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テレフテア・アポカリプス  作者: ほざお
七月六日 真実
148/215

 その一言で、少年は全てを悟った。

 もう、この少女は、少年の妹ではなくなったということを。少年はもう、柊零余ではなくなったということを。ならば、少年は誰だ。どんな名前を持ち、どんな姓を持ち、どんな世界に立っていた。分からない。当たり前だ。少年は、柊零余として生きてきたのだ。それ以外の名も姓も、当に棄てている。自分を証明するものの何一つ、彼は持ってはいないのだ。

 だからこそ、少年はこう答えるしかなかった。それ以外の答えなど、持ち合わせていなかった。

「俺は……椿の、兄さんだよ」

 絞り出したその言葉に、椿ははっきりと怒りの感情を滲ませた。強く歯を食いしばり、憎々しいまでの想いを瞳に乗せ、爆発的な魔力と共に叫びを上げる。

「ふざけないでッ!!」

 そこには、少年に向けていた優しい笑みも、穏やかな表情も、親愛の情の何もかもが無かった。そこにあるのは、侮蔑と軽蔑、そして計り知れないほどの憤怒だ。あの誰よりも優しく、兄のために悲しんでくれた少女が今、本当の兄のために怒りを露にしていた。兄が持つはずだったわずかな立ち位置すらも奪い取った目の前の少年に怒り、抑え切れない激情に肩を震わせながら、一方で瞳から悲しみの涙を溢れ出させる。彼女自身、自分が今どんな感情に身を震わせているのか分かっていないのだろう。理解し難い感情に呑まれながら、明確な敵意を持つ相手にそれを叩きつけている。何より許せない、兄を騙った非道な存在へ。

「あなたは……あなたなんか、兄さんじゃない! 私の、兄さんなんかじゃ、ない……ッ! 全部聞いた……全部見た……見せられた……! 兄さんは……こんな、こんな暗い地下で七年間も……ずっとッ!!」

 暴力的な魔力の波動が形となって現れ、不可視の空間が少年を吹き飛ばす。そんな中で、けれど少年が苦しいのは、椿から放たれる言葉の数々だった。暴力的な力よりも、身体を襲う衝撃よりも、ただ椿の言葉が苦しく、辛かった。全てが事実で、当然の怒りだと分かっていても、胸の奥深くに刃が突き立ち、それはじわじわと傷口を広げていく。彼女の言葉の何もかもが正しくて、だからこそどうしようもなく悲しかった。

「ずっと……あんな、あんな……ひどい、こと……ッ! なんで……? どうして……? なんで皆、皆して……兄さんを……ッ! あの人が何したって言うの!?」

 椿の怒りに従って形成された風の弾丸が、倒れた少年の身体に打ち込まれていく。その全てが金属バットで殴られるに等しい衝撃を前に、少年の意識が途絶えそうになる。それでも彼は目を閉じない。耳を開いて、椿の慟哭を聞き続ける。彼には、その責任があった。嘘を吐いた一人として、彼女の兄を傷つけた一人として、その悲痛な叫びから耳を塞ぐことは許されない。

「力が無いのがそんなにダメ……? それが無かったら、人として生きることも許されないの……? 当たり前に学校に行くことも、友達と話すことも、笑うことも認めてくれないの? ふざけないでッ!! なんの……あなたに……あなたたちみたいな人に……何の権利があるって言うの!?」

 ああその通りだ、と風の弾丸に打たれながら、少年は思う。その怒りも、叫びも何かも、何も間違っていない。それは正しくて、当たり前のことで、零余の境遇を知れば誰だってそう思うだろう。それはきっと、人としてあるべき怒りで――でも、世界はそんなに優しくはなかった。

 少年は知っている。世界は、残酷だと言うことを。

 望んだ当たり前が手に入るのは一部の人間だけで、いつもどこかで誰かが地べたを這いずり回って、必死になってそれを手に入れようとしている。普通であること、それはとてつもなく難しいのだ。そんな普通を生来的に獲得できたのが椿や利愛、卯月たちで、そして少年や零余は、それを獲得することはできなかった。生まれた瞬間から地べたを這いずり回ることを強要されて、汚泥にまみれながら必死になって普通であろうとした。それを乞い求め、願って生きてきた。そうしてたどり着いた先もまた、結局は普通ではなかった。

