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ベリルへの伝言

作者: pinkmint

 今までいくつの遺体と出逢ってきただろう。

 動物、虫、人間、大小さまざまなむくろは、

 それらのまわりにいつもおなじ空気を漂わせている。


 血の通う肉体から命が飛び去ると、あたりの空気の温度も下がる、墨を含んだように色が鎮まる。だからそれがたとえ手の先でも足の先でも、けして見間違うことはない。

 生きているものと、死んだものとを。


 今ぼくの目の前約3メートルの距離、茂みの低木の向こうに突き出ている脚は、よれよれの革のブーツのつま先をそれぞれあちらとこちらに向けて、闇の中に沈黙している。  

 体は見えない、だがその墨色の沈黙が語っていた。つま先の指す空に彼の魂が飛んでしばらく経っていることを。

 だからぼくはいつものように、自分が生き延びるための算段に入った。ポケットをまさぐり所持品と金目のものを漁るんだ、淡々と、淡々と。この街を出て行くために。

 ふと何かに呼ばれたような気がして後ろを振り向いた。木立をすかして見える深夜のくもり空は、眼下のロスの街のきらめきを反映してほの明るい。

 小高い山の上にある広大なこの公園はその一部に有名な天文台を抱え、日が落ちれば周囲は観光客でにぎわう。こんなところにわざわざ来るのは、生きたい人間のほかは、この街を死に場所に選んだものか、街に最期のお別れを告げに来たものだろう。後者ならば、ぼくの仲間だ。

 暫く俯いて考えるともなく考えていると、昔々パパが好きでよく聞いていたドン・マクリーンのヒット曲が、どこかのカーステレオから流れて来た。



 通りの子ども達は叫び

 恋人達は泣き 詩人は夢にまどろむ

 でも言葉は失われたまま

 教会の鐘は壊れ

 そして僕が愛する父と子と聖霊も

 海岸行きの最終列車に乗り込んだ

 音楽が死んだあの日


 バイバイ、ミス・アメリカン・パイ

 シボレーでのりこむしらけたパーティ

 ラムとウイスキーをひっかけて

 連中はみんなで歌ってる

 俺が死ぬはずはない

 この俺が死ぬはずがない


 ぼくは立ち上がり、男のいる闇に背を向けて、駐車場のほうに歩み出した。

 畜生、今日はきっと厄日だ。


 車の群れに近づくともう音楽は聞こえなかった、代わりにロサンゼルス・レイカ―ズ対ボストン・セルティックスの試合の中継がけたたましく流れて来た。 

 NBAファイナル。丁度試合が終わったところらしく、赤いシボレーの中から遠吠えのような雄叫びが聞こえて来た。

「乾杯しようぜ、乾杯だ!」

 シェイクしたコーラを手に出て来たカウボーイハットの髭面男が、続いて出て来た男に泡の爆弾を吹っ掛ける。やせ形の赤毛の男は、長く尾を引いて飛び散るコーラを嬉しそうに受けながら破れたジーンズでキックをかました。そしてふたり、歌うように肩を組んで叫び出す。

 トゥルース!トゥルース!トゥルース万歳!

