⑨
そう俺は冷静な部分で結論付けているのだが、それはどうやら俺だけの話だったらしい。倒れこんだその先で、ふと影が過ぎり、見慣れた学校指定の、スニーカーにも似た白い上履きが都合四足、目に飛び込んできた。それが誰のものかを察し、見上げた先には、ニコリと笑う二人の少女がいる。俺を救ってくれたはずの少女たちは、しかし笑顔を浮かべたまま、何故か俺にしか見えないだろう般若の応身を背負っていた。ついにこの二人も開闢域に到達したのか、と馬鹿なことを考え始めた頭を叱咤し、俺は出来る限りの弁解に走る。
「い、今のは、その……不可抗力だよな?」
恐る恐る尋ねる俺に、カティさんとリーシャは顔を見合わせる。
「ねぇ、カティさん。ふかこーりょく、って何ですか?」
「さぁ? 私たち外国から来たから分からないわ」
絶対嘘だぁーーーーっ!!
ここでいきなり外国人設定持ち出すとか、君たちペラペラの日本語話してるじゃん!
などと文句を叫ぶ気力も湧き上がらず、俺は特に言い返すことも無く、そのまま地面に身体を倒した。体力も気力も、魔力さえも使い果たした。もはや、カティさんたちを相手取る余裕は無い。好きにしてくれ、とその思いのままに仰向けに身を投げ出し、気づけば暗くなり始めていた空を見上げる。もう夜か、と言う思いと同時に、まだ夜なのか、と言う不思議な感覚があった。
今日一日、俺は死力を尽くしたと言っていいだろう。いや、正確に言えば、最初の襲撃からここまでの一、二時間足らずか。本当に休む間もなく動いていた気がする。そのせいで大幅に時を過ごしたように感じてしまったのだ。
空を見上げる俺に、覗き込む顔が二つ。膝を折った姿勢で地面に座ったカティさんとリーシャは、月明かりが浮かび始めたその空よりもなお綺麗な二人の顔を見せてくれる。そのどちらにも怪我らしい怪我は見られず、特にカティさんにいたっては俺のアスクレーピオスが正しく回復して命を繋ぎ止めてくれたことに安堵した。リアムとの戦いで負った顔の傷も癒えているようで何よりだ。
思わず、俺は手を伸ばす。その手がカティさんの頬に触れ、瞬間、カティさんが表情を強張らせた。わずかに頬が赤くなっているのは気のせいだろうか。瞳が忙しなく揺れ動き、俺の行動の意図を伺う様子が目で見て分かる。
戦闘の高揚した気分がそうさせたのだろう。伸ばした手でそっとその柔らかくも美しく、綺麗な白い肌に触れ、俺は自分でも驚くほどの邪気の無い声で呟いた。
「カティ、無事で良かった」
その瞬間、本当にカティさんの表情が茹で上がった。そうと分かるほどに赤く染まり、俺から逃れるように手を振り払う。そのまま顔を俯けてしまっては、少し心配になってしまった。さすがに偉そうに過ぎただろうか。ちょっと格好つけようと張り切ったのだが、いきなり呼び捨てにされて怒り心頭と言ったところか。
酔ったような気分でそんなことを思っていると、顔を背けたカティさんに代わって何故かリーシャが俺に顔を近づけてくる。その頬は少し膨らみ、拗ねたような様子が見て取れた。彼女は、何を怒っているのだろう。ああ、そうか。分かった。いくらなんでも不躾な振る舞いをした俺をカティさんに代わって怒っているのだろう。もっとデリカシーを持て、とそう言うことだと判断する。
「ごめん、リーシャ」
とりあえず、俺は謝っておくことにした。しかし、リーシャの機嫌が直った様子は無い。
「なにが、ですか……?」
問う声のトーンの低さに内心で驚きながら、それが表に出ることは無かった。とにかく身体が重く、疲れているのだ。一々言葉を重ねて弁明する気が起きず、端的な言葉で俺は気持ちを表すことにする。
「好きだよ、リーシャ」
「……………っ!」
途端にリーシャの頬が真っ赤に染まり、あわあわと俺の目の前で両手を振り回した後、それを両頬に当てて悶え始めた。その様子を眺め、俺は少し心配になる。あの謎の奇行はどう言うことだろう。そんな君の優しいところが好きだよ、と言うつもりだったのだが、少し省略しすぎただろうか。と言うか、これはこれで言ってて恥ずかしい言葉だな。こんな疲れてぼーっとした気分だからこそ出てきた台詞と言える。