 だけど、ならばそれは少年や零余が悪いのか? 必死になった結果の先に求めるものが得られなかったら、それは彼らの努力が足りなかったからなのか? 生まれ持ったものの違いが、どうしてこれほどまでに明確に区分けされるのだろう。ただ生きることさえ、認めてはくれないのだろう。

(椿、その通りだよな……。なんで、なんで俺たちが……普通に生きちゃいけないんだよ)

 少年だって普通でありたかった。自身の名前を名乗り、学校に行き、友と語り、家族と笑う。自分だけの世界、確固たる己、汚されることの無い珠玉。誰しもが持っているだろうそれを持ちたかった。

 だが、世界は少年から親を奪い、名を奪い、生きる場所を奪った。彼は何も持たない名無しの存在となり、それは柊家に来てからも変わらなかった。そんな中で得た柊零余と言う名も家族も、所詮は仮初だと知っていた。

(けどさ……俺、これでも結構本気だったんだよ……)

 目の前で必死に泣き叫ぶ少女を想う。少年は、彼女だけは本物だと思っていた。仮に彼女が自分を兄だと誤解し続けたままでも、自分からは本当の思いを持ち続けようと誓っていた。零余との約束を超えて、それは確かな少年と椿との繋がりになっていた。

「皆嫌い……お父さんもお母さんも、大和さんも……皆、皆……ッ! 私の兄さんを返してッ!!」

 最大級の風の一撃を受け、少年は大きく吹き飛ぶ。その身はもはやボロボロで、それ以上に心はどうしようもなく折れかかっていて、それでも彼は立ち上がる。傷つけられると分かっていても、眠ってしまったほうが良いと分かっていても、彼はその両の足に力を込め、無我夢中で立ち上がる。理由は簡単だ。たった一つの約束を守るため。自分の思いを遂げるため。そして何より、彼女の前でだけはどんな理由があろうとも――

「俺は……椿の兄さんでないといけないんだよ……」

「だまれぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 次の瞬間、全身を穿つ脅威の風の一撃を前に、少年は完全に意識を失った。




 少年が目を覚ますと、すでに日も沈もうかと言う時間帯になっていた。どこか遠くでカラスが鳴き、物寂しい夕暮れの訪れを告げる。漂ってくる香ばしい匂いに昼食を取り忘れていたことを思い出しながら、同時に全身に走る疲労感と痛みに気づき、彼は上げかけた身体をもう一度地面に横たえた。全身はまるでトラックとぶつかったかのように痛み、動かすだけで骨が軋みを上げる。口の中もいくらか切れているのか、顔を横向けて吐き出した唾には血が混じっていた。その中に折れた歯のようなものも見える。どうにも身体はボロボロで、手加減も容赦も無く、少年は叩きのめされたらしい。それでも生きているのは、椿の温情ゆえか。あるいは、殺すだけの勇気を持ち得なかったか。それともまさか、心のどこかで少年を兄だと思っていてくれたか。

(……馬鹿か、俺は)

 その楽観的な考えに自嘲し、そんなことはあり得ないと否定する。何故なら、椿の中には確かな兄の記憶があるのだ。過去、零余が話してくれた椿との思い出。木に登って降りられなくなった彼女を励まし、守ると約束した出来事。あれが椿にとって零余を信じ、慈しむ要因になっているのなら、その思い出を持たない少年に心を許すはずが無い。彼女が想っているのは、彼女を救ってくれた優しき兄なのだ。都合、六年間も騙し続けた少年をどうして認めてくれようか。

 不意に涙が零れる。自分にとっての全てが壊れたことを知り、どうしようもなく悲しい想いが溢れた。それだけではない。たった一人の親友との約束すらも守れず、大切な妹を泣かせ、傷つけた。その全てが少年には悔しくて悲しかった。その抑え切れない思いが大粒の水滴となって零れる頃、不意にズボンに入れた携帯が騒がしく鳴り立てる。その空気の読めない通知に苛立ちながら、取り出したそれを見てみれば、彼にとって大切なもう一人の少女の名前が浮かんでいた。

(リナ……)

