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「……精霊」
「あいー」
気の抜ける応答と共に、精霊が天井からぬるりと姿を現した。私が呼びかけたのが珍しいのか、彼女は好奇の目をぱちくりと瞬かせている。
だが、すぐに表情は強張った。私の様子に気がついたせいだろう。
「あいつらの言っていたこと、本当なの」
「んんー……どのあたりの話?」
「全部よ! 私が兄様をふって、あの女好きと……なにをしたってわけ!?」
「あ、それ聞いちゃう? 聞いちゃう系?」
精霊は半分天井に体をうずめたまま、腕を組んで私を見下ろした。
「そっち気になっちゃうかー。魔王の話の方がおすすめなんだけどなー」
鬱陶しさの極まった声音とは裏腹に、精霊は苦みを噛み潰したような笑みを浮かべていた。
すでにフラミーの姿は部屋にはない。彼女は私に、名前の知れない煮えくり返るような感情だけを残し、日が暮れる前に帰っていったしまった。
そうして一人になった私は、ひとしきり物に当たった後で精霊を呼んだのだ。
正直に言えば、あまり期待はしていなかった。精霊は常に契約者の傍にいて、その呼びかけに応じるもの。そう聞いたことはあるが、私がそれを実感できる機会はなかった。
だが、少女は私の呼びかけに姿を現した。フラミー達との会話も聞いていたらしい。話に聞いたとおり、ずっと傍に潜んでいたに違いない。
それが分かれば十分だった。
「あんた、私の精霊なんでしょう。それなら傍で見ていたはずよ、私がなにをしていたのか!」
「いや、ま、そりゃあそれなりに見ていたけど」
「じゃあ答えなさい! 本当に私は兄様をふったの!? 殿下とどこまでなにをしたの!!」
触れられないと知りつつ、私は精霊に掴みかかるように手を伸ばした。襟首を掴み損ねた手は宙を掻いたが、少女を脅すには十分だったようだ。彼女はびくりと強張り、先ほどよりも少し深く天井に埋まる。
「だ、大丈夫、ストイックな関係だったよ! アリーシャ、あなたが思うようなことはなんもない。だって四六時中精霊が見ているんだし! 精霊であるこの私が言うんだから間違いないって。ジルヴァーノとだってキスも――――あ」
「あ?」
「うん、まあ、エリオが言うようなことはなかった。それは間違いない!」
「ちょっと! 比べる相手が変わってるわよ!」
なにが間違いない、だ。怒り心頭の私に、精霊はなだめるように手のひらを振る。
「まあまあ、気にしなさんなって。双方非合意の上だったんだし」
「余計悪いじゃない!!」
私は声を張り上げると、近くにあった水差しを掴んで天井に投げつけた。
だが、投げた水差しが精霊に当たる前に、彼女はぺろりと舌を出し、逃げるように天井の中に引っ込んでいった。
「待ちなさい! 『あ』ってなによ『あ』って! なにがあったのか、答えてから行きなさいよ!!」
私の全霊の声は、しかし虚しくも無機質な天井に吸い込まれていった。
○
天井に向かって投げられた水差し。水浸しの絨毯。苛立ち紛れにあられもない所へ投げつけられたクッション。とにかく目につくものが散乱した床の上。
もはやどれほど精霊を呼んでも、彼女は姿を見せなかった。煮えたぎった怒りの矛先が見つからず、鬱憤晴らしに八つ当たりされた部屋は、今は綺麗に片付けられてしまっている。
部屋の物音を聞きつけ、駈け込んで来た数人の女中たちのしわざだった。
「またまた、今回もずいぶん暴れましたねえ」
片付けを終え、そう親しげに話しかけてきたのは、私が毛嫌いしていた古参の女中だった。記憶の中では彼女もまた私を嫌っている節があったが、今はそのまるでその気配が感じられない。
「これでも、いつもに比べたらマシですよ。お嬢様ってば、魔法で部屋を吹き飛ばすなんてこともしょっちゅうですから」
馴れ馴れしい態度で言ったのは、見覚えのない若い女中だ。年の頃は十三、四。私と同じか、少し下くらいだろうか。彼女は飛び散った水滴を追い、未だに雑巾を片手に部屋をうろうろしている。
「でも、一番ひどかったのはあれですよね。花の精霊が暴走したとき! 片付けても片付けても花びらが出てきて、いつまでたっても掃除が終わらないの――――」
「ビビ、こら!」
おしゃべりなその若い女中を、先輩女中が叱りつけた。「しっ」と唇に手を当てる。
「それは二年前のことよ。あなたも聞いているでしょう。今、お嬢様にはここ三年間の記憶がないって」
「……あ、し、失礼しました」
ビビと呼ばれた女中は、慌てて私に頭を下げた。だが、私は返事をせず、彼女たちに振り向くこともしない。
仕事を終えたにもかかわらず無意味に部屋に残るどころか、主人の私に平気で声をかける。そんなわきまえない女中と話す口なんて持っていないし――それに今は、他に気になることがあったのだ。
部屋の片隅に置かれた衣装箪笥。私の視線は、少し煤けたその箪笥に向かう。
暴れて部屋中を引っ掻き回していた時、あの中に見慣れない衣装ばかりが入っていたのを覚えている。十四の私とは明らかに趣味が異なるドレスや魔法使いのローブ。地味で機能的で、品のない魔法訓練服。
――――それらに紛れて、一着だけ、よく見慣れた衣装が紛れ込んでいたのだ。
「……なんか、お嬢様お元気ないですか?」
「当たり前でしょう。記憶がないなんて、不安で仕方ないはずだもの」
「はやく、いつもの元気なお嬢様に戻ってくださるといいですね……」
「ねえ。あれじゃあ調子狂っちゃうわ」
箪笥を見つめ続ける態度がどうとられたのか、背後からこそこそと私を窺う声がする。
内緒話のつもりだろうが、声は筒抜けだった。
それらを無視し、私は無言で衣装箪笥に手を掛ける。
中にあるのは、濃紺のローブと襟の付いたワンピース。魔法の威力を吸収する、金糸の刺繍が袖にあしらわれている。
襟には、校章をあしらった緑のブローチ。
ウェルチ魔法学院の制服だった。




