②
一瞬の内に展開されたミュールが、迫る怪物を弾き飛ばし、その中でレーヨは駆け抜ける。すでに話し合いは終わりを向かえ、ここからは死闘だけが待っている。そんな中に大切な妹を飛び込ませられるわけが無い。となれば、やることは一つだ。椿には後衛で守りに徹してもらい、レーヨは前衛として化け物を迎え撃つ。
ミュールによって体勢を崩した大和の下へ駆け、崩れたところに全身の体重を込めて激突する。その勢いで自身の身体もまた宙に投げ出される中、レーヨは上手く地を蹴って身体を横に流し、即座に体勢を立て直すと、背中から地面に倒れた大和に向けて右足を振り下ろした。そこに込められた『火』の特性と合わさり、それは膨れ上がった大和の腹部を踏み潰す。固い皮膚を越え、血管を突き破り、肉で覆われた先にある骨を潰し、臓器を抉る。その一撃が展望台を揺らす中、レーヨは間髪入れずに地を蹴って距離を取ろうとした。大和には、アスクレーピオスがある。一撃を与えたからと言って油断できない。
だが、それよりも早く、大和の手がレーヨの足を掴みあげた。
「く、そ……ッ!」
慌ててレーヨが振り払おうとする早く、倒れた体勢とは思えない膂力で大和がレーヨを放り投げる。その勢いで宙を舞い、レーヨの身体が展望台にある柱の一本に激突した。
「兄さん!?」
悲痛な叫びを上げる椿の声を聞きながら、咄嗟に『地』の硬化で身体の頑強さを強めていたレーヨは、衝撃で抜けていく身体の力を手繰り寄せ、立ち上がる。余りの勢いのために噛み切った唇から血を垂れ流しながら、彼は前方でゆっくりと立ち上がる大和を睨み付けた。やはり、その身体は修復を開始し、元の膨れ上がった腹部を見せ付ける。
(やっぱり……打撃じゃ埒が明かない……っ)
ふざけた仕草で腹を撫でる大和を見ながら、レーヨは思考を巡らせる。アスクレーピオス。回復の力は、絶えず大和に恩恵を与えている。聖隷機構と言う力で上がった魔力のせいか、今の大和は無尽蔵に近い力を放っている。一撃一撃、少しずつ魔力の消費を狙うなどと言うやり方が通用する相手ではなくなった。
(となると……一つしか方法は無い)
勝つための最善策。この化け物染みた再生能力を唯一、妨げる一撃。それは、あるたった一つの箇所に集約される。
レーヨは、そこを見る。血管の浮き出た眼球、長く伸びた髪、剥きだしの牙、それら全体の核であり、彼の動きの全て、命令の全てを司るそこ――脳。如何なクラティアと言えども、その命令は脳を介した電気信号によって行われている。であれば、そこを壊されればどんな魔術も力も意味を為さない。あらゆる能力は、その時点で打ち止めとなり、死者復活の方法などどこにも無い。脳髄を壊し、脳漿を撒き散らし、そこにある神経伝達を束ねる部分ごと潰す。あるいはもう一つ、脊髄を損傷させると言う方法もある。身体全体に命令を行き渡らせる神経の集結路を壊せば、もしかすればこの男を殺さずに止められるかもしれない。
だが、それは悪手だ。魔力の発生に伴う電気信号がどこを通り、どの経路から発されているか未だ分かっていない以上、最も取るべき手段は脳の破壊。柊大和を絶命させることに他ならない。
(出来るのか……俺に……)
決意は固めている。椿を守るためなら何でもする、人でも殺す。その決意は確かにあり、殺意もまた、同様だ。しかし、それはあくまでもレーヨの意識における話だ。心の内なる部分、本質的なそこにある感情が、彼の命令に一切の淀みなく従ってくれるかは分からない。迷えば、椿が死ぬ。何があっても迷ってはいけない。どんなことがあっても意思を完遂するだけの覚悟。
それをレーヨは、確信できないでいた。
(殺しを迷うんじゃない。殺せる自分を信じられるかどうか……)
そんな己の在り様を嘲笑う。殺せない、などと言えればどれだけ人らしくあっただろうか。こんな自分では、やはり胸を張って椿の兄とは言えないかもしれない。そしてそんな自分だからこそ、何年も傷つき続ける零余に同じく心を壊すことも無く、その悲鳴を聞き続けられたのだろう。
