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どうぞ、聖女様の手をお取りください――私はもう、あなたを待ちません

作者: 一条優紀
掲載日:2026/09/11

約二万二千字、全五章構成の完結短編です。

少し長めですが、最後までお楽しみいただけましたら幸いです。

 一.聖女様がおいでになりました



 王太子アレクサンドルは、まだ姿を見せていなかった。


 千畳はあろうかという王宮の大広間。その天井は十メートルを優に超え、初代国王夫妻による建国を題材とした精緻なフレスコ画で覆われている。


 そこから吊るされた十基の巨大なシャンデリアには、無数の水晶がちりばめられていた。幾千もの燭光(しょっこう)を受け、磨き上げられた白い大理石の床へ星のような光を降らせている。


 白い壁には、金箔を施した壮麗な装飾が巡らされていた。その壁面には、天井近くまで届く大きなアーチ状の窓が左右に五つずつ並び、それぞれに重厚な金色のベルベットのカーテンが掛けられている。



 大きな窓の向こうには、誰にも顧みられぬ満月が、ひっそりと浮かんでいた。



 楽団が荘厳な三曲目を奏で始めても、大広間の正面に設けられた王太子の席だけが空いたままだ。


 その隣で、エカテリーナ・ヴォルコフ公爵令嬢は背筋を伸ばして立っていた。


 美しい金色の髪。白い肌に、青く澄んだ瞳。


 今夜の彼女は、王家を象徴する深いロイヤルブルーのシルクのドレスを(まと)い、共布(ともぬの)のマントを重ねていた。ドレス全体には銀糸で緻密な刺繍が施され、燭光を受けるたび、静かな波紋のような輝きを浮かべている。


 その気高い姿は、ヴォルコフ公爵家の令嬢としてだけでなく、未来の王太子妃としての風格を十分に備えていた。


 そして今夜、いよいよ彼女とアレクサンドルの婚礼の日取りが発表される。


 二人が婚約したのは十年前。エカテリーナとアレクサンドルが、まだ共に十三歳のときだった。


 王太子妃となるため、彼女は他国の言語を学び、法律を修め、国政に携わってきた。


 長い冬も、疫病の流行も、国境で起きた紛争も、アレクサンドルの隣で乗り越えてきた。


 今夜、ようやくその歳月が実を結ぶ。



 そう、彼女は信じていた。



「まあ、そのサファイアは《(なげ)きの女王(じょうおう)》ではありませんか。お母様にもよくお似合いでしたが、あなたが身につけると、また違った美しさがありますね」


 深い紫色のシルクのドレスを(まと)い、共布のマントを重ねた、年配のオルロフ伯爵夫人が声をかけてきた。


 その首元では、蔓草(つるくさ)を思わせる金の透かし細工に、大小のエメラルドとダイヤモンドを連ねた首飾りが輝いている。中央には幾つもの(しずく)形エメラルドが連なり、その最下部から、ひときわ大きな一石が揺れ、紫のドレスの上で鮮やかな緑色の光を放っていた。


 伯爵夫人は、エカテリーナが生まれた頃からヴォルコフ家と親交のある、知的で上品な女性だった。


 北方に位置するヴァレンティア王国は、小さな国である。建国以来続く貴族家も多く、この夜会に集まった者たちのほとんどが、親子代々の顔見知りだった。


 普段は家格や領地をめぐって牽制し合う彼らも、今夜ばかりはエカテリーナの美しさに目を奪われている。



 エカテリーナの胸元では、無数のダイヤモンドを連ね、精緻を極めた首飾りが燭光を受けて(まばゆ)い輝きを放っていた。


 プラチナの細工に連ねられ、(ふさ)のように垂れ下がるダイヤモンドは、(こお)りついた幾筋(いくすじ)もの涙を思わせる。その中央には、深い湖の底を閉じ込めたような大粒の青いサファイアが()えられていた。


