言葉を聞いて、多大な後悔と無念が椿の胸に宿る。それと同時に、心の中に小さな光も宿ってしまう。それが彼女には呪わしい。浅はかで、見っとも無くて、どこまでも己を棄てきれない自分に反吐が出るほどの嫌悪感を覚えてしまう。

 椿は、喜んだのだ。兄のその言葉に、ほんのわずかに喜んでしまった。

「つ、ばき……まもる」

 それが零余の抱え続けてきた意思。ずっと言葉にし続け、心を壊してなお忘れること無く、胸に宿していた想い。

 零余の心には、確かに一輪の椿が咲いていた。

 それを椿は喜び、そんな自分を彼女は忌避する。そんなことだから兄を頼り、助けを乞い、結果としてこんな悲劇を招いてしまった。守ると誓った兄を守ることも出来ず、救うことも出来ず、無様に縋ってしまった。

 ここに椿は己の決意を固める。

 ずっと棄て切れなかったもの――レーヨと共に在ってなお、椿は一人の人で在ろうとした。兄を人にする。それは同時に、兄を自分と同じ場所に立たせようとしたことを意味している。でも、この兄はきっと人にはなれない。心は壊れ、身体は傷ついたまま、誰も彼を救うことは出来ないのかもしれない。

 ならば、人であることをやめよう。兄が地獄を歩き続けることしか出来ないのなら、自身もまた、人としての柊椿は終わりにし、その不確かな地に降り立とう。

「おにいちゃん……」

 呼びかける。そっと耳元に口を寄せ、大切な兄を呼ぶ。それに答えは返らない。椿の言葉すら、今の零余には響かない。

 それでもいい、と椿は思う。伝わらなくても、届かなくても、続ける言葉は止まらない。胸の内に宿る想いを溢れさせることをやめはしない。

「私は、ここにいるよ。おにいちゃんとずっと、ここにいる。そばにいる」

 この暗闇で、誰もいない無言の地平で、隣に立つ彼が何を話さなくても構わない。それでもずっと、その隣で咲き続けよう。

 だから、と椿は願う。間違い続ける兄に、大切な一言を送る。

「ありがとう、おにいちゃん。私はもう、守られたよ」

「つ……ば、き」

 零余の頭が微かに動く。その二つの暗がりで椿を見上げ、掠れた声に確かな意思を宿して、彼女の名を呼ぶ。

 その時、突如として黒喰の結界が崩れ去り、そこから灰色の力が流れ込んだ。それが二人の意識を繋ぎ、思いを重ね合わせる。世界は真珠色に染まり、椿はその場所に足を踏み入れる。

 白い――どこまでも白い世界。

 四方八方の全てが白色で包まれた、叡智の魔女が白亜の虚構と呼んだ場所。

 そこに、彼の心は在った。

 膝を抱え、妹の名を呼び、ただ一心に願い続ける兄がいた。

 椿はそこを歩く。一歩一歩、その道を踏みしめるように進み、膝を抱えて座る零余に声をかける。

「おにいちゃん」

 言葉は届かない。想いは響かない。けれど、彼は顔を上げた。椿とよく似た愛らしい顔をした少年がそこにいて、空を掻くようにして無造作に伸ばされた手が彼女の手を掴む。それをしっかりと握り締め、椿はただ、兄を抱き締めた。兄の胸の内、心にある全て、そこに宿る想いの何もかもを受け止めた。

「今度は、私が守るから」

「つばき……っ」

 椿の想いが零余に届く。発した言葉が胸の内を震わせる。

 椿の放つ光が一際強く輝き、誰もいないその場所でたった二人、別たれた双子の兄妹が再会を果たす。

「だから、もういいんだよ。おにいちゃん、苦しまないで。もう、楽になっていいんだよ」

「つばき……つばき、つばき……ッ!」

「うん……うん……っ」

 零余が何度も彼女の名を呼び、そのたびに嗚咽を漏らす。悲痛な叫びは椿の心に深く刻まれ、彼女もまた、大粒の涙を流し続ける。二人の想いは溶け合い、無言の地平に咲いた椿の隣に、季節外れの零余草(むかごそう)がひっそりと芽を出し始める。

 それは、確かな零余の心の発露。芽生えかけた想い。

「だいじょうぶ、私は……ここにいるよ」

「あ……ぐっ……う、うぅ……あ、うぅぅ……ッ!」

 白亜の虚構が崩れ始め、現実の世界が広がっていく。周囲を覆っていた黒喰が純化され、眩い真珠の輝きを放ち始めた。椿を中心に流れ始めたその光が、抱きすくめた零余の心を解き放ち、その身から流れ続ける黒喰すらも呑み込んで行く。

