④
突如として上がった悲鳴は、画面向こうから聞こえてくるような現実感の乏しいものでなかった。耳朶を打ったのは、どこまで生々しい、生に溢れたもの。男も女も入り混じったその声に全員が呆気に取られ、続いて聞こえてくる地ならしのような音に目を剥く。何か、そう何かが近づいてくるのだ。
人が大勢で移動するとき、当たり前だが大地が揺れる。それはそうだ。一人一人はそうでもなくても、多勢となれば話は別だ。揃った震動は重なり合い、大きく波及し、世界さえも揺るがすものとなる。
これもそれと同じ。だが、決定的に違うのは、その足音が人間のものなどではなかったと言うこと。
悲鳴は終わり、次に聞こえてきたのは、耳を劈く断末魔の叫び。上がる悲痛な叫びに連鎖して巻き起こる狂騒と混乱の中、体育館の窓や壁を強引にぶち破り、それは利愛たちの目にするところとなった。
「おい……嘘だろッ!?」
理解の追いつかない事態に利愛もまた悲鳴のような叫びを上げる中、彼女が見たのは、まるでその場の素材で適当に造り上げたような不恰好な四肢を持つ数十匹にも及ぶ獣の群れだ。それが音とも思えないような咆哮を上げ、無差別にその場にいた全員に襲い掛かった。そこに一切の躊躇など無く、それを前にして、利愛たちは何も出来なかった。ただ突然のことに足を止め、続いて悲鳴が極限まで高まり、血の飛沫が舞った時、彼女はようやく硬直から解かれた。
そこにあったのは、悲惨な光景だった。
無力な一般人が、力を持たない人々が、土塊の獣によって噛みつかれ、腕を引きちぎられ、心臓を抉り出される。
その一連の事態を前に、利愛の中で先ほど誓ったばかりの決意が蘇る。それは彼女に恐怖よりも先に力を与え、怒声と共に彼女はそれを呼び出した。
「カヴァティーナッ!!」
利愛の手元に二又の剣が現れる。それは彼女だけではない。同じ光景に恐怖よりも先に己の立場をしっかりと把握した実力者たちは、逃げることよりも先に戦うことを選択した。その手に罪を罰する力の象徴を生み出し、権利者としての絶大な力を行使することを決める。
守るため、幼い少年と少女たちは、残酷な死が振りまかれるその場所で、武器を携えて戦うことを決意した。
「リナ、リナ待ってッ! こんなところで全力でカヴァティーナを使わないでッ!」
日常を外れた異様な光景の中、視界を覆う血と肉と骨に表情を顰め、その瞳に涙さえ浮かべながら、それでも事態を冷静に見ていた卯月は焦る利愛を叱咤する。彼女の力の特性上、それを全力で放つ『アコスティコ・フォルツァ』は、明らかにこの人の入り乱れた状況で使える技ではない。かと言って利愛にそれ以外のこの状況を打破する有効的な攻撃方法は無い。ゆえに彼女は、その肩を掴み、今にも飛び出そうとする利愛を止める。
「何言ってるの! 今、今行かなかったら、皆死ぬんだよッ!!」
「だから待って!! この数を一度に相手にしてられない! ちゃんと考えないと、どんどん人が死ぬのよ!!」
「んなこと言ってる場合――」
「――だ、誰か、誰か助けてくれ!!」
その時、聞こえてきたのは、利愛も聞き覚えのある声だった。体育館の入り口付近、そこで腰を下ろしていた男が、複数の土塊の獣に襲われている。それは、先ほど利愛たちを罵倒し、侮蔑したあの男だった。
その男に気づき、しかし利愛は一切迷いはしなかった。卯月の手を振り払い、全速力で男の傍に駆け寄り、群がる土塊の獣の一匹にカヴァティーナを振り下ろす。だが、それが獣に当たることは無かった。その寸前で、横合いから伸びた鈍い銀の輝きを持つ刀身が受け止めたからだ。それによって刀身が砕け散り、地面にぱらぱらと落ちていく。
それを行ったのが誰かに気づき、利愛は振り返って怒声を浴びせた。
「ふっざけんな、卯月ッ!! 気に食わないからって見捨てるのッ!?」
利愛の後ろには、彼女のシュトラーフェ、『落葉』を構えた卯月の姿がある。その目は恐ろしいまでの冷たさを秘めており、それが利愛には理解できなかった。まさか、本当にさっきの一件だけでこの男を見捨てるのか、と友人に対して信じられない疑念を覚えてしまう。
しかし、次の彼女の一言が、利愛の間違いを指摘した。
「違う。――落葉、始めるよ!」
卯月の指示を受け、折れて零れた刀身の破片が動き出す。それは利愛を越え、今にも男に襲いかかろうとしていた土塊の獣を粉々に切り裂いた。一つ一つがシュトラーフェとしての確かな力を持ったその一撃は、一瞬の間に獣たちを刈り取り、ただの土へと還していく。
落葉。その力は、零れた刀身の破片を自在に操作することにある。
そのために卯月は、一先ず利愛に防御力を極端に弱めた上で己のシュトラーフェを崩させ、その膨大な数の刃を操って同時に複数の対象を相手取ろうとしたのだ。それを利愛が聞く耳を持たなかったせいで予定が狂うことになったが、それでも結果オーライと言えるだろう。
卯月の攻撃によって救われた男が一目散に逃げ出す中、そこに彼女は目もくれない。それよりも今、彼女には優先すべきことがある。
砕けた刃が土塊の纏っていた固いコンクリートと打ち合い、それはさらに量を増す。その膨大な数の破片を、卯月は一気に解き放った。