(なげ)きの女王(じょうおう)》。


 ヴォルコフ公爵家に代々伝わるそのサファイアは、そう呼ばれていた。

 首飾りは息を呑むほど豪奢だったが、エカテリーナの気品は、その輝きに決して見劣りしなかった。


「ありがとうございます、オルロフ伯爵夫人。亡き母の形見でございます」


 エカテリーナは静かに微笑んだ。



 母は亡くなる前、この首飾りを彼女に託した。


『婚礼の日が決まったら、身につけてちょうだい。きっとあなたを守ってくれるから』


 その約束を、ようやく今日果たせると思っていた。



 大広間の重厚な扉が、ゆっくりと音もなく開いた。


 楽団の演奏が止まり、貴族たちが一斉に振り返る。


「王太子殿下のご入場です」


 気品ある金髪の青年、アレクサンドル・ヴァレンティア王太子が姿を現した。


 整った顔立ちに、北方王国の正装である濃紺の軍服。金色の飾緒(しょくしょ)が、大柄な彼の動きに合わせて揺れている。


 その堂々たる振る舞いは人々を圧倒し、すでに次期国王としての風格が備わっていた。


 だが、その腕には、一人の小柄な女性が手を添えていた。


 西方の神聖国から遣わされた聖女、マリアンヌだった。


 淡い金色の髪を結い上げ、月光を織り込んだような銀色のシルクのドレスを(まと)っている。装飾を抑えた滑らかな生地が彼女の華奢(きゃしゃ)な身体を柔らかく包み、どこか不安そうな微笑みと相まって、見る者の庇護欲を誘った。


 大広間がざわめき立つ。


 エカテリーナは、黙って二人を見つめた。


 王太子が婚約者以外の女性を伴い、公式の夜会へ現れる。それだけでも異例のことである。


 しかし、人々の視線を集めていたのは、別のものだった。



 マリアンヌの首元を大小無数のダイヤモンドを連ねた壮麗な首飾りが覆っていた。


 プラチナの細工に据えられたダイヤモンドは、幾重(いくえ)にも重なる花びらのように連なり、その中央には、ひときわ大きなダイヤモンドが据えられていた。


 燭光を受けるたび、その石は白銀の光を放った。まるで、夜の闇へこぼれ落ちた一滴の星を、そのまま結晶にしたかのようだった。


夜更(よふけ)けの(しずく)》。


 王家に代々受け継がれてきた、その大粒のダイヤモンドはそう呼ばれていた。


 未来の王太子妃だけが身につけることを許された、王家の至宝である。


 エカテリーナでさえ、まだ一度も触れたことがなかった。



 アレクサンドルはマリアンヌを伴い、真っすぐエカテリーナのもとへ歩いてきた。


 間近で見るマリアンヌは、アレクサンドルはもちろん、エカテリーナよりもひと回り小柄だった。その華奢で(はかな)げな(たたず)まいが、彼を夢中にさせるのかもしれない。


