新たなる門出
お船に乗って二日の行程。水槽の中でエラ呼吸に励む大地主さんに何が欲しいと問われて「お金をください」とダイレクトに答えた僕は、人生に必要なものを買い戻すことに成功し、すっきりした気分で新たなる門出に臨みます。
光るクラゲの遊覧を促す船内放送をきっぱりと無視して、本の世界へと埋没します。樽の中で。
今更、密航の一つや二つで僕の経歴はびくともしません。バレなきゃいいんです。
「くらげ……」
そんな目をしたって駄目です。
大体、貴女が極度の人間不信だから、こんなドブ底のような暮らしに甘んじているのですよ。
まったく……。
とはいえ、暇です。アイテム欄の整理でもしておきますか。マンドラゴラ、マンドラゴラ、マンドラゴラ……。
…………。
マンドラゴラしかありません!
「こっ、これは……!」
間違いなく勇者さんの仕業です。ときとして彼女は意味不明なイタズラを僕に仕掛けてくるのです。パーティー全滅の危機に繋がる悪質なトラップの数々。獅子身中の虫とは良く言ったものです。
「ぼ、僕にどんなリアクションを求めてるんですか……」
遠回しに呪殺を依頼されているとしか思えません。魔術師の本領と言えなくもありませんが、魔術寮を卒寮してゆくゆくは実家で悠々自適な日々に返り咲く予定の僕には無縁な代物です。
ガクガクと震える僕を、勇者さんは精巧なガラス玉のような目で一瞥し、
「……ツマラナイ男」
ぼそりと吐き捨てました。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が流れます。
これ見よがしに溜息を吐いた勇者さんが、ケータイなる怪しげなアイテムを取り出してカチカチといじり回します。事あるごとに勇者さんはそうやって僕を苦しめるのです。
意を決して、僕は尋ねました。あえて避けてきた話題のひとつです。
「…………それ、なんなんですか?」
「ケータイ」
「うぅ……ケータイってなんなんですか?」
「ふふ」
勇者さんは含み笑いを漏らして、ケータイの何も映し出されていない画面(でぃすぷれいと言うそうです)を僕に向けました。
「タロくんのコントローラー。って言ったら、どうする?」
……! 最悪の予想が当たりました。
「ぼ、僕にどんなコマンドを入力したんですかっ……!?」
「ふふ。さあ?」
勇者さんは小首を傾げて、ランプ代わりに使っていた星の剣の出力をオフにします。星の精霊さんから授かった由緒ある聖剣です。光で構成される刀身がふっと消えて、辺りは一面の闇に閉ざされました。
「な、なんで明かりを消すんです?」
すると、勇者さんはさも当然のような口振りで、
「バッテリーが勿体ないでしょ……?」
「バッテリーってなんなんです!?」
限界でした。恐慌状態に陥った僕は、樽を飛び出て倉庫の隅という名のセープポイントに駆け込みました。なんとなく落ち着く場所です。自覚はありませんが、何かしらのトラウマを僕は抱えているのでしょうか?
「1、2、3、5、7、11、13……」
勇者さんは素数を数え始めました。カチカチカチカチ、とケータイを操作する音が鳴り響きます。薄闇の中、勇者さんの赤い瞳が煌々と光を放っています。
…………。
こうして、特に何事もなく過ぎ去った航海でしたが、僕の心に大きな傷跡を残したのは言うまでもありません。
「くらげ……」
大自然の神秘を垣間見た勇者さんは、ご満悦でした。
なお。
「魔術師の切り札は己の肉体だ。走れ、走れ、走れ――」
船員さんによる、幼女誘拐の嫌疑を掛けられた密航者の一大捕物が展開された件に関しては、そっとしておいてください。
【だろのレベルが1あがった】
……そっとしておいてください。
第五話です。
魔術師の花形と言えば宮廷魔術師ですが、大抵の魔術師は工作員としての教育を施されます。