「セルティックスが勝ったの?」ぼくは何気なさを装って斜め前から二人に声をかけた。髭面は残りのコーラをていねいに赤毛に振りかけながら答えた。

「当然だろ!今までの借りを返してやったぜ、レイカーズめ。24点のビハインドを跳ね返しての大逆転勝利だ、これで22年ぶりのチャンピオンだぜ、チャンピオンだ!」

「じゃあMVPはポール・ピアースだね」

「当然だろう。ザ・トゥルース!やつは俺たちの誇りだ。コービー・ブライアントなんか目じゃないぜ」

 てことはボストン出身か。

「バスケカード買わない?ポール・ピアースのプレミアカード持ってるんだ」

 髭面は初めて視線を落としてぼくを見た。

「サイン入りなんだ、緊急に金がいるんで200ドルにしとくよ」

 髭面はぼくから受け取ったカードを眺めるとびしょ濡れの赤毛に渡した。

「だとよ」

 あ、カードが濡れる。そう思う間もなくぼくは髭に手首を掴まれていた。

「細いな。幾つだ」

「17」

「嘘つけ、そいつ15がいいとこだ」赤毛は笑い、ふざけてカードを咥えた。

「買うの?」

「いくらだ」

「だから200ドル」

「お前込みで」

「そっちはやってない」

 二人は鼻を鳴らした。

「ガキが売りつける鑑定書もないサインカードなんて二束三文と相場は決まってるんだよ」

「じゃあいいよ、それ返して」

『ワン!』

 赤毛は下手な鳴きまねをすると口からカードを落とした。ぼくが屈むと、靴の先でカードを蹴る。

「あ、どこかいっちまった」

 嫌な連中に当たっちまった。手の先のカードを蹴りつける二人をぼくは睨みつけた。

「でかいお兄さんたち、貧相なガキをからかって面白い?」

 二人は目を見合わせると肩をすくめた。

「まあ、ハシャギが過ぎたことは謝るよ」

 髭面は屈んでカードを拾い、毛むくじゃらの手でさっさと泥を拭った。

「優勝祝いに買ってやるよ。100ドルに負けとけ」

「返して」ちょっと声を詰まらせてみる。

「ここまで汚れちまったんだ、売り物にならんだろ。わかった、150ドルだ」

 ポケットからくしゃくしゃの紙幣を出してこっちのポケットに突っ込んでくる。やった、と思ったとたん、首根っこを掴まれたと思うと同時に上を向かされ、臭い息に唇をふさがれた。次は菓子袋でも渡すように赤毛の番。

「二人合わせて50ドル分」

 二人はぼくの背中を突き飛ばすとからからと笑いながら車に戻った。

 唇を拭って駆け出しながら心の中で怒鳴り返す。バカ野郎、このマヌケ、そいつは盗品でサインなんて偽物だ。元手がタダで150ドル、こっちはぼろ儲けだぜ糞ったれ。どこまででもいいから途中まで車に乗せてと言おうと思ってたけど、やめた。あいつらと一緒じゃろくな旅にならない。

 駐車場を出てあてもなく道を上り、眼下にロスの街を見下ろす展望台のいちばん隅に立つ。

 ゴミみたいにひとに扱われるたび自分に言い聞かせる、こんなことは慣れっこだ、いちいち薬を塗り込むほどのことじゃない、そうだろ? 

 ……それでもだんだん、心の隅に何かが降り積もってゆくのがわかる。

 そいつはいずれ黒く固く結晶し、右にも左にも揺れない鉱物に、ぼくの心を変えてしまうかもしれない。そうなればいい。ハンマーでたたいても高音ではじき返すだけの、固いつめたい鉱物に……

 突然キーン、という高い音が右の耳から左の耳に突き抜けた。

 頭の中の音? 

 ……違う。

 ぼくから数メートルほど離れた場所で、大柄な男の影が、石で手すりを叩いているのだ。

 キーン、カーン、キーン。

 背にした木から鳥がばさばさと飛び立った。

 ふと振り向いた男は、肉厚の精悍な顔に茶色い口髭を生やし、もつれた茶色の前髪が目までかかっていた。その顔を見た時、なにか、ぼくの中を風がすうっと吹き抜けて行く感じがした。