「待たせたな、エカテリーナ」


「お待ちしておりました、殿下」


 エカテリーナは完璧な礼を取った。


 それは、公爵令嬢として厳格に育てられてきた彼女にとって、呼吸と同じほど自然な振る舞いだった。


 アレクサンドルは、なぜ大広間がこれほど静まり返っているのか分からないらしい。


 周囲を見回し、ようやく人々の視線が《夜更けの雫》へ注がれていることに気づいた。


「ああ、これか」


 彼は、何でもないことのように言った。


「マリアンヌが、一度身につけてみたいと言ったのだ」


 聖女の肩が、わずかに揺れた。


「わ、わたくしは、ただ美しい宝石だと申し上げただけで……。殿下が、今夜のドレスに似合うからと、お貸しくださったのでは……」


 エカテリーナはアレクサンドルを見た。


「殿下。聖女様には、その宝石が何を意味するのか、ご説明になったのでしょうか?」


 エカテリーナは静かに問い(ただ)した。


「意味?」


 アレクサンドルは、何を問われているのか理解できないとでもいうように、怪訝(けげん)そうに眉を寄せた。


「《夜更けの雫》は、未来の王太子妃だけが身につけることを許された、王家の至宝でございます」


 エカテリーナは淡々と告げた。


 マリアンヌの顔から、見るみる血の気が引いていった。


「そのような意味があるとは、わたくし……」


 その声はかすれ、細い肩が小刻みに震え始める。


「気にする必要はない。聖女である君には、この《夜更けの雫》を身につける資格がある」


 アレクサンドルはマリアンヌを安心させるように、その手へ自分の手を重ねた。


 それからエカテリーナを見やり、当然のことのように告げた。


「今夜だけなら構わないだろう?」


 それは、問いかけの形をした宣言だった。


 そのとき、エカテリーナは胸の奥で小さな音を聞いた。


 何かが壊れた音ではない。


 長いあいだ彼女を縛っていた糸が、ようやく切れた音だった。


「ええ」


 エカテリーナは答えた。


「今夜だけのことでございましたら」


「そう言ってくれると思っていた。お前なら分かってくれるからな」


 聞き慣れた言葉だった。



 エカテリーナの十八歳の誕生日に、彼女を置き去りにし、マリアンヌに雪降る王都を見せに出かけた夜も。


 エカテリーナが高熱を出した日に、マリアンヌが悪夢を見たからと、その手を握り続けた夜も。


 そして、エカテリーナの母の葬儀より、聖女の慰問(いもん)を優先した日も。



 アレクサンドルは、同じ言葉を口にした。


『お前なら分かってくれる』


 エカテリーナは、ずっと分かろうとしてきた。


 王太子には、王太子としての務めがある。聖女は国にとって大切な存在であり、慣れない異国で心細い思いをしている。


 だから、自分が我慢すればよいのだと。



 エカテリーナは、母の首飾りに手をかけた。


「どうした?」


 アレクサンドルが不思議そうに尋ねる。


「いいえ。少々、重く感じましたので」


 その言葉を聞き、(かたわ)らに控えていた侍女のナターシャが歩み寄った。


 彼女が身につけているのは、腰を細く絞り、足首まで届く(すそ)(ゆる)やかに広げた黒い長袖の侍女服だった。詰まった首元には白い(えり)が添えられ、その上から、胸当ての付いた純白のエプロンを重ねている。髪は白い飾り布の中へ端正にまとめられていた。