自分もどこか壊れているのかもしれない。歪んでいるのかもしれない。
それを自覚しながら、レーヨは自嘲気味の笑みを漏らす。遠く見つめた先にいる椿を一瞥し、彼女の瞳が見せる迷いに憧れる。殺せるかどうか、殺していいのかどうか、彼女は今も迷っている。その優しさと慈しみが、人間らしさを体現している。
ならば、とレーヨは決意を固めた。迷う彼女は、迷ったままでいい。もう覚悟を決めさせることすらもさせてはいけない。迷ったまま、その意思を統一するより先に――
「――俺はあんたを殺す、大和」
拳を握り締め、愉悦を頬に刻む化け物へ向け、レーヨは殴りかかる。それを慌てて椿がサポートし、風の弾丸が大和に襲い掛かる。風の弾丸が瞬く間に大和の身体を大きく抉り、弾き飛ばし、その肉片までも粉々に飛び散らせる中、思わず顔を顰める椿が見たのは、床を蹴り上げる大和の姿だった。
「兄さん、避けて!」
「ちっ!!」
大きく舌打ちし、レーヨが急激な方向転換で蹴り上げられた床板を避ける。直後に背後で轟音が鳴り響き、その威力の高さを窺わせる中、再生を果たした大和がレーヨと対峙した。互いに拳を握り締め、型も何も無く、ただ拳を振るう。レーヨはそれしか知らず、大和はもはや武術の心得を放棄した。自身の腕力を知るからこそ、その無意味さを知る。
交錯は、一秒と保たなかった。ただの一撃によって再びレーヨが吹き飛ばされ、大きく地面を転がっていく。『火』の特性でいくら身体を強化しようとも、そもそもが自力が違うのだ。それにレーヨには、身体強化の魔術を使えない。それを知らないからこそ、特性ごとの力を何とか使い分けてそれに近い効果を実践している。その集中力の差が、込める力にも影響してしまっている。
(くそ……そう易々と近づけさせてはくれないかっ!)
痛む身体を無視して立ち上がり、椿へと攻撃の矛先を変えた大和に横合いから襲い掛かる。同時に椿が大きくミュールを展開して大和を押しのける中、再び体勢を崩したその身体を吹き飛ばす。だが、今度は大和もそうあっさりと倒されることは無かった。深く床に足を抉りこませて衝撃に耐え、突進してきたレーヨの背中を重ねた両拳で打ち付ける。
「か……はっ!」
その一撃に息が漏れ、全身から力が抜けるレーヨに向かって、大和の蹴りが襲いかかった。腹部を抉るようなその攻撃にレーヨの身体がピンボールのように跳ね上がり、柱の一つに再び激突して動きを止める。蹴りを受けた腹部は、皮膚が大きく捲れ、そこから大量の血が流れ出していた。それだけではなく、骨はいくつか折れ、頭を強かに打ちつけたために意識が途切れそうになる。それでも震える足でレーヨは立ち上がり、身体全体に『火』の特性を加えて回復力を高めると同時、『識』の特性の力を己に施す。それは意識と精神に作用し、彼の中にある痛みと共に、ある迷いも吹っ切らせた。
「殺す……」
血を滴らせ、獰猛にレーヨは笑む。そこにあった迷いや不安は完全に断ち切られ、思考一杯に獣の本能が芽生え始める。それは彼の中にある肉体の限界を解き放ち、原点に回帰するように、レーヨが四肢の構えを取った。
まるでたてがみを逆立てて警戒を露にする獅子のようなその姿を見て、大和が不気味に笑う。その滑稽だとでも言いたげに嘲笑う顔が、次いで認識を超えて叩き込まれた鋭い蹴りの一撃によって変形した。さらにその一撃で以って身体は吹き飛び、展開していたミュールと激突して大和の身体をとてつもない衝撃が襲う。
その衝撃の中で、大和は見る。自身と同じように目を血走らせ、全身から凄まじい魔力を放つレーヨの姿を。
(そうか……『識』の特性を逆手にとって、肉体の制限を解き放ったか……! 二足歩行は最も武器を手繰り易い形……だが、シュトラーフェを持たない彼にその構えは必要ない。獣のように四足で動いた方が、身体能力は遥かに高くなる――)