「うるさいか?」

「いい音だよ」

 男はにやりと笑うと、石をポケットに仕舞い、別の石を出してきてまた叩き始めた。

 コーン。

「これは?」

「こっちのほうが固そうでいい」

「固そうか。確かに固いからな。緑柱石って知ってるか」

「知らない」

「じゃあアクアマリンなら」

「それなら知ってる。それがそうなの?」

 男は石を手にしたままこちらに来るとぼくの隣に立った。汗と埃とアルコールの入り混じった匂いが鼻をつく。

「ベリルとも言う。これは原石だ」

 男は掌の透き通った青緑色の石柱を見せてくれた。

「結晶系は六方晶系、モース硬度は7と1/2。宝石類としては固い方だ」

「おじさん、石マニア?」

「別れた妻がな。鉱山技師の娘で、たくさんの石を持ってた」

 男は今度は真っ赤な水晶のようなものを出してきた。

「何だと思う?」

「ええと、ルビー…の原石? でもものすごく大きいよね」

「レッドベリルだ」

 掌の上の透き通った赤い石を、男はいとおしむように眺めた。

「赤色の緑柱石は珍しいんだ、アメリカでもユタとニューメキシコでしか採れない。これはユタ州のワーワー山脈、ヴァイオレット鉱区産だ」

「すごくきれいだね」

 男は石をポケットにしまった。そして、手すりの向こう、眼下に広がるロサンゼルスの、地平まで広がるような夜景に視線を投げた。

「坊主、名前は」

「ぼく? サミーだよ」

「俺はロブだ」男はでかい手を差し出してきた。固い掌は乾ききって甲殻類の殻のようだと思った。しばらく言葉もなく、二人並んで夜景を眺める。

「こんなところで一人でなにしてる」

「おじさんこそ」

 男は目を細めると、少し俯いて言葉を探す風だった。

 地平線まで広がる茫漠とした光の街は、スモッグにぼんやりとかすみ、交差する無数の道路を四方八方に伸ばして、まるで宇宙への滑走路のように見える。

「この風景を美しいと思うか?」ぼくの心を見透かしたように男は尋ねて来た。

「さあ……。光る砂漠みたいだね。あまりいい思い出はないし」

 ぼくは正直に答えた。男は手すりをトントンと叩きながら言った。

「哀しい思いを抱えながら聞いた曲は悲しい音色になる。どんなに美しい夜景でも、人を憎み続けて睨んでいたら嫌な思い出にしかならない。俺は長い旅をしてきた。最初は孤独と憎しみに満ちた気持ちで。たくさんの美しい景色を見たが砂漠よりも味気なかったよ。そして長い長い旅の果てに、ひとつの風景に帰りたいと思った。そこまで来るのに二年かかった」

「どんな風景?」

「向日葵のワンピースをきた金髪のそばかす美人が、2歳くらいの男の子を抱いて、小さな家の庭先に立ってるんだ」

 ぼくの脳裏に一瞬、その映像が浮かんだ。映画か何かのフィルムでも見るように鮮明に。既視感?もっと確実な何か……

「ロブの家族なんだね。今どうしてるの」

「お前さんの家族はどうしてる」

「ぼく?」

 言葉がのどに詰まり、考えるまいとしていたこと、思い出すまいとしていた風景がせり上がって胸を締め付ける。男は黙ったままのぼくに呟いた。

「いや、いい。悪いことを聞いたかな。俺はな、最後に帰りたい風景を愛することに決めてから、今まで憎み続けてきた風景に謝りたくなったんだ。

 何もかも、ほんとうは美しかったんだ。何もかも」

 ぼくは遠い夜景を見つめ、ため息のように小さな声で言った。

「……いつかぼくにも、あなたのように、何もかも美しかったと思える日が来るのかな」

「もしお前に、美しかったと思える風景があるのなら、それを大事にしておけ。思い出まで塗りつぶすことはないんだ」

 深いやさしい声だった。薄汚れてはいるけれど、何か神々しさのようなものの宿る、美しい横顔だった。ぼくは初めて、心にかけていた鍵を他人に向けて開けようとしている自分を感じて、一人ドキドキし始めていた。

「妹がね……」

 口にしてしまった。もう戻れない。

「妹がいたんだ、年子の。マリアって言うんだ。ぼくと違って綺麗な子で、明るい金髪でね。守りたかった」

「顔立ちは奇麗だよ、お前も。いま、どうしてる」

「知らない。ストリートギャングのところに戻ったから一緒にいるんじゃないかな」

 ぼくは視線を下に向けたまま言った。

「一年前、両親が離婚してさ。ぼくらは母に引き取られた。親父は呑んだくれの季節労働者で、正気な時があまりなかったし、母は結構美人で頭もよかったから我慢できなくなったのもしょうがないと思う。でも母親も新しい男も、既に僕らが相当邪魔なんだってことがすぐ分かったんだ。

 新しい家で、14歳のぼくには居場所がなかった。半年もしないうちに母と男の間は険悪になってた。食事も粗末なもので家の残り物、二人は家をあけてばかり。気がかりなのは妹だった。天使みたいに可愛くて、別れた両親が喧嘩ばかりしてる時も、ぬいぐるみを抱きしめて僕の膝に顔をうずめてるようなそんな子だった。そんなとき……」