くそ、冷静に頭が回らない。これ以上、二人を困惑させてもいられないし、さっさと体力を回復させたいところだが、そんな便利な力も無いしな。
などとそう考えていると、今度はカティさんが顔を覗き込ませてきた。さっきから何だと言うのだろう。あと、その目が恐ろしいまでに冷たいのは気のせいだろうか。
「柊くんって、リーシャが好きなの?」
「カ、カティさん!?」
その直接的な質問にリーシャが悲鳴のような声を上げるが、どこか期待するような目で俺を見ていた。しかし、そんな期待をされても答えは一つしか用意できない。とにかく、疲れているのだ。疲れているから、この答えで納得してほしい。
「好きだよ。カティさんと同じくらい」
これぞ完璧な答えと言える。好き嫌いなんてそう答えられるものでないし、けれど嫌いとは言えないだろう。だが、好きと答えてしまえば誤解を招きかねない。そこで友人の名前を出して、どれほど好きかを明確化する。こんな疲れた中でよくもまぁ、こんな誰も傷つけず、カティさんの疑問に誤魔化すことなく答えられる解を見つけられるものだ。俺ってちょー頭良い。
と俺は思ったのだが、何故か二人の反応は芳しくない。カティさんだけでなく、リーシャまで目が冷たくなった。あのリーシャが、珍しくも俺を冷たい瞳で見ている。何だろう、俺は途轍もない地雷を踏んだのだろうか。と言うか、そもそもここには地雷しかなかったんじゃないか、とすら思う。何をどうやっても爆弾は起爆したのではないだろうか、と何故か漠然と思ってしまう。
やっぱり、俺の頭は変だ。開闢を使った後で疲れているせいだ。
さっさと寝たい――。
「柊くん、一つお願いがあるんだけど」
「な……に?」
やばいな、瞼が重たくなってきた。二人の姿がそろそろ見えなくなってきている。しかし、この前、開闢を使った時はこれほどまで疲弊しなかったことを考えると、神功がどれほどの強敵だったかが分かる。そう言えば、アルもさっきから静かだし、もう寝たのかな。
「私のこと、カティ、って呼んでくれる?」
「う、ん……」
何を言っているんだろう。俺はもう呼んでいるじゃないか、カティさんって。
ああ、くそ。本当に頭がぼーっとしてやがる。あれ、今何か空の上で瞬いたような――ああ、流れ星か。何だ、お願いすればよかった。お願いがあるんだ、一つだけ。そう、たった一つだけ。
「それから、あなたのこと、零余くんって呼んで良い?」
「……あ、い……」
どうか、どうか願うよ。リーシャに、この無垢な少女と別たれることになったとしても、また会いたいんだ。あの時はリーシャにああ言ったけど、俺だってこんなところで終わりにしたくない。だから、また、絶対に会えますように。会いたいんだ、別れてもまた、会いたいんだよ。
「はぁ~……緊張したぁ。そ、それじゃ、その……零余、くん? どうせ寝るなら、その……わ、私の膝、とか――」
「お兄さん!」
あ、れ……ああ、リーシャか。良かった。何だ、流れ星の奴め。過ぎ去った後も願いを叶えてくれるとは意外にも良い奴じゃないか。そもそもあいつら、光のくせに落ちる一瞬しか願いを聞かないとかどんだけだよ。俺が『あ』って願ってる間に地球七週半する奴らだぞ。英語で願っても『a』すら発せられないレベルだよ。まぁ、でも良い。願い、叶ったみたいだし。
俺は手を伸ばす。震える手でまた会えたリーシャの髪に触れる。
「お兄さん、キ、キ、キスとか、興味、ありますか?」
「リ、リーシャッ!?」
キス……あぁ、魚のキス、ね。興味あるかないかで言えば、普通だな。ああでも、椿が作ってくれるなら食いたいかも。うん、ちょっと食いたくなってきた。
「食いたい……かも」
「食べたいんですか!? こ、これは、予想外の反応だよ? ど、どど、どうしよう? た、食べられるの、わたし? え、えぇ?」
「リーシャ。絶対、零余くん勘違いしてるわよ?」
「なっ! そ、そうなんですか、お兄さん!?」
あぁ、リーシャの声が遠ざかっていく。意識が落ちていっているんだ。駄目だな、これ。本当にもう、駄目だ。
そうして騒がしく聞こえる二人の声が遠ざかっていく頃になって、俺の意識は完全に落ちた。
零余が鈍感主人公みたいになりました……疲れているせいです、きっと。
基本、人の情動を的確に読む少年です。