ヴェルマーの血
魔素の匂いが鼻先をかすめたのは、勇者さんと手を繋いで廊下を歩いていたときでした。
振り返ると案の定、床の一部が仄かな輝きを放っています。自然界の光とは異なる、無機質な光の羅列です。ある一定の意思で統一された微小な連なりと申しましょうか。幻想的な雰囲気など微塵もありません。
魔法陣です。とっさに構成を読み取ろうとしてしまうのは魔術師に共通する悲しい性でした。
「転移……?」
反射的に勇者さんを小脇に抱えて、飛び退きます。呪霊王さまの三度に渡る襲撃で発覚したのですが、勇者さんは魔術への耐性が極めて高い反面、ひどく鈍感な部分があります。
着地と同時に“拍子”を踏んで、指を鳴らします。大気中の塵を媒体に像を結ぶ。級長さんの“反魂”をアレンジした僕の新技です。
果たして転送を終えた何者かは、
「ダロくーん。今――って、あれ、縮んだ?」
小さな僕にポカポカとすねを殴られて痛がる素振りも見せません。名付けて手乗りヴェルマー君です。
「ちっさ……」
勇者さんの何気ない呟きが胸に突き刺さりました。
「教授……」
「久しぶりだねー。元気してた?」
ニコニコと笑顔満面で手を振っているのは、僕らのクラスを担当しているスペンサ教授その人です。苦手なんですよね、この人……。
「今さー、ちょっといいかなー?」
そう言って教授は、糸のように細めた目でチラリと勇者さんを一瞥しました。勇者さんの視線は小人さんに釘付けです。
「良くありません」
僕は即答しました。
見て分かりませんか? お散歩してるんです。勇者さんは放っておくと四六時中、僕の部屋でごろごろしてますからね。
「そんなこと言わずにさー、僕とダロくんの仲じゃないかー」
教授は、相も変わらぬ馴れ馴れしさです。
僕は溜息を吐いて、勇者さんのお腹を手放しました。
「……勇者さん。残念ですが、お散歩はまたの機会に。お部屋に一人で帰れますか?」
「あたしに指図しないで」
僕は、苦渋の選択を迫られます。
「三時のおやつ、メニューをひとつ追加で手を打ちませんか?」
「…………きっとよ?」
確約を取り付けた勇者さんは、さも当然のように手乗りヴェルマー君を回収してその場をあとにします。
彼女の姿が見えなくなるまで見送って、僕は教授を睨み付けます。
勇者さんに虫歯が出来たらどうしてくれるんです? 血は血で贖って貰いますよ?
「あらら、魔術師長の言ってた通りだねー。すっかり仲良くなっちゃって」
ごたくはいいです。用件はなんです?
「補習の件なんだけどさー、さっそくだけど今から王宮に忍び込んで機密文書の処理に当たってくれない?」
ひょうひょうとしていますが、スペンサ教授は“補習”の管理者という裏の一面を隠し持っています。
「なんで僕なんです? 娘さんも課題を達成できなかった筈ですよ。ザマ先生……」
勇者さんの一撃で首を刎ね飛ばされた火竜さんは、肉体ごと消し飛んでしまいました。手元に残ったのは一枚の鱗のみ。
至極当然の流れで勃発したクラスメイト達の醜い争い。これを目の当りにした級長さんは、“付箋”を率いて大暴れ、怒り心頭で漁夫の利を得たのでした。
スペンサ教授は、まるで堪えた様子もなく、
「僕はね? 一人の教師である前に、一人の親なの」
私情を全投入です。何を言っても無駄でしょう。僕は諦めました。どのみち補習は避けて通れません。なんとなく僕に回ってくる補習は難易度がケタ違いな気がするのですが、魔術師としての資質に欠けるぶん仕方ありません。
それで? 機密文書ってなんなんです?
「他言無用ねー。実はさー、王子さまが自分の駄目さ加減に嫌気が差して、改造計画を秘密裏に進行中なんだよねー」
立派じゃないですか。勇者さんより年下なのに、大したものです。この国の未来は明るいですね。
「いや、実際? 困るんだよねー。うちの国ってズバリ傀儡政治でしょ? 魔術師長は別格として、三大貴族の絶妙なバランスで均衡が保たれてるんだよねー。言ってみれば、王さまは飾りみたいなもので、無能なままでいてくれた方が何かと都合がいいんだってさー」
この国のお先は真っ暗ですね。
「つまり、僕に何をしろと?」
「うん。王子さまの計画書を盗み出して処分してくれる? あとは、こっちで何とかするから」
「僕に死ねと?」
「大丈夫じゃないかなー? だってダロくん、ヴェルマーでしょ。捕まってもどうにかできるし、どうにもならないんじゃない?」
「? どういう……?」
「一人っ子だよね? ヴェルマーの跡継ぎなんだよ、君は。僕はしがない平民だから貴族のことは詳しくないけど、こんな仕事やってるとね、なんか色々と見えてくる。ダロくんも大変だねえ……」
そんなもんですかね。
でも、これだけは言わせてください。
――貴方にだけは同情されたくないです。
第十三話です。
勇者のみが扱える星の剣は、魔素の連結を分解する力を備えています。