⑧
「……そろそろね」
午前四時――それは突然、訪れた。
大災、災禍、災厄。あらゆる不吉を象徴された魔王が、その縛から解き放たれる。彼女を包んでいた膨大な量の土塊がその拘束力を失い、圧搾の力すらも敵わず、漏れ出した黒喰の魔力が再び世界を喰らいつくす。そこから溢れる月白の炎が辺り一帯を明るく照らすように輝いた頃、崩れ落ちた巨大な土砂によって地面が大きく震動したその時、その軽い足音は近衛のすぐ隣で聞こえてきた。
振り返る。そこで彼女は見た。
流れるように靡く鴉羽色の髪、宝石を思わせる琥珀の瞳、白く透き通る肌は同性でも思わず羨むほどのもので、整った目鼻立ちはどうしようもないほどに妬んでしまう。けれどもそれら一切の感情を封殺するほどの禍々しい魔力がその身を包み、鳴らした軽い足音に反し、近衛の心臓は大きく早鐘を打った。
来る――いや、もう来ている。彼我の距離は一メートルちょっと。握られた拳は固く、纏う炎は必殺の輝きを秘めている。振るわれた一撃は、何の躊躇も無く、脆弱な人間の身体を燃やし尽くす。
大災のクラティア――天魔が何の予兆も無く、マーズの本陣に乗り込んだ。
「近衛ッ!!」
藤波の怒声が聞こえる。だが、もう間に合わない。すでに視界の先にはあの魔王がいて、シュトラーフェを出せる余裕も無い。一歩後退するより先に天魔はおそらく二歩進む。動き出した足が地を蹴るより先に、彼女の身体は潰される。
(死、ぬ……?)
嘘だ、と近衛はただそれだけを思う。こんな呆気なく、戦いとすらも呼べないような状況で死ぬ。それは完全に彼女の予想していなかった事態であり、絶望すらも感じる暇も無かった。
ゆえにまた、それが起こった時も、喜びを感じる暇も無かったと言っていい。
「来たかぁッ!! 天魔ぁぁぁぁぁッ!!」
唐突な天魔の襲撃に誰しもが反応できない中、赤銅色の魔力を輝かせ、これに対処してみせた鬼が一人。並外れた魔力量だけでなく、魔力探知能力も十全に持ち合わせたこの怪物は、土塊の演出を利用して気配を殺し、自身らへと接近している天魔の動向に気づいていた。その上でこの場の誰にも告げず、天魔が最も狙いやすいと判断した近衛を襲うその一瞬を狙い、攻勢に出たのだ。
神功の身体が膨大な光を放つ。それは瞬きの間に形を成し、彼の腕にそれを生み出した。鎖が肘から手首にかけて幾重にも重なり、そこから伸びた五本が指に巻きついている。交叉したそれらは、神功を守る籠手であり、同時に相手を打ち抜く打撃武器だ。
“九天”――天の頂を冠するこのハイリヒトゥムは、その名の通り、神功の高揚に応じてその力を数倍の高みにまで引き上げる。
横合いから躱す間も無く振るわれたその一撃を受け、天魔が吹き飛んだ。強大な膂力に任せた足の踏ん張りも聞かず、近衛の前から死の脅威が取り除かれる。同時に吹き荒れる突風に顔を庇いながら、近衛は事態を把握し、即座に動き出す。
戦いの火蓋は、すでに切って落とされた。
「来て、ラザンツッ!」
「うむ、その通り!」
近衛が自身のシュトラーフェの名を呼び、その隣で黒木が毎度の言葉を吐きながら同じくシュトラーフェを顕現する。しかし、どちらも身体に変わったところは無い。それもそのはずであり、近衛のシュトラーフェは無形――形を持たないシュトラーフェなのだ。一方で黒木のそれは、ある意味では形を持っていない。彼のシュトラーフェの名は、『黒皮』。その身に纏う衣服に作用し、本人とその衣服の魔術耐性を高める役割を持つ。
その特殊な力を持つがゆえに、黒木はその術式を平然と使うことが出来る。
「卑賤無き我が御名において、ここに果てる武士へ武勲を与えん」
唐突に別の言葉を吐き出した黒木に近衛がギョッとする中、彼は身体強化の術式を紡いでいく。通常であれば、十分を限度とされるそれも、彼の黒皮と合わされば、その時間に制限は消えてなくなる。
「勇猛なる獅子たちよ、栄華極めし我が国土の礎となれ」
言っている間にも、飛び出した神功と天魔が再度の激突を開始する。だが、それはもはや先のものとはわけが違う。天魔は魔力を操って月白の炎を纏い、神功は“九天”を打ち合わせてそれを真っ向から叩き潰す。
「――一輝当千」
「黒木くん!」
どんどん距離が離れていく二人を見据えながら、近衛は魔術の力で戦闘態勢の整った黒木に声をかけ、その手を向ける。それに呼応して黒木が近衛の手を掴んだ瞬間、二人の景色が一瞬にして切り替わった。そこはちょうど、向かってくる神功と天魔をわずかな距離にだけ置いた場所。その突然の事態に両者とも慌てることは無い。何故ならこれは、近衛のシュトラーフェ、『ラザンツ』の空間跳躍の力によって為されたものなのだ。
「はっ、てめぇら中々おもしれぇ登場じゃねぇかッ!!」
「後ろ――!?」