そう推察する中で、再度振るわれた重たい蹴りが大和の身体を吹き飛ばした。限界を越えた脚力と、その身から溢れ出す膨大な魔力。もはや魔力放出のための蛇口を強引に押し開いたかのようなその様に、大和は笑みを深める。彼は初めて、レーヨに興味を抱いた。痛みすらも度外視し、その化け物のような姿に研究意欲をそそられる。
「大和ォォォォォォォォォッ!!」
獣の咆哮が上がり、その一歩が展望台全体を揺さぶる。その中で大和もまた、床に足をつけると、怪物のように脇目も振らず迫るレーヨを迎え撃った。その身体にアスクレーピオスの回復力を注ぎ込み、一対一の殴り合いに躍り出る。
だが、それを許してくれるほど、彼女は優しくもなければ、兄に頼り切る己を許しはしない。
真珠色の光が強く輝き、踏み出しかけた大和の足が地面に吸い込まれる。同時にその足は、その場で固定され、振るった一撃は腕を振り回しただけの無様なものだった。それをレーヨは片手で受け止め、それどころか握力だけで腕を圧し折ってしまう。
「ぐぁ……ッ! この――」
「アァァァァァァァァァァァッ!!」
まさしくその雄叫びは、化け物――獣に相応しいものだった。耳元で上げられたそれが大和の鼓膜を激しく揺さぶり、弾け飛ぶ。それはまるで脳に一撃を加えられた衝撃であり、事実鼓膜を破るほどの音圧とはそう言うことだ。それが大和の平衡感覚を著しく奪い去り、回復に赴く身体は、次のレーヨの激しい一撃で天井へと叩きつけられた。筋力が膨れ上がったことで百キロを越えていた彼の身体が、ただの一撃で上に数メートル飛ぶ。その凄まじい威力に感心しながら、落下体勢に入った大和は、回復したその身でレーヨと向かい合う。
ここに単純な図式が出来上がる。重力を伴った落下で拳を構える大和と、下で迎え撃つレーヨ。一見すると空中にいる大和の方が不利とも思えるが、それは全くの逆だ。地球の引力によって力を増した彼の拳に対し、獣と化した今のレーヨにそれを避けると言う選択肢は無い。ただ真っ向から打ち合い、撃破しようと拳を構えている。獣同士の戦いは、より人体の構造や物理の知識を利用できた方が有利になる。
ゆえに今、その場にいる大和以外の誰もそうと自覚せず、決着の道行きは定まっていた。レーヨが振り上げる拳に対し、大和は重力を乗せた一撃でその脳髄を叩き割ればいい。それだけの結末が出来上がっていた。
だが、いつもそうした物語と言うのは、主役の登場によって劇的に変化する。
山吹色の光が瞬く。それは一瞬にして凄まじい光量と化し、魔力を纏った大和の身体に叩きつけられる。
「レーヨッ!!」
聞き慣れた愛する少女の声に、獣と化した少年の意識が復活を果たす。その視界の先に見据える少女の存在が、レーヨの中に確かな迷いを生み、握った拳から力が抜けた。その身体がフッと気が抜けたように一歩離れ、その彼女を信じるように道を開ける。
そこへ魔力の力も補正も解かれた大和が激突し、自重によって凄まじい衝撃が全身を突き抜ける中、二又の剣を構えた少女の一撃が叩き込まれた。
「アコスティコ・フォルツァ!!」
それは、ただの衝撃波ではない。魔力は衝撃波を生み出すと同時、大和の中にあった魔力の振動に対して逆位相の力をぶつけ、アルケーの遺骨によって強化された肉体を穿ったばかりか、回復へと向かうアスクレーピオスの効果すら打ち消してしまう。その回復しきれない痛みと衝撃が大和の精神を多大に揺さぶり、許容量を越えたショックが完全に彼の意識を断ち切った。
どんなに回復の力を持っていても、それを手繰るそもそもの意識を奪い去られてしまえばどうにもならない。
ここに今、レーヨが思い描いた残酷な結末は消え去り、太陽のような明るさを纏う光の少女によってもたらされた救済の決着により、戦いの幕は閉じられた。
とりあえず大和さんのしつこさは異常でした。