 エカテリーナはナターシャに背を向け、首飾りの留め金を外させた。


 外された首飾りをエカテリーナは両手で受け止める。中央に据えられた《嘆きの女王》が、燭光を受けて深い青色に揺らめいた。


 婚礼の日取りが決まる夜に身につけるよう、母から託された首飾り。


 今夜、それを身につけている意味は、もうなかった。



「エカテリーナ様……」


 マリアンヌが何かを感じ取ったように、彼女を見つめた。



 その瞳には、勝ち誇った色も(あざけ)る色もない。ただ、戸惑いだけが浮かんでいる。


 この女性は、おそらく何も知らなかったのだ。


 知らされていなかったのだ。



「聖女様。《夜更けの雫》は、よくお似合いですわ」


 エカテリーナが告げると、マリアンヌは青ざめた。


「わたくし、本当に……」


「よいと言っているのだ。マリアンヌ、今夜は楽しめばいい」


 彼女の言葉を(さえぎ)ったアレクサンドルは、満足そうにうなずいた。


「やはり、エカテリーナは物分かりがよい。お前が私の婚約者で、本当によかった」


 エカテリーナは答えなかった。


 首飾りを絹の小袋へ丁寧に収めると、それをイブニングバッグにしまい、留め金を静かに閉じた。



 楽団が再び演奏を始めた。


 止まっていた人々の会話も、ぎこちなく戻っていく。


 けれど、婚礼の日取りが発表される様子はなかった。


 代わりにアレクサンドルが、エカテリーナへ声を落とした。



「夜会が終わったら、私の執務室へ来てくれ」


「何かございますか?」


「ああ」


 アレクサンドルは、一瞬だけマリアンヌを見た。



 その眼差しに浮かんだ愛情を、エカテリーナは見逃さなかった。



「今夜、お前に大切な相談がある」






 二.お前なら分かってくれる



 夜会が終わるまで、あと一時間。



 エカテリーナは大広間を離れ、三人の侍女を伴って王宮の控えの間へ入った。


 侍女の中でも最も長く彼女に仕えているナターシャが扉を閉めると、楽団の演奏も人々のざわめきも遠のいた。


 白と金で飾られた大広間とは異なり、こちらの壁は赤褐色のブビンガ材で覆われていた。壁面には金箔を施した飾り縁が巡らされ、床にも同じ木材が敷き詰められている。


 白い漆喰の天井には蔓草(つるくさ)模様の装飾が施され、そこから小ぶりのシャンデリアが二基、柔らかな光を降らせていた。


 調度品もブビンガ材で統一されている。床を覆うのは、複雑な文様を織り込んだ毛足の長い臙脂(えんじ)色のシルクの絨毯(じゅうたん)。二つの窓には、同色のベルベットのカーテンが天井から床まで垂らされていた。


 重厚な木の色と深い臙脂の色が溶け合い、室内には大広間とは対照的な、(あで)やかで落ち着いた雰囲気が漂っている。



「お嬢様、お加減が優れないのですか?」


「いいえ。少し、静かな場所にいたくなっただけよ」


 心配そうなナターシャへ微笑みかけ、エカテリーナは優美な寝椅子へ腰を下ろした。



 湾曲した背もたれの片側には、長い首をしなやかに伸ばし、翼を広げた一羽の白鳥が立体的に彫り出されている。その胴と翼は背もたれと一体になり、座る者を包み込むように広がっていた。


 彫刻には金箔が施され、その内側に張られた臙脂色のベルベットが、燭光(しょっこう)を受けて深い艶を帯びている。



 エカテリーナは手にしていたイブニングバッグの留め金を開き、中から絹の小袋を取り出した。


 先ほど外した母の形見の首飾りが、その中に収められている。


 小袋を受け取ったナターシャは、無数のダイヤモンドが連なる首飾りを慎重に取り出した。中央に据えられた青いサファイアが、室内の明かりを受けて、深い湖のような光を返す。