神功が笑い、天魔が動揺を露にする。その背面へ黒木の強化された拳の一撃が叩き込まれた。それを受けた天魔の身体は勢いを前に向けて神功へと迫り、そこには拳を握り締めた彼がいる。そこに容赦など微塵も無く、鬼の一撃が天魔を中心に爆発する。膨大な魔力によって強化された拳は、その一撃の余波で周囲の地面に亀裂を走らせ、家屋の残骸を吹き飛ばし、それでもなお余るエネルギーが轟音となって響き渡った。
そんな中、近衛はまだ追撃の手を止めない。『地』の特性と『ラザンツ』の力を組み合わせ、周囲一帯の瓦礫を掻き集めると、それを天魔に叩き込む。そこにタイミングを合わせたように神功が距離を取った直後、彼の一撃を受けて動きを止めた天魔に二百キロを超える大質量が激突する。
轟音はさらに連鎖し、上がる土煙の中、しかしそれでも誰も動きを止めようとしなかった。神功は『空』の特性で強引に土煙を振り払って天魔の目眩ましを封じ、合わせて黒木が動き出す。神功と黒木、両者共に肉弾戦闘――中でも拳による戦いを好む二人の一撃が、振り払われた煙の中で立ち尽くす天魔に激突する。
その瞬間、咄嗟に近衛は空へと逃げた。そうでもしなければ、二人の踏み込みと拳の余波による一撃で崩れた地面の影響から逃れられなかったのだ。どちらももはや、人間の身体能力を超えている。しかし、やはり強い。その一撃が軽々と岩どころか巨岩をも砕き、踏み込んだ足だけで地面に亀裂を走らせる。
マーズ最強の神功、接近戦ではトップクラスの黒木。
共に両名、まさしく日本最強の名に恥じない実力者だ。
だからこそ、近衛は思う。
(うぅ、やっぱり一美って……色々と微妙……!)
実はラザンツの力こそ、あらゆる場面で応用が利き、マーズの中でも重用されているのだが、中々その事実を正しく把握しきれない彼女であった。
見下ろした視界の先、神功が再び風を操って土煙を吹き払う。しかし、そこにいるはずの彼女の姿は無かった。その代わりに、近衛のすぐ傍で澄んだ鈴を思わせる美しい声が聞こえてくる。
「この力、私の叡智に相違無い」
振り返るまでも無い。突如として背後に感じた莫大な魔力の圧迫感。そして、近衛が持つシュトラーフェの能力。その二つを鑑みれば、何が起こったのかは一目瞭然だ。
(ラザンツの能力を、操ってッ!?)
ラザンツによる空間跳躍。それで以って神功と黒木の一撃を回避してみせた天魔は、即座の回避行動に移ろうとする近衛を嗤う。もはや逃げられる距離に無い。先と同じく、再びその猛威が彼女に襲い掛かる。
その刹那、突如として生まれた土塊の壁がそれを阻んだ。地面から盛り上がった土が天魔を両側から呑みこまんと迫る。マーズの隊長、藤波の剛毅による能力だ。それが圧搾の力だけを使って解き放たれ、天魔に喰らいつく。
「駄目ね、それじゃあ足りないわ」
しかし、それが天魔を攻撃することは無かった。彼女の真下、いつの間に現れたのかそこには土塊の人形が存在し、その手に大弓を構えている。その大弓から放たれた矢が空を覆った瞬間、そこに向けていきなり剛毅の壁が方向を変えたのだ。天魔を押し潰すはずだったそれらがバラバラな動きを見せ、その中で天魔は笑みを深める。その手が近衛の細い首に伸び、それを圧し折ろうと向かう。だが、それよりも一足早く、彼女が忽然と姿を消した。
剛毅によって作られたほんの一瞬の隙。マーズの一角たる近衛からすれば、そのわずかで十分、力を発動できる。ラザンツによって空間を飛び越えた彼女は、すでに神功の隣に立っていた。
天魔が見下ろした先で、赤銅色の魔力が甚大な輝きを放つ。告げられた言葉は、魔王に向けるものとは思えない分不相応な一言だった。
「汝等この門を潜る者、一切の望みを棄てよ――鬼哭の一撃」
拳打の波濤が天魔の視界を覆い尽くし、放たれた赤銅色の魔力が全てを喰らい尽くす。夜闇を切り裂くどす黒い血の光が空高くまで伸び上がる中、未だ高まり続けるエネルギーが頂点に達した時、神功のハイリヒトゥムの右手親指部分、そこに唯一存在しなかった宝石が現われ、その部分が光り輝く。
「ここが九天、オレの頂だ」
神功が意気揚々とそう嘯いた直後、さらに跳ね上がった魔力が鬼哭の一撃の威力を高め、爆発的な力がその周囲にあった全てを吹き飛ばした。
――それでもなお、魔王は悠然とそこにある。
「ごめんなさい。もう地獄の門は潜った後なの、私」
あれほどの魔力を破壊のエネルギーへと変換した一撃を受けながら、それでも天魔はそこに在る。その身に傷一つ負わず、ローブの一片すら傷つけず、ただ彼女はどこまでも絶対者として存在している。
近衛は息を呑み、黒木は初めて瞬きし、神功は口元を歪めた。三者三様のその反応の中、遅れて二人の男と少女が現れる。藤波と恋、すっかり距離を取られてしまったために追いつくことが遅れた二人がようやく舞い戻り、ここにマーズの五人が集結した。
近衛のシュトラーフェ、ラザンツの能力は空間跳躍。
黒木のシュトラーフェ、黒皮の能力は、衣服の魔術耐性の強化および身体能力の強化です。