 男は掌の鉱石をポンポンと弄びながら黙って聞いている。

「男がときどきぼくを家から追い出すようになった。最初は理由がわからなかったけど、あとでわかった。目的は妹だった。そのころ母はもう外に次の男を作ってたんだ」

 掌が汗ばんでくる。

「妹の異変にはすぐに気付いた。何が起きてるのか外からそっと帰ってじかにこの目で見た、そのあと、ぼくは寝ている男の頭を花瓶で思い切り殴りつけて、妹を連れて家を出た」

「死んだか?」

「後で聞いたところでは死ななかったらしい。残念なことにね。ぼくは妹だけでもまともに生きてほしかったから、警察へでもどこへでも自分から行って保護を願い出ろと言ったんだ。でもどうしてもぼくのそばを離れなかった」

 ぼくの拳を上からつかんでいた、妹の細い指、その必死な力。

「妹をまた同じめに遭わせたくなくて、薬の売人とかこそ泥みたいなまねをして必死に生きてた。その頃ストリートで知り合った似たような連中の中に、ひときわ体のでかいリーダー格の黒人がいて。後で聞いたところではマフィアの下っ端だった。ボクサーとニックネームで呼ばれてた。ボクサーはぼくの話を聞いてどういうわけかえらくぼくを気に入ってくれたんだよ。お前はいい男だ、偉い奴だって」

「……俺もそう思うよ」

「でね、お前らこいつに手を出したらただじゃおかねえぞって、そう周りに言ってくれて。周りから恐れられているこの男が、ぼくを認めて守ってくれる。誇らしかった。それが間違いの始まりだった」

 胸にたまった思いを棄てるように、そこでいったん息を吐く。

「自分が信用されてることが嬉しくて、任された仕事は何でもやったよ。彼は妹にもとても優しくしてくれたから、余計にね。彼を喜ばせたかった。ヤバい金の受け渡し、薬の取引、盗みや…強盗の時の見張り役。

 あるとき、リンチの見張りを頼まれた。組を抜けたひとりをとっ捕まえて倉庫で拷問したんだ。最初ぼくに一番優しくしてくれた奴だった。背中で聞いていた悲鳴が止んだ時彼は死んでいた。遺体は荒れ地に埋められた、ぼくはその穴も掘った」言葉を切り、唇をかみしめる。どう思われてもいい、黙っちゃだめだ、最後まで話さなければ。

「話を聞いて妹は泣いた。ぼくはそんな妹を怒鳴りつけたんだよ。みんなお前のためにしてることだ、泣くな鬱陶しいってね」

「そうか……」

 男の声は優しかった。

「怒鳴りながら思った。もう駄目だ、ここを抜けるしかない。まともな道に帰るなら今しかない、このまま彼の信用にすがっていたら、そのうちぼくがこの手で人を殺す番になるだろう」

「まっとうな判断だな。で、その決心は間に合ったのか」

「間に合わなかったよ」

 ぼくはつま先で地面を蹴った。

「ある夜、ヤツから買い出しを頼まれた時、金を持たされたのを機に妹の手を引いてそのまま逃げた。来るかっていったら、妹は黙って頷いてくれたんだ」

「間に合わなかったんじゃなかったのか」

「間に合ってなかったんだよ。妹はもう妊娠してんだ、ボクサーの子を」

 背後では、ボストン・セルティックスの優勝を祝う観光客の歌声が響いていた。……自分を見上げていたマリアの金髪の巻き毛と澄んだ青灰色の瞳が、一輪の花のような印象で甦る。

「夢中で逃げる途中、盗難車を運転するぼくに、妹は言ったんだ。サミー、決心してくれてありがとうって。これは間違っていないって。でもその翌朝、もう妹の姿はなかった。一枚のおき手紙だけがあった。やっぱり戻ります、おなかに子どもがいるから。ボクサーを愛してるの、ごめんなさい……」

 男は前を向いたまま黙って聞いている。

「ひとりぼっちになって、ただ茫然としてた。ぼくのしてきたことは何だったんだ。男を花瓶で殴ったのも、家を出たのも、グループに入ったのも抜けたのも、みんな彼女のためだったのに。ぼくはすべてを失った。世界中がぼくに向かって入口を閉ざしたような、そんな気分だった。絶望と怒りで、もう何も考えられなかった」