 ナターシャは首飾りを青いベルベット張りのこの宝飾のために作られた箱へ丁寧に収めた。ほかの二人の侍女は、少し離れた壁際に立ち、静かに控えていた。


(なげ)きの女王(じょうおう)》。


 それが、このサファイアに与えられた名だった。


「王太子妃の象徴である《夜更(よふけ)けの(しずく)》を、聖女様にお貸しになるなんて……」


 ナターシャの声は怒りに震えていた。


「あの宝石が何を意味するのか、殿下がご存じないはずはございません」


「ええ」


「それなのに、『今夜だけなら構わないだろう』だなんて」


「ええ」


「お嬢様は、腹が立たないのですか?」


 ナターシャは感情を抑えきれない様子で尋ねた。


 彼女の足首まで届く侍女服の裾が揺れた。


 ナターシャはエカテリーナと同い年で、十歳の頃から侍女見習いとしてヴォルコフ公爵家に仕えている。


 主人と侍女という身分の違いはあったが、エカテリーナにとってナターシャは、ただ一人、心を許せる友でもあった。


 エカテリーナは、すぐには答えられなかった。


 腹を立てたことなら、何度もある。


 悲しんだことも、誰にも知られぬよう涙を流したこともあった。


 ただ、それをアレクサンドルに見せたことはない。



 十八歳の誕生日。


 エカテリーナは、王宮の私的な晩餐室(ばんさんしつ)で彼を待っていた。


 その日は、朝から雪が降っていた。


 料理が冷め、蝋燭(ろうそく)が半分ほどになった頃、ようやく届けられたのは、アレクサンドル本人ではなく、従者からの伝言だった。


『聖女様が町を見たいとおっしゃったため、殿下はお出かけになりました』


 翌朝、エカテリーナが理由を尋ねると、彼は悪びれもせず笑った。


『誕生日は来年もあるだろう。マリアンヌが初めて雪降る王都を見られる機会は、今しかなかったのだ』


 そして、いつものように言った。


『お前なら分かってくれる』



 十九歳の冬、エカテリーナは高熱を出した。


 意識が朦朧(もうろう)とするなか、彼女は何度も扉へ目を向けた。見舞いに来ると約束したアレクサンドルを待っていたのだ。


 だが、彼は来なかった。


 マリアンヌが恐ろしい夢を見て眠れないと訴えたため、一晩中、その手を握っていたのだと、後になって聞かされた。


『お前には医師も侍女もいた。だが、あの夜のマリアンヌには私しかいなかったのだ』


 最後には、やはり同じ言葉が続いた。


『お前なら分かってくれる』



 そして半年前、母が亡くなった日。


 アレクサンドルは葬儀へ来なかった。


 王太子として参列すると約束していたにもかかわらず、同じ日に行われた聖女の慰問(いもん)へ同行した。


『母君には気の毒なことをした。だが、亡くなった者より、今を生きる民を優先すべきだろう』


 エカテリーナは、その言葉を今も忘れられない。


 母の棺の前で一人立っていた自分もまた、今を生きていた。


 それでも彼は言ったのだ。


『お前なら分かってくれる』



「最初は、分かろうとしたのよ」


 エカテリーナは、首飾りを外したあとの首元へそっと手を当てた。


 その声には、長年積み重なった深い疲れがにじんでいた。


「殿下には、お立場がある。聖女様を守ることも、民を安心させることも必要なのでしょう。私が感情を抑えることで殿下のお役に立てるなら、それが婚約者としての務めだと思っていたわ」


 小さなため息が、エカテリーナの唇からこぼれた。


「ですが、限度というものがございます」


 ナターシャの怒りは、まだ収まっていない。


「そうね。ようやく、私にも分かったの」


「何がでございますか?」


 エカテリーナは穏やかに答えた。


「殿下にとって『分かってくれる』とは、『何をしても許してくれる』という意味だったのよ」


 そのとき、控えの間の扉が叩かれた。



 入ってきたのは、エカテリーナの父、ミハエル・ヴォルコフ公爵だった。


 王国軍元帥を兼ねる彼は、濃紺の軍服を身にまとっている。王太子のものより装飾は控えめながら、肩には豪華な金色の肩章(けんしょう)が載り、胸元から飾緒(しょくしょ)が伸びていた。