 そんな中、消えていった暗闇から零れ出た光の先で彼女が顔を覗かせる。彼女もまた、零余を救うと誓った一人だからこそ、目の前のその光景を許容できなかった。

 椿の選んだ結末。人として椿が歩む地平そのものを崩してそこに堕とすのではなく、椿自身がその地平に降り立つこと、それを彼女は認めなかった。

 それでは、いつか椿はそこを離れてしまうかもしれない。降りてきたからこそ、椿には高みが見えている。見上げた先にある地平を知っているのだ。そこに至る確かな力もある。そうなれば、きっと零余はまた、無言の地平を一人で歩き続けることになる。

 この世に絶対なんて無い。どんなに素晴らしい人間でも、時として残酷な姿を見せる。

 この心の弱い少女では、きっとこの哀れな少年を支えられない。

 だからこそ、ここにアルは一つの結末を思い描く。

「何も終わらせられないなら、せめてマスター、あなたを終わらせて、それで以ってあなたを救ってみせる……!」

 爆弾と化した魔力が炎と衝撃波を撒き散らし、すでに黒喰の輝きも消えかかっている。その身を構成する魔力も秒読み段階となってなお、それでもアルは最後の足掻きをしてみせる。手をかざし、そこに全てを消し去る破壊の砲火を宿らせる。

「椿、あなたじゃ彼は救えないッ!」

 向けられたそれを前に、椿は怯えること無く兄の前に立つ。もう、誓いは果たした。約束も交わした。ゆえに彼女は迷わない。怯えはしない。如何な凶刃が兄を襲うとも、如何な敵が兄に迫ろうとも、無様に自身の命を気にかけたりはしない。

 もう、椿は人をやめる。人ではなくなった兄を守り、その身を支える妹として、無言の地平に在り続ける。どれだけ歪であろうとも、自身の幸せなど望みもしない。柊の家も、友も、その何もかも、彼女は棄ててしまうと決意する。

 それはこの七年間、椿が決意し切れなかった想い。全てを棄て去る覚悟。

 それを今、彼女は口にする。

「ふざけないで。私は、おにいちゃんを救う」

「椿ッ!!」

「人を棄てきれないあなたに、おにいちゃんは救えないッ!」

 迸る閃光を解放しながら、アルは怒りを滲ませる。ふざけるな。自分は人ではない。天魔、魔王だ、と激昂する。彼女は、零余の心を知り、彼を救うために人をやめた。そもそも死んで五十年、少年の心の中で再び目覚めた彼女は、どこまでも曖昧な存在であり、人と呼べるようなものではない。だからこそ、彼女もまた、人では無い者として零余を救おうとしたのだ。

 だが、目の前の小さな少女ははっきりと口にする。あなたは人を棄てきれていない、と強く言い放つ。

(私が……ふざけないで……ッ! 私はもう、人なんかじゃないわ。たくさん殺した、たくさん傷つけた、この地を地獄に変えた……そんな、私が……ッ!)

 それに彼女は気づかない。思い悩むこと、気にかけること、それは決して悪魔の所業では無いということに。

 どれほどの破壊を起こそうとも、どれほどの破滅をもたらそうとも、彼女は常に迷い、悩み、そのたびに無理矢理にそれらを断ち切った。

 人はそう簡単には変わらない。たとえ暗闇の中にあった孤独の少年の悲痛な思いを聞き届けたとしても、人は己をすぐには変えられない。変わろうと、そう邁進するだけに過ぎない。そして、その歩みの果てに結果としてそこにたどり着くことが出来ると言うのなら、歩み始めたばかりのアルは未だそこに達しきれない。そこへ至れるとすれば、七年と言う永きに渡って想いを重ね続けた一人の少女だけだ。

 閃光が視界を覆いつくし、全てが消え去る。無音のままに放たれた力は、その終わりに突風と衝撃波を巻き起こし、巻き上がる土煙の中、しかし――真珠色の双子はそこにいた。

 少年がその暗い双眸をアルに向ける。

 少女が失った片手と片足のためか、その少年にもたれかかる。

 やがて、少年の身体から眩い真珠の光が輝きを強め、傷ついた双子の身体を治していく。少女は失った手足を取り戻し、少年もまた、その瞳に光が宿り、歪な手足が取り払われる。

 本を掲げた少年が、その小さな足取りで歩みを進め、アルを慈しむように触れた。

「ありがとう、アル」

「マ、スター……」

 アルの膝が崩れ落ち、黒喰の魔力が姿を消していく。その最後、アルの身体から放たれたのは、かつて彼女が灯していた光と同じ、真珠色に輝く美しい純白の光だった。


 午前五時――深夜零時より続いた天魔事件と称されたクラティア災害は、こうして幕を下ろした。

 

 荒れ果てた大地には、互いに肩を重ね、双子の草花が小さく咲き誇っていたと言う。

 分かり辛いかもしれませんが、アルのグラン・カノンから椿が自分の身を犠牲にしてミュールによって零余を守った形となりました。

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