③
クラティア災害の一時避難所となった霧生院学園の体育館は、当初に比べて落ち着きを見せていた。収容される大半が事件の最初期に逃げ延びた者たちであったことも含め、新たな避難者が現れはするものの、大多数が落ち着いていれば人は落ち着くものだ。新しくこの学園を訪れた者たちも、どこか安堵した様子の避難者たちの光景に胸を撫で下ろし、広大な体育館の一部を自らの場として座り込む。明確に区画分けはされていないが、確かな個々人あるいは一世帯ごとのスペースが出来始めていたその頃、現利愛は何をするでもなく、ぼんやりとテレビの映像を眺めていた。その隣には、同じ学生服に身を包んだ卯月ほか数名の同級生が並んでおり、現場を飛ぶ中継ヘリの映す圧巻の光景に目を奪われている。彼らの目に広がるのは、およそ常識とはかけ離れた光景だ。断続的に炎が瞬き、時としてそれは青白く輝きながら、黒喰の魔力が幾度も放たれる。そのたびに平和であった町に亀裂が走り、家屋は焼け落ち、数メートルはあろうかと言うマンションが消し飛ぶ。
それは、クラティアである彼女たちにとっても、恐るべき光景だった。
やがて映像が切り替わり、現在の避難状況、警戒警報の発令地域などの詳細なデータが画面一杯に現れると、事態を緊張した面持ちで見守っていた利愛は、肩の力を抜くように息を吐き出した。余りに衝撃的な光景のせいか、あるいは夏の暑さと人の多さのせいか、身体がじっとりと汗ばんでいる。それは、利愛だけに限らなかった。共に同じ光景を固唾を呑んで見ていた一般の大人たちはもちろん、彼女の友人らも同様に表情は固い。
当たり前だ。利愛たちが見たのは、彼女たちの魔術と言う力の認識を根底から覆すものだった。
例えば、剣の道に生きる者がいたとする。彼は村の中でも一番の剣士であり、その実力に自信を持って町の剣道大会に挑戦したとしよう。おそらくそんな彼が見るのは、自分の実力など優に超える実力者たちの姿だろう。
利愛たちもまた、同じだ。魔術と言う世界に生き、クラティアとしても学年選抜者に選ばれ、上位の立場にあった彼女たちの自負心は、目の前の遥かな頂にある魔法使いに根底から圧し折られた。井の中の蛙、大海を知らず――利愛たちは今、自分たちが生きる世界の大きさについてはっきりと理解した。
同時に、自分たちの力の恐ろしさ、それを何の躊躇も無く振るっていた学年選抜戦の己を思い返し、自省の念を覚えもした。防護服が無ければ、まともな肉体で戦っていれば、卯月の放った剣は玲の腕を切り落としていただろう。利愛の放ったカヴァティーナの殴打は、速水の身体の骨を粉々に粉砕していただろう。
人間は脆弱だ。そしてクラティアは、そんな脆弱な人間をあっさりと害してしまうだけの力を有している。たとえ、利愛たちのような中学生の子供たちであっても。その事実が幼い少年少女の心に重く圧し掛かり、誰も何も話すことが出来なかった。彼らを見守っていた大人たちも、何を話せばいいのか躊躇われ、声をかけることも出来ない。
そんな中、一人の男が利愛たちに近づいてきた。彼はクーラーボックスを手に抱えるという奇妙な格好で彼女たちの目線の高さにしゃがみ込むと、その中身を開いてみせる。そこに入っているのは、色取り取りのアイスだ。
「ほれ、好きなもんを取れ。嬢ちゃんたちは子供だからな、サービスだ」
何故、男がそんなものを担いでいるのか。半ば呆気に取られる中、しかし利愛たちの目はあからさまに輝いている。突如として見せられたアイスに目を奪われ、それから体育館に漂う熱気を思い出し、利愛は唾を呑んだ。だが、それに手を伸ばすことは躊躇われてしまう。唐突な親切心がどうにも理解できなかったのだ。
そんな利愛たちの遠慮気味の反応を豪快に笑い、男は告げる。
「なに、嬢ちゃんみたいなクラティアに恩売っときゃ、いざってときに助けてくれるかもって思ってな。ギブアンドテイクってやつだよ」
その言葉が嘘であることぐらい、利愛たちにも分かる。おそらく、男は彼女たちに余計な気を遣わせないようにしているのだろう。
七人は、互いに顔を見合わせる。取っていいのだろうか、と未だ決めかねる中、真っ先に手を伸ばしたのは、やはりこの少女だった。とは言え、彼女も何も無遠慮に取ったわけではない。このまま放っておいてもこの親切な人を困らせるだけだろうと考えた結果だ。その代わり、感謝の言葉だけはしっかりと届ける。
「おっちゃん、ありがと!」
「おう」
利愛がカップのアイスを取るに従い、他の面々も礼を述べながらそれぞれアイスを手に取っていく。男は小売店でもしているのだろうか。腰元から使い捨て用の木のスプーンを人数分取り出して渡すと、彼女たちの中でも中心的な雰囲気を出す利愛に声をかけて去っていた。
「嬢ちゃんたちは悪くない。気にすんな。クラティアがどんだけ世の中の役に立ってるかは、大人はちゃんと知ってる」
