⑩
「ほらよ。好きな人なら、俺みたいな男に任せるな」
零余はセリアの肩を押し出し、あろうことかリアムの方へ向かわせたのだ。その身体がふらふらと揺れながら近づき、咄嗟にリアムは警戒する。セリアを受け止めた時点で、彼女ごと何らかの攻撃を振るわれるのではないか、と危惧する。だが、そんなことは無く、リアムの胸元にセリアはすっぽりと収まると、安堵したようにギュッと強くしがみついてきた。
その意味を理解し、零余たちの取った行動に困惑しながらも、リアムは胸の内にある大切な者の存在を実感し、涙を零しながら強く抱き締めた。死んだと思っていたからこそ、その想いは深く強く、溢れる涙は何より熱い。
そんな二人の様子を眺めながら、零余の隣に立つアルは、淡々と問いかける。
「マスター、良かったのですか?」
その意味するところを思い、零余は僅かに頬をかいた。良かったかどうかと言えば、正直、微妙なところである。思い切ってセリアをリアムに戻したのは良いが、これが本当に良い方に転ぶかは賭けだ。だが、零余に二人を殺すと言う選択肢を取れなかった以上、これ意外の方法は思いつかなかった。
「名づけて、ザ・良い人作戦、ってな。ここまで恩を売れば、さすがにもうリーシャを追わないだろう」
ふざけた調子で言う零余だが、アルは気づいている。それがただの虚勢ではなく、半ば以上本気の発言であることを。零余がある思考回路の下にリアムたちの性格や思考パターンを推察し、その上で導かれる答えこそが今の発言であると言う事実。零余とある程度思考を同じくしているアルだからこそ、それは良く分かってしまう。同時に初めて、アルは自身の主に対し、畏敬とは違う恐れを抱いた。人の心の内を読み切り、ここまで事を為してみせる主が誇らしく、一方で恐ろしくもあった。
「柊零余……君は、どうして?」
「また、どうしてか。あんたほどの男なら、俺の考えは分かるだろ?」
リアムの素朴な問いに、零余の答えは冷たい。それもそのはずで、考えるまでもなく答えを見つけ出せる相手に物を教えるほど労力の無駄遣いも無い。しかしやはり、リアムにはその思考は分かっても、それを信じられる理由が分からなかった。
「何故、僕を信じられる? もうリーシャを追わないと本当に思えるんだい?」
その言葉に対する返答は、リアムを今回、最も驚愕させるものだった。
「あんたがその子を守りに来るほど仲間想いの人間だからだ」
「…………!」
「これで良く分かっただろ? 俺たちとやりあえば、またその子が狙われる。俺みたいな奴を二度も相手にしたいか? 俺はもう、あんたみたいな疲れる人は相手にしたくないけどな」
その言葉に、リアムは笑う。なるほど、と納得してしまった。確かに零余の言うことも一理ある。これ以上、リアムがリーシャを狙い続ければ、またセリアは零余によって狙われる。この危険極まりない少年が、執拗に悪辣に狡猾に純真な彼女を汚そうとする。それは、実にご免こうむりたい、とリアムは思う。
「あんた……なんか失礼なことを考えてないか?」
「はは、いや、そんなこと無いよ。そろそろ僕らも、飼い犬は卒業するべきなのかなって思っただけさ。僕らはルプス――狼だからね」
「リアム、それって……!」
その意味するところが何か、零余は薄々は気づいていたが、ふーん、と適当な調子で応じておくだけにする。彼らの事情にまで踏み込むつもりはないし、踏み込んだ結果手伝ってくれなどと言われたらたまらない。リーシャ一人で手一杯なのだ。それにリアムたちなら、自分たちの力で困難を乗り越えるだろう。
(はぁ……にしても疲れた。カティさんもボロボロだし、まぁ、雄輝に頼んで先輩を呼んであるから来てくれるとは思うけど……うぅ、また金が。でも、この作戦を立てたのは俺だし、カティさんにはさすがに払わせられないだろしなぁ)
はぁ、と心の中だけでなく外でもため息をつき、これからの展望に零余は憂鬱な気分になる。その姿は、まるでカティを心配していないようにも見えるが、それはリーシャの力があったればこそだ。彼女の時を停める力があれば、その魔力量から見積もっても、一分ずつとは言えおよそ三十分は連続して停めていられるとリーシャ自身が豪語していた。その間に事前に連絡しておいた先輩は辿り着くだろう。恐れるべきは警察やマスコミと言った大勢の人間がこの騒ぎを聞きつけて集まることだが、医療関係の者たちも集まってくれれば、カティはより助かるようになる。その場合、リーシャのことが気がかりではあるが。
「お、お兄さん!」
そうやって考えを巡らしていると、不意にリーシャが叫びを上げた。何事かと思って零余が振り返れば、リーシャが頬を真っ赤に染めながら、どこか搾り出すような口調で言う。
「ま、魔力が、尽きそーかも、です! で、でも、頭を撫でてくれたら……その、大丈夫かなぁ、って」
そのあからさまな嘘に零余はプッと噴出し、それを見たリーシャの頬がさらに赤くなる。
そんな彼女の頭を零余が優しく撫でてあげると言う一幕を見ながら、リアムはふと思う。自分たちもああして、互いに互いを思い、毎日を過ごしていたのだと。それがいつの間にか、任務をこなしてセリアたちを守ると言う考えに固執し、心の安らぎや自由であることの意味を見失っていたのではないか。そのために多くの人間を不幸に陥れ、そのことに胸を痛めながらも、仕方ないと割り切っていたのではないか。
嬉しそうに頭を撫でられるリーシャの姿を見て、自分もまた、目の前にある少女にそんな風にして笑っていて欲しかったのだと思い出す。任務をこなして生き続けるよりも先に、ただ日々の平穏に安らぎを感じていて欲しかったのだ。そしてそれは、彼を支え、その後ろをついてきた仲間たちが本当の意味で彼に見出していた希望なのではないか。
(もしかしたら……僕は彼らの希望を、大きく履き違えたのかもしれないな)
ルプスのメンバーと共に在り、過ごしてきた時間を思い出す。彼らと共に任務をこなし、天上寺に己の存在を証明し、生き残ることが全てと考えていた。だが、それは間違っていたのかもしれない。少なくともセリアやヴァン、クロードやアレッタが見たかった光は、そこには無かったのかもしれない。
ならば、これからやることは一つだけだ。リアムは、彼らにとっての本物の光となる。天上寺の呪縛を抜け出し、飼い犬ではなく、本物の狼として生きていく。
その決意を固め、思いを胸に宿し、空を見上げた先で、彼の身体はビクリと大きく震えた。
「あ…………」
背中に突き抜ける鈍い衝撃と、遅れてやって来る痛み。それは背中を越えて腹部にまで到達し、さらにはその先、セリアの身体までも貫いている。強引に血管を突き破り、臓器を抉り取ったそれは、血に塗れ、見下げたそこにあったのは絶望の色に染まった愛すべき少女の姿と、それが引き抜かれたことで飛び出した、少女の長く伸びた腸だった。
「あ……ぐ」
振り返る。
リアムは、痛みすら度外視し、理解できない状況をただ確認するように振り返る。
――そこには、鬼がいた。
「あー、邪魔くせぇ」
九鬼神功。
全てを崩落せしめる悪鬼は、もぎ取った少女の腸を強引に握りつぶし、それによって繋がれた少年と少女を邪魔くさそうに押しのけ、血塗れの手を振り払って現れた。
リアム、死亡フラグ建てるから……。