 ぼくはそこで言葉を切った。もういい、とにかく全部しゃべった。少し手が震えていた気がする。

 男はやや間を置くと、静かな口調で言った。

「……聞いていいか。彼女はお前を守ったんじゃないか? 自分を連れて逃げる限りボクサーはどこまでもお前を追ってくる、そして捕まったら命の保証はないだろうからな」

「その通りだったよ」

 駐車場から聞えるマドンナの歌声に、マドンナが好きだった妹の面影が重なる。

「今までに一度だけ、グループの一人と接触したんだ。彼の言うところでは、マリアが自分の身柄と引き換えに必死でボクサーに命乞いをしたため、ぼくにはもう追っ手は付かないということだった。その代わり、この街でボクサーと出逢ったら、そのときは命はないと思えと。一刻も早く街を出ていけ、そして今まで見聞きしたことを誰かに話したら妹の命はないものと思えと」

「俺はいいのか」

 美しい横顔を見せたまま男は言った。

「あなたは……問題ないよ。でしょ?」

 男は口元で静かに笑った。

「守って来た、と思っていた。だけど結局、ぼくは妹に守られてた、たぶんずっと。熱が出た時、あるいはおふくろの愛人野郎がぼくをたこ殴りにしてた時、ボクサーの機嫌が悪かった時、いろんな意味で、身を呈してくれていたのは妹だったんだ……」

 そこまでいうと、こらえて来た何かが喉から目にかけて熱塊のようにせり上がり、目のふちに溜まり始めた。ぼくは慌てて上を向いた。

「でも、守りたかった。結局何もできなかった」

 見上げた夜空に、にじむ半月がむら雲の流れに出たり入ったりしていた。

 男は掌の石をポケットに戻すと、両手を汚れた上着のポケットに突っこんだまま、かかとでトントンと地面を叩いた。

「あのな。お前は不愉快かもしれないが、それはもしかして愛かもしれないぞ。つまりマリアはボクサーに恋をしたんだ、生まれて初めての。お前もかばいたかったし、彼のもとにも戻りたかった。それで今、そんなに不幸じゃないかもしれない。とんでもない発想か?」

 ぼくはしばらく考えた。とんでもないか? いいや。

 考えたくもなくて見ないようにしていた方向だったけど、それならそれで、マリアの人生には、ひとつの真実が宿ったことになる。

「そのほうが、いい。そのほうが、むしろ、救われる」

 そこまで言うと、上腕でぐいと目を拭った。

「お前はいい子だな」

 ぼくらはまた黙って夜景を見た。少し下を向くと、男は決心したように小さく息を吸って語り始めた。

「少し俺の話もしようか。5年前、俺はソルトレイクシティに住む駆け出しの脚本家だった。いきつけのダイナーで働いてた娘にたわむれにホンを見せたら、その娘がすごく熱心な読者になってくれてな。わたしあなたの第一号のファンになるわって。向日葵のワンピースのよく似合う、小柄なそばかす美人だった。そう言われて惚れないわけにいくか?」

「いかないね」

 男は人のよさそうな顔で笑った。

「あのレッドベリルで作ったネックレスがよく似合っていた。鉱山技師の親父からのプレゼントだそうだ。その娘が喜んでくれる、ほめてくれる脚本を書こう、それが一番のエネルギーになった。彼女はいい読者だった、ここはどうかと思う、と指摘してくる点はいつも俺があいまいな気持ちで書いたところだった。彼女を第一の読者として原稿をかき、ほどなく俺は売れっ子になった」

「理想的な恋愛だね」ぼくは心からそう思った。

「だが俺は馬鹿野郎だからな、絶頂期を迎えて金も女も自由になり始めたころから、売れても売れても俺の欠点を見抜いてくる彼女が疎ましくなったんだ。馬鹿で優しくて、一晩の幸福と酒をくれる女と過ごすようになった」

「彼女とは結婚してたの?」

「いつかしようと約束しながらしてはいなかった。だんだん俺の作品が精彩を欠いて他の奴らがもてはやされ始めたころ、俺のためにと助言する彼女に苛々するようになってな。素人が俺の作品に口を出すなと、殴りつけたこともある」