 すぐに出ようとして、迷う。すぐにでも彼女の声を聞きたい。縋りたいと思う一方で、今の自分にそんな権利はあるのだろうか。椿を騙していたと言うことは、その友達をも騙したと言うことだ。全てが発覚した今、素知らぬ顔で彼女と電話が出来るわけも無い。

 そう思い、電話が切れるのを待ってみるが、電話は一向に切れてくれない。しつこく鳴り響き、利愛の確かな存在を教えてくれる。それを少年が気長に待つことは不可能だった。電話の通話ボタンを押し、耳に当てる。そこから聞こえてくるだろう少女の声を待つ。

『あ、繋がったぁ。もう、心配したんだから。ずっと電話してるのに出てくんないだもん。嫌われたかと思ったぞ~』

 そんな呑気な利愛の声に心安らぎながら、少年は努めて平静を装い、手短に用件だけを聞くことにする。いつまでもこの愛らしい声を聞き続けることは出来そうに無かった。いつか、きっと全てを打ち明けてしまう。何も知らない利愛にまで、重たいものを背負わせてしまう。頼り、縋り、泣いて、見っとも無く許してもらおうとするだろう。それは、少年の望むところではなかった。

「ごめん、色々あって……。その、何か用、リナ?」

 声は震えてないだろうか。何かおかしなことを口走っていないだろうか。分からない。ただ、少年は必死になって言い繕う。

「用があるなら、早くしてほしいんだ……今、急がしくてさ。その、だから……」

『声、震えてるよ。何かあった……?』

「――――――」

 そう一発で言い当てられ、少年は息を呑む。恐れていたことが現実となった。こんなぼろぼろの身も心も傷ついた状態で電話するべきではなかった。思えば、利愛は振動を操るクラティアだ。どれだけ取り繕おうとも、人より優れた聴覚が少年の微妙な感情の揺れを巧みに聞き取ったのだろう。

 少年の指が動き、咄嗟に電話を切ろうとする。だが、それよりも早く利愛の声がそれを止めた。

『切らないで! 切っちゃ、ダメだよ?』

「……でも、俺……」

『話してくれないかな……何か、力になれるかもしれないから』

 その言葉が決定的だった。押し止めていた気持ちの全てが溢れ出し、関係の無い利愛を巻き込んでしまう。それでも、少年は知ってほしかった。聞いてほしかった。自分の全て、ここまでに歩んできた道のり、その中で出会ったたった一人の親友と、その妹のこと。

 それはかつて、少年が利愛にほとんど毎日のように聞かせていた話だった。『識』の魔術で彼女の記憶に残らないように注意しながら、何度もその話をした。自分と言う存在を誰かに知らせたくて、他者にそれを話すことで自身を肯定しようとした。だから少年は、利愛に、ありがとう、と告げたのだ。少年が零余と言う別の何かに成り代わり、その意味に苦しんでいた時、利愛と言う存在が自分を肯定してくれたと思えたから。

 しどろもどろになりながらも話す少年の言葉を、利愛は何も言わずにただ一心に聞き続けてくれた。時間も忘れて少年は話し続け、日が完全に落ちる頃になって、彼はようやく話を止めた。そのまま、利愛の反応だけを待つ。

 彼女は、どう思っただろうか。必死になって言い訳と後悔を続ける少年の言葉に、何を感じただろうか。それを恐れながら、何を言われても仕方が無い、と少年は利愛の言葉を待つ。

 しばらくの沈黙を経て、利愛から返ってきたのは、端的な一言だった。

『それは零余が悪い』

 零余――と変わらず少年のものではない名前を告げながら、彼女は心に刺さる一言を告げる。だが一方で、彼女は少年を零余だとも認めていた。その不自然さに疑問が残り、利愛の一言で崩れそうになった心を何とか支える。そこに込められた意味を、正しく受け取ろうとする。しかし、そんな努力をするまでも無く、利愛はしっかりと彼女の答えを届けてくれた。

『私はさ、零余と出会ったのは六年前で、ってことはその時の零余は今の零余でしょ? 騙された、って別に思わない。驚きはしたけど、逆に良かったって思う。零余のお母さんは、桔梗さんじゃないんだよね。なら、良かった。本当のお母さんにあんな態度取られてなくて良かった。でも、椿は違うよね。ずっとずっと、零余を本当のお兄さんだと思ってたんだよ?』