 豊かな銀髪に、娘と同じ青い瞳。彫刻のように高い鼻の下には、細長く整えられた口髭を蓄えている。


 その姿には、北方の名門ヴォルコフ公爵家を束ねる者に相応しい威厳があった。


「ここにいたか」


 ミハエルは、低く穏やかな声で言った。


「お父様」


 エカテリーナが父を見上げる。


 その声には疲労が残っていたが、瞳には確かな決意が宿っていた。


 ミハエルは娘の向かいへ腰を下ろすと、ナターシャを見た。


「人払いを」


 ナターシャが他の二人の侍女と共に一礼し、部屋を出ようとする。


「ナターシャ、あなたはここにいてちょうだい」


 エカテリーナが呼び止めた。


 ナターシャは一瞬だけ公爵の顔をうかがった。ミハエルが黙ってうなずく。


「かしこまりました」


 ナターシャは扉を閉めると、壁際に置かれた侍女用の小さな椅子へ腰を下ろした。


 控えの間の空気が、静かに張り詰める。


 ミハエルは、娘の目を見つめた。


「覚悟は変わらないか?」


「変わりません」


 エカテリーナは、はっきりと答えた。


「今夜、まさかあれを身につけさせて現れるとは、私も予想していなかった」


 あれとは、マリアンヌの胸元を飾っていた《夜更けの雫》のことだ。


「陛下は、何と?」


 エカテリーナは確かめるように尋ねた。


「婚約を続けるよう強制はできない、と仰せだ。十年間にわたるお前の働きについても、十分承知しておられる」


 ミハエルは声を低くした。


「必要な署名はいただいた。議会の主要な者たちにも、すでに話は通してある」


「ありがとうございます」


 エカテリーナの顔に、安堵の笑みが浮かんだ。


「ただし、陛下は最後に一度だけ、アレクサンドル殿下と話してほしいとお望みだ」


「そのつもりです」


 その返事には、一片の迷いもなかった。


「もし殿下が心から非を認め、お前に謝罪したなら?」


 父の問いに、エカテリーナは目を伏せた。


 謝罪してくれたなら。


 ほんの数年前までの自分なら、その言葉を待ち望んだだろう。



 誕生日を忘れたことを。


 病床へ来なかったことを。


 母の葬儀に姿を見せなかったことを。



 一度でも心から詫びてくれれば、もう一度だけ信じようとしたに違いない。


「お父様。私は、殿下を憎んでいるわけではありません」


「ならば――」



「憎むほどの気持ちが、もう残っていないのです」



 ミハエルは言葉を失った。


「今夜、殿下が何をお話しになるのかは分かりません。ですが、私の返事は決まっています」


「そうか」


 父はそれ以上何も聞かず、静かに立ち上がった。


「ならば、お前の選んだ道を行きなさい。ヴォルコフ公爵家は、最後までお前を守る」


「ありがとうございます、お父様」



 ミハエルが部屋を出て間もなく、入れ替わるように王太子付きの侍従武官が現れた。


 彼もまた王国軍に籍を置く軍人である。装飾を抑えた端正な濃紺の軍服に、すぐさま馬へ乗れるよう、膝下まで届く黒革の長靴(ちょうか)を身につけ、腰には一振りのサーベルを帯びていた。王宮内での帯剣(たいけん)を許された、王太子直属の側近だった。