「……」

「書けなくなるととにかく酒を飲んだ。俺に尽くしたいなら本気を見せろ、本気のあかしにお前のそのネックレスを棄てて来い、ファザコンが。そういって、あの赤いネックレスや指輪を捨てさせた。無茶苦茶だった」

「……最低だね」

「ああ、最低だ」男は言葉を切ると少し顔を上に向けた。

「“きっと鉱山の仕事は、神から祝福されているに違いない。この仕事ほど、人を幸せに、気高くするものはない。神の英知と秩序への洞察が目覚まされ、無垢の心と素直さがいつまでも保たれるのだから”……ノヴァーリス の言葉だ。あなたの仕事もそうね、鉱脈を探すのも言葉や真実を探すのも同じねって、彼女はよくそういっていたんだ。しかし俺は思った。親父が一番で、そのもじりが俺か。それは落ちぶれてゆく俺への嫌味か」

「ひねくれすぎじゃない?」

「俺に捨てろと言われたものをすべて捨てて泣いたあと、彼女は家を出て行った。当然の報いだ。だが当時俺は正気じゃなかった、彼女の煩い口出しが俺の才能の邪魔をしたと思いこんでたんだ。仕事も激減し、俺は酒を片手にふらりとソルトレイクシティを出た。俺はまだ終わらない、まだ素晴らしいものを探し出せると、あてもなく先へ先へ進み続けた。でも行けばいくほど世界は色を失って行くんだ。世界中が芝居の書き割りみたいに見えて来た。もう終わりだと思った」

 ぼくは黙って彼の目を見た。静かに茶色い、悲しげだけど美しい色だった。

「旅の途中でな」彼は吐息をひとつつくと、先を続けた。

「鉱山に寄ったんだ。ユタのワーワー山、あいつの親父の出身地。現場は採掘作業中で、車を降りてなんとなく散歩してたら、足元に赤い光が見えて、手で掘り返したらこれが出て来たんだよ」

 彼はぼくにあのレッドベリルを見せた。

「こんな珍しいのが?」

「なかなかあるもんじゃない、こんな出会いは。俺はそれを見ているうちに、あることを悟った。世界は石ころと砂でできていて、ただとぼとぼ歩いているだけなら、鉱脈の中の宝石に出会うのなんて奇跡のようなものさ。

 だが、俺はもう出会ってたんだ。俺のレッドベリルに、世界でただ一つの宝石に」

 彼は掌の石を握りしめた。

「ただ一つの光。俺はそれを、邪魔だと思いこんで投げ捨てた。だがそいつの輝きに照らされて、俺の数々の作品は生まれていたんだ。もう取り戻せない。たった一つの、大事な俺の宝石。

 俺は泣いた。酒が涙になって流れつくすまで、荒野の真ん中でな」

 風が彼の色あせた髪を逆さに巻きあげた。広い額は、彼がそもそももっていた英知を表しているように思えた。

「それからだ、世界中が美しく見え始めた。俺を棄てやがった、だから俺も捨ててやる、そう思っていた世界が。民家の庭先の洗濯物、野良イヌや石ころまでが尊く輝き始めた。それから、ひとつひとつの景色を拾うように、俺はすぎるばかりだった空と大地を愛することにした。愛して、見つめて、拾い集められるなら……」

「何を拾い集めるの?」

「俺が彼女に捨てさせた石だ。何種類あったかな。みんな貴重なものだった。でも相当集まったんだぜ」

「それはいまどこにあるの?」

「だから俺のポケットだ、この上着のな。こいつは誰にも触れさせないんだ。見せたのはお前さんが初めてかな」

 男は俯いてぽんぽんとポケットを叩いた。

「……できれば彼女に返したい」

「彼女の名前は何て?」

 男は上を向いて群雲を仰ぎ見る。

「ベリルだよ」

「ベリル…… レッドベリル?」

「鉱山技師の娘らしい名だろう。小さな子どもとともに、現在サクラメントに住んでいるらしいと、昔の仕事仲間から聞いた」

「子どもって……」

「たぶん俺の子だ、間違いない。家を出る前の晩、もしわたしに子どもができたらどうする、って聞いてきた。足手まといは一人で沢山だと俺は答えた。あいつはアル中の俺からその子を守るために、俺のもとを去ったんだろう」