「分かってる……分かってるさ」

 思わずムキになって言い返す少年に、利愛はぴしゃりと告げる。

『分かってないよ。零余はぜんぜん、分かってない』

 その言葉が重くて、どこまでも痛くて、少年は唇を震わせた。利愛にまで責められていると言うことが、携帯を握る手を震わせ、目の前が真っ暗になったように思えてくる。しかし、次に聞こえてきた言葉は、ただ責めるだけのものではなった。

『なんでもっとちゃんと、椿に言ってあげなかったの。自分もお前の兄さんだ、って』

「それは――」

 どの口でそんなことが言えると言うのだろう。椿の本当の兄の居場所を奪ったばかりか、非道な実験を手伝い、苦しむ姿を間近で見ていながら何もしなかった。そんな自分が、どの口で堂々と「お前の兄だ」と口に出来るだろう。それでも椿には何とかその一言を絞り出したが、それを本気で言えていないことは、少年が自覚していた。ただの虚勢、必死になって約束を守ろうとしただけだ。心の底から、自分自身の強い思いでそれを認められたわけではなかった。

 その事実を思い返し、利愛の言葉の一つ一つが胸に刺さる。けれどそれは、決して痛みを伴うものではなくて、もっと強く、勇気付けてくれるものだ。

『私には、椿の求めてるものが何なのかは分かんない。でも、私ならそうして欲しい。嘘だって言ってても、本当は違うって言って欲しい。だって、たとえ嘘でも六年も一緒に過ごしてきたんだよ? それを全部嘘だなんて、認めたいわけが無い。椿だってそうだよ。嘘でも本当だったって言って欲しい。だって椿、本当に零余が好きだったんだよ? 私や卯月に何度も話してた。零余がどんなことをしたとか、お菓子を作ってくれたとか、凄く楽しそうに』

「椿が……」

『だから、零余が悪い。椿の言葉を認めちゃって、何も強く言い返さなかったなんて、そんなの駄目だよ。自分の気持ち、ちゃんと伝えないと。必死にならないと。人間ってさ、目の前で見たものしか信じられないんだよ? 本当に分かって欲しいって思うんなら、無理だとか無駄だとか思わないで、必死になって思いを伝えなきゃ』

 少年は驚く。まさか利愛からここまで助けになる言葉を貰えるとは思わなかった。いつも能天気で明るく、楽しげにしている少女だからこそ、こんな時もそんなことを言うのだと思っていた。だが、利愛が言っていることは全て正しくて、何より少年の間違いを正しく指摘している。

 確かに少年は、自分が悪いからと決め付け、椿に何の弁明もしなかった。何も言わなければ、何も伝わらない。椿の中では、ただ非道な兄のふりをした男と言う存在だけが残る。

 言葉にするべきだった。口に出すべきだった。通じなくても、怒らせることになっても、必死になって叫び続けるべきだった。約束も誓いもかなぐり捨てて、信じてもらえるまで想いを伝えるべきだった。

『そうすれば、きっと椿なら分かってくれる。あの優しい椿なら、分かってくれるよ』

「もし……分かってくれなかったら?」

『そんときは私がぶっ飛ばして分からせる。明日、試合でね。零余が優しいことも、椿を本気で想ってることも、私は良く知ってる。なのにいつも一緒にいた椿がそれを知らないなんて寝ぼけたこと、絶対に言わせないから』

 その力強い言葉を聞いて、少年は確信する。

 ――自分はどうしようもなくこの少女に惹かれている。紡がれる言葉に勇気付けられ、安心してしまう。この少女がいれば何でも出来ると思えてしまう。

『だから零余、勇気を出して。失敗してもいいじゃん。私が助けてあげるから』

「リ、ナ……う、ぐ……ぁ……あぁ……!」

 限界だった。その優しい言葉に、再び涙が零れだし、電話越しだというのに嗚咽を漏らして泣いてしまう。そんな彼を慰めるように利愛が甘く語りかけてくれる。まるで母に揺すられるような穏やかな心地の中で、少年はずっとそれを聞き続けた。涙が乾き、嗚咽が収まるまでずっと、夜空に星が浮かび、月明かりに照らされるまでずっと、その心地よさに身を寄せ続けた。

 リナは良い子ですね。

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