「エカテリーナ様。殿下がお待ちでございます」


「すぐに参ります」


 エカテリーナが立ち上がると、ナターシャは黒い鰐革(わにがわ)の書類ケースを胸元へしっかりと抱える。


 廊下で待っていた二人の侍女も一礼し、その後に続く。三人の侍女を伴い、エカテリーナは侍従武官(じじゅうぶかん)の先導に従って王太子の執務室へ向かった。



 大広間の前を通りかかると、アレクサンドルとマリアンヌが並んでいる姿が見えた。


 彼は何かを(ささや)き、マリアンヌを笑わせている。


 その横顔は、エカテリーナが一度も向けられたことのないほど優しかった。



「お嬢様。本当によろしいのですか?」


 ナターシャが、心配そうに小声で尋ねた。


「ええ」


「殿下はきっと、またおっしゃいます。お嬢様なら分かってくださると」


「そうでしょうね」


 エカテリーナは、王太子の執務室へ続く廊下へ足を踏み出した。


「だから今夜は、私のことも分かっていただくのよ」


 その傍らで、ナターシャは黒い鰐革の書類ケースを胸元へしっかりと抱えていた。


 中に収められているのは、国王の署名と王家の印章が記された一通の書類。


 エカテリーナとアレクサンドルの、婚約解消承認書だった。






三.側妃になってほしい


王太子の執務室へ着くと、二人の侍女は扉の外に控えた。


エ カテリーナはナターシャだけを伴い、侍従武官に続いて王太子の執務室へ入った。


「殿下がお戻りになるまで、こちらへお掛けになって、今しばらくお待ちください」


そう告げると、若くたくましい侍従武官は一礼し、部屋を後にした。


先ほどまでいた赤褐色(せきかっしょく)臙脂(えんじ)色の控えの間とは、また(おもむき)が異なっている。



壁を覆うのは濃紺の絹。腰板と床には、深い茶色のウォルナット材が惜しみなく使われ、壁面には金箔を施した飾り縁が巡らされていた。


白い漆喰の天井には蔓草(つるくさ)模様の装飾が施され、そこから二基の小ぶりなシャンデリアが柔らかな光を降らせている。


調度品もウォルナット材で統一されていた。床には、複雑な文様を織り込んだ毛足の長い濃紺のシルクの絨毯(じゅうたん)が敷かれている。四つある窓には、金色の飾り(ふさ)が付いた同色のベルベットのカーテンが、天井から床まで垂らされていた。


濃紺と濃い茶色で統一された室内には、王太子の執務室にふさわしい重厚さと、人を自然に萎縮(いしゅく)させるような威圧感があった。



四つの窓のうち、一つだけカーテンが開かれている。



気泡を含んだわずかに歪んだガラスの向こうには、誰にも顧みられぬ満月が、ここにもひっそりと浮かんでいた。



部屋 の最奥には、曲線と花草の彫刻で飾られた絢爛(けんらん)な執務机が置かれている。その向かいには、同じ花草の意匠を取り入れた三人掛けのソファが据えられていた。木部の彫刻には金箔が施され、座面と背もたれには濃紺の金華山織(きんかざんおり)が張られている。


エカテリーナは、そのソファへ腰を下ろした。


ナ ターシャは壁際に置かれた侍女用の椅子へ向かいかけたが、エカテリーナが目配せして、自分の(かたわ)らを示した。ナターシャは一瞬ためらったのち、主人の隣へ静かに腰を下ろした。



やがて扉を遠慮がちに叩く音がして、部屋付きの若い侍女が茶の用意を運んできた。


「殿下は間もなくお戻りになります。どうぞ、お茶を召し上がってお待ちくださいませ」


侍女は手際よく茶を()れると、一礼して部屋を出ていった。


卓上に置かれた華奢(きゃしゃ)なティーカップには、惜しみなく金彩が施されている。表面にはヴァレンティア王国の紋章であるアイリスが描かれ、同じ意匠の受け皿が添えられていた。