固い表情をしていたために先の小太りの男の言葉を気にしていると思われたのだろう。いささか見当違いの親切心に曖昧な笑みで返しながら、利愛は胸の内に温かい何かが芽生えるのを感じた。それは渡されたアイスの冷たさとは真逆のもので、それを両手で握り締めながら、彼女は理解する。
ここにいる全て、クラティアで無い普通の人たち。そんな人たちと一線を画すクラティアと言う存在が何なのか。
かつて、世の中を襲った悪い魔法使いたちがいた。こう聞くとまるでおとぎ話のようにも聞こえるが、それは事実であり、約五十年と少し前、科学が魔術の領域に踏み込むことを快く思わなかった魔法使いたちは、その超常の力で以って世界に宣戦布告した。もちろん、やったことと言えばテロ紛いの行為であり、大それてはいるが、宣戦布告と呼ばれるといささか弱い。だが、その脅威は本物であり、兵器と違って自由自在に超常の力を扱う彼らに対処すべく、ドイツのある研究機関が一つの兵器を造り上げた。
それがシュトラーフェ――魔力を武器に変えて生み出す、クラティアの象徴となった力だ。
罰する者の名を冠したこの武器は、その名の通りに犯罪者と化した魔法使いたちを一網打尽にし、世界に魔法使いの存在を知らしめると共に、それが対抗可能な存在でもあることをも知らしめた。
クラティアとは、もとより守るために生み出された存在だ。人を害する悪い魔法使いから、平穏な世界に生きる人々を守るため、利愛たちのような存在は生まれた。そして、その身に危険極まり無い力を宿しているからこそ、彼らは「クラティア」と呼ばれている。権利、支配を表すその名前は、彼らがそれに準じるほどの強大な存在であることを自戒するための名なのだ。
ゆえにここに、利愛は正しく己を識る。
(私は……皆を守る魔法使いになりたい)
父が警察官として人々を守っていたように、今、映像の向こうで暴れまわるクラティアと渡り合っている勇敢な人々のように、自身もまた、そうした存在になりたいと自覚する。
――クラティアとは、守る者。
利愛は、そう理解した。
貰ったアイスにスプーンを伸ばし、それを口に運ぶ。その甘さと冷たさに熱した頭が溶かされていくような心地を覚えながら、利愛は自分の決意を確かなものへと変えるべく、自分に何が出来るかを考え始めた。
そこで不意にテレビの映像が再び切り替わり、今度は崩壊した町並みからやや離れた光景を映し出す。崩壊の波濤が広がっていく中で映し出されたのは、利愛も良く知る高層タワーだった。中継カメラは、その最上階にある展望台を映している。その光景を目にし、スプーンを口に運ぶ利愛の手が止まった。
『み、見てください! 展望台の上に、逃げ遅れた子供らしき人影がありますっ! こんな時間にあんなところで何をしているのでしょうか!? あ、何でしょう、あれは! 壁が、崩れて――あ、ああ!! きょ、巨大な、全長三メートルはあろうかと言う人の形をした何かが、建物の外壁をよじ登っていますッ!!』
ヘリコプターのプロペラの音に負けないように大声を張り上げる女性リポーターの声など少しも耳に入らず、そこにアップで映し出された少年と少女の姿を認め、利愛は目を見開く。映像は乱れ、薄暗闇の中にいるために顔ははっきりとは分からない。だが、彼らの顔を利愛が見逃すはずはなかった。それは、対象は違えど、ここにいる面々も同じだ。卯月はそのどちらもすぐに見当が付いたし、時雨や島津、速水と言った彼らと面識のほとんど無い者たちでも、学年主席と言う立場にある少女のことは良く知っている。玲などは、実は夜ひっそりと思い起こしているほどに恋慕している少女がそこにいるのだ。分からないはずが無い。
レーヨと椿、血は繋がっていなくても、確かな絆を持つ兄妹の姿がそこにあった。
だが、それだけではない。映像の中、高層タワーの外壁を全速力で登っていく化け物のような何かが見える。それは、人と呼べるものではなかった。身体は醜く膨れ上がり、はち切れんばかりの筋肉は、服の名残のようなものが付いている。一歩進むたびに腕と足で壁を貫通させ、強引とも言える方法でそこを上っているのだ。
――化け物。
そう、そこにいるのは、一種の化け物だ。それも利愛が先ほどまで見たようなクラティアの化け物とは違う。より根源的な、生物としての何かを誤ってしまった怪物がそこにいる。
「レーヨ!!」
思わずその身を案じて叫んでしまい、それが確信を持てなかった六人にもテレビの向こうにいる少年と少女が予想通りの人物であると決定付ける。同時に彼らは、そこに迫る脅威も理解した。それは、彼らだけではない。その場でテレビ画面を食らいつくように見ていた人々も同じだ。口々に困惑の声を上げ、指差し、何かを騒いでいる。その誰もが一様に画面を凝視し、次の展開を恐れていた。
だが、それを悠長に構えている暇など、彼らにはなかった。