 ぼくはだまって、彼の旅のスタートからゴールを絵のように思い浮かべた。

「あとちょっとだね。二人のところへ行くんでしょう、石を持って」

 男は黙った。

「それがな、せっかく聞いてた住所を忘れちまった」

「え。そんな馬鹿な話……」

「いやあ、そういうこともあろうかと、尻ポケットに住所を書いた紙をいつも持ってるんだ」

「じゃあ見ればいいじゃない」

「見るとすぐにでも会いたくなるからな。俺にはその資格がないだろう」

「そんなこと言ってたらきりがないよ。いつか決心しないと」

「それが今か」

「それが今だよ、ぼくと会った今だ」

 男はこれ以上ないような優しい笑みを浮かべてぼくを見ると、決心したようにいった。

「よし、勇気を出すからちょっと待ってくれ」

 ぼくは黙った。そして彼の言葉を待って、一緒に夜景を見つめた。ただの煩い光の海だったロスの街が、今は輝く宝石箱のように見えていた。

 ぼくはきつく目を閉じて、彼が帰りたいと言っていたあの風景を再現しようと試みた。だが目の裏の星雲は、広がったり流れたりするばかりで形を成さない。目をあけて、前を見たまま話しかけた。

「ぼくがポケットから出してあげようか?」

 隣を向く。

 誰もいない。

 ぼくは一人で、ただ一人で立っていた。


 ぼくは長い長いこと、自分の隣の空間を見つめた。

 ロブのいた空間。ロブの立っていた地面。

 ……いいや。

 空気は冷たく、闇は墨のように凝っていた。



 ……わかっていた。

 そんな気がする。



 ぼくは振り向き、今来た道をたどった。ゆっくりと、ゆっくりと、暗闇の中を、あの茂みまで。怖くはない、いつも一人だったから。


 遺体は元の場所にあった。

 ぼくは前に回り、屈んで、そっと顔を確かめた。

 額の広い、茶色い色あせた髪の、静かに美しい顔立ち。茶色くそろった睫毛には、土ぼこりが積もっている。手元には空の酒瓶が転がっていた。


 ……足元だけじゃわからなかったよ。

 いい男だったんだね。


 ぼくは上着のポケットを探った。美しい赤い石と、青灰色の原石と、瑪瑙のような石と、順々に出て来るのを当然のように手に受ける。ひとつひとつが、見つけられるのを待っていた美しい言葉のように、薄闇の中で静かに光る。自分の背中からリュックをおろし口をあけて、大事にひとつひとつ入れてゆく。

 さあ、ぼくと一緒に旅に出ようね。

 尻ポケットを探ると、くしゃくしゃの紙切れが出て来た。ぼくはそこに書かれた住所をゆっくりと読んだ。

 よかった、ちゃんと読みとれる。行けるよ、ロブ。

 ……あなた一人では、勇気が出なかったんだね。


 ぼくはロブの頬を撫でた。

 街を出る前に公衆電話から警察に知らせてあげるね、あなたがここに眠っていることを。

 立ち上がって、遠くの街の灯りを見やる。

 マリア、幸せに。ぼくは旅に出るよ。

 会いたい人がいる、いくべき場所がある、伝えるべきことがある、それだけで人間てこんなふうに生きる勇気が出て来るものなんだね。もしかしたらぼくも、果てしない砂漠の中で小さな宝石のかけらを見つけたのかもしれない。

 きみもそうだったらいい。ほんとうに、そうだったらいい。

 旅の最後にベリルに会えたら、彼が見たかったあの風景に出合えたなら、彼の思いと光る石たちをちゃんと手渡せたなら、その時はきみに手紙を書くよ。長い長い手紙を。


 きみは信じてくれるかな、その不思議なものがたりを。


 




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― 新着の感想 ―
[一言] 読んだのはかなり前ですが、感想を申し上げてなかったので出させていただきます。 とても美しい、大好きなお話です。 美しいにも色々あるのですが均整がとれて整った、厳しく鍛え上げられた体が美しい…
[良い点] 高橋治氏は、私の好きな作家です。 彼の文章には、映像が見えます。それはとても美しかったり悲しかったり、その時々で違います。 実は私も彼にあこがれ、彼のような作家になりたかった時期がありまし…
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