エカテリーナはカップを持ち上げ、茶を一口含んだ。



「おいしい……」



思わず、小さな声がこぼれた。


これほど胸を痛めているときでさえ、王宮で振る舞われる茶は温かく、香り高い。


そのささやかな温もりに、張り詰めていた心がほんの少しだけほどけた。


もう少しだけ、我慢してみようか。


そんな考えが一瞬だけ頭をよぎり、エカテリーナは自嘲する。


ナターシャの前にも、同じ茶が用意されていた。


王太子は、執務室を訪れた客人だけでなく、付き従う侍女や従者にも茶を振る舞う。それは、アレクサンドル自身が定めたことだった。


そうした心遣いができる人なのだ。


従者や家臣が疲れていれば声をかけ、その働きに礼を述べることも忘れない。


それなのに、なぜ自分の痛みだけは、いつも見ようとしないのだろう。


エカテリーナの胸に、やり場のない苛立ちが込み上げた。


その気持ちを察したのか、ナターシャが申し訳なさそうに目を伏せた。



「あら、ごめんなさい。わたくし、そんなに不快な顔をしていました?」


「いえ、とんでもございません。お嬢様のお気持ちをお察しすれば……」


ナターシャが言いかけたとき、ウォルナット材の重厚な扉がゆっくりと開いた。



アレクサンドルが、どこか気怠そうな様子で入ってくる。


エカテリーナとナターシャはカップを受け皿へ戻し、立ち上がった。ナターシャは素早く壁際へ下がる。


アレクサンドルは執務机には向かわず、暖炉の前に置かれた、エカテリーナの向かいのウィングチェアへ腰を下ろした。


「待たせてすまないな、エカテリーナ」


言葉とは裏腹に、その顔に悪びれた様子はない。


「いいえ」


エカテリーナは素っ気なく答え、再び腰を下ろした。


しばし、沈黙が流れた。


アレクサンドルは卓上に用意された茶へ手を伸ばそうともせず、暖炉の炎を見つめている。


何から話すべきか迷っているらしい。


「先ほどのことだが、気を悪くしたのなら謝ろう」


やがて、アレクサンドルがぽつりと言った。


「先ほどと申しますと?」


エカテリーナは、あえて白々しく問い返した。


「《夜更けの雫》だ。マリアンヌに悪気はない。あの宝石が王太子妃の証だとは知らなかったのだ」


「存じております」


マリアンヌの戸惑った顔を見れば、それくらいは分かる。


「そうか。やはり、お前なら理解してくれると思っていた」


アレクサンドルは安堵(あんど)したように息をついた。


エカテリーナの胸には、もう痛みさえ生まれなかった。


彼が見ているのは、目の前にいる一人の人間ではない。


何をしても理解し、すべてを許す、都合のよい婚約者だった。


「それで、大切なお話とは何でしょうか」


エカテリーナは膝の上で、指先にわずかに力を込めた。


「ああ」


アレクサンドルは身を乗り出した。



「……実は……、マリアンヌを私の正妃(せいひ)として迎えたい」


あまりにも迷いのない口調だった。


エカテリーナは指先の力を抜き、膝の上で両手を重ね直した。


「聖女様を、王太子妃になさるということですか?」


「そうだ」


「では、私との婚約は?」


「それについて、お前に頼みがある」


アレクサンドルは、相手を説得するときの顔になった。


エカテリーナには、見慣れた表情だった。


「お前には側妃(そくひ)として、王宮に残ってほしい」



暖炉の(まき)が、(するど)()ぜた。



先ほど温かな茶によってわずかにほどけた心が、再び冷えていく。


「側妃として、でございますか」


エカテリーナは表情を変えずに問い返した。


「もちろん、お前を軽んじるつもりはない。形式上、正妃の座をマリアンヌへ譲ってほしいというだけだ」


あまりに身勝手な要求でありながら、アレクサンドルの態度は堂々としていた。その表情に、罪悪感は微塵もない。



「形式上」



「聖女が王家に入れば、神聖国との関係も強固になる。民も喜ぶだろう。マリアンヌは、この国の象徴になれる女性だ」


アレクサンドルは熱を込めて語った。


その瞳は、自らが思い描く輝かしい未来だけを見ている。


「だが、彼女は神殿で育った。宮廷の作法も、政治も、外交も知らない。突然すべてを任せれば、本人も苦しむことになる」


アレクサンドルは、さらに畳みかけた。


「それで、私に何をお望みなのでしょう」



「マリアンヌの王妃教育を担当してほしい」



エカテリーナの唇から、かすかな息が漏れた。


あまりに無礼な申し出に、怒りより先に(あき)れが込み上げる。


彼女は何も言わず、アレクサンドルを見つめた。


「それだけではない。これまでお前が担ってきた政務も、引き続き任せたい。外交文書の確認や貴族たちとの調整、施療(せりょう)院の管理もだ。表向きの役目はマリアンヌが、実務はお前が担えばよい」


「聖女様が正妃として国民の祝福を受け、私は側妃として陰から支える、ということですか?」


エカテリーナは、事務的に確認した。


その声には、もはや感情が乗っていなかった。


「そうだ。それが最も国のためになる」


アレクサンドルは、自分の考えがいかに合理的であるかを示すようにうなずいた。


「お前は、華やかな場所を好まないだろう。マリアンヌは人々を()きつける力を持っている。一方、お前には政治の(さい)がある。二人がそれぞれ得意な役割を担えば、理想的な王宮になる」


「なるほど」


「待遇も正妃に劣らぬものを用意する。将来、お前に男児が生まれれば、その子にも相応の地位を――」


「お待ちください」


エカテリーナは静かに(さえぎ)った。


「