「これは……落葉の……!」
「私がなるべく多くの敵を引き付ける!! リナは逃げ遅れた人の避難を優先して!! 無事な人から助けてッ!!」
「く……分かった!」
本来であれば、襲われている人間を優先するべきと思うかもしれない。だが、襲われている人間は無数にいる。その一人一人を助けていたら、絶対的に今のこの場にいるクラティアの数では間に合わない。この体育館に集まっているクラティアは、おそらく利愛たち学生を含めた数人、利愛の父ほかの一般人として生活し、戦いなどしたこともないような者たちが数名と言ったところだ。クラティア全てが万全に戦えるわけではない。ゆえに現状、最優先すべきは何の被害も負っていないものの、腰を抜かしたか、あるいは怪我や病気などで動けなくなっている人たち。それらを優先して助けていかなければ、被害は収まるところを知らず、連鎖的に拡大していく。
この時、冷静に事態を見ることが出来ていたのは、あろうことか中学一年生の十三歳の少女ただ一人だった。警察官である利愛の父ですら、戦いに赴こうとする娘の姿を危惧し、襲い掛かる獣と打ち合いながら、その暴挙を止めようと焦っていたほどだ。
死の連鎖は収まるところを知らず、戦う彼女らを嘲笑うように、命の一つ一つが費えていく。そんな中で子供の彼らも懸命に戦っていた。玲はその『霧雨』の能力、一刀両断で以って瞬く間にいくつもの獣を切り伏せ、島津は外に飛び出し、第二波として襲い掛かる土塊の獣を叩き潰していく。速水は人の入り乱れた状況と言ういささか能力の使えない状況下でも懸命に剣を振るい、五郎丸と言うシュトラーフェを改名した少女、時雨は学年選抜戦では見せられなかったその実力を発揮する。
戦力としては、十分に揃っていたと言えるだろう。そこにいたのは、まだ幼いながらも押しも押されもしない実力者たちだ。
しかしそれでも、獣の進攻は止まるところを知らなかった。
打ち倒された傍から土を食らい、獣たちは復活を果たす。それだけではなく、後方から襲い掛かるのは、先と同量の獣たちだ。それがこの避難場所となった体育館目掛け、怒涛の勢いで襲い掛かる。これがどういった事態なのか、それを疑問に思うものはいなかった。そんなことを考えている余裕も無かったのだ。迫る脅威は確かにあり、誰が、どうして、などと不思議に思っている場合ではない。彼らが理解したことは、たった一つだけ。このままでは、大勢の人間が死んでしまうと言う恐怖だ。
だからこそ、利愛は懸命に走る。その中で彼女が真っ先に見かけたのは、足から血を流しながら覚束ない足取りで出入り口へと向かうさっき見たばかりの男の姿だった。
「おっちゃん!」
慌てて駆け寄る利愛に、彼女たちにアイスを渡していった男は、苦しそうに微笑む。足が痛むのだろう。それでも何とか歩こうとしている胆力は驚くべきものだが、このままでは土塊の獣の餌食になることは目に見えている。
「嬢ちゃんか。はは、早速助けられたってわけだ」
冗談めかして言う男に利愛も何とか笑い、その肩に手を貸す。だが、それでも歩みは速まらない。迷った末、利愛は人としての行動を止めた。人ではなくクラティアとして、強引な救助に入る。
「おっちゃん、今から私がおぶって運ぶよ」
「は、はぁ? 何言ってんだ。嬢ちゃんみたいな女の子が――」
「私がクラティアだって、知ってんだろッ!」
強引に男の身体を肩に担ぎ、利愛は身体強化の魔術で爆発的に身体能力を上げ、一気に駆け出した。そのことに男が悲鳴を上げるのも気にせず体育館の外に飛び出していく。体育館の外は、比較的中よりも安全な様子だった。襲い掛かっている土塊の獣はあの体育館に集中しているのか、無事な多くの人間が逃げ惑っている。そこで先ほど助けたばかりの小太りの男を見つけ、利愛はその傍に駆け寄った。
「おい、ちょっと、おいってば!」
「あ、こんなときにな――な、お、おま、何だよっ!?」
声をかけられ、焦ったように応じた小太りの男の顔面が蒼白になる。それが男を背負う小さな少女への驚きによるものか、それとも先ほど助けられたと言う事実と自身の言動を思い返してのものか、そのどちらともつかない中で、利愛は抱えた男を小太りの男に任せる。
「この人を、一緒に連れてってあげて!」
「はぁ!? ふざけんな、出来るわけねぇだろっ! なんで他の奴の面倒までみなきゃいけねーんだよっ!」
人としてはともかく、生物としてはある意味で真っ当な男の発言に、しかし利愛は食い下がる。利愛もこの男一人にかかずらっている暇は無いのだ。体育館には、未だ幾人も力無い人々がいる。それを助けるためには、普通の人同士で協力してもらわなければどうにもならない。
「頼むよ、おっちゃん! この人、足怪我してるんだ! 走れないの!」
「知るかッ! 大体、何で俺なんだよ!? 普通、俺に頼むか!?」
その言葉に、利愛はフッと強気な瞳を小太りの男に向ける。そうして彼女が言い放ったのは、何とも少女とは思えない堂々とした一言だった。
「化け物は化け物と心中してろ、じゃねーの? それじゃあ、人は人同士、助け合ってよ」
今さらですが、落葉ではなく、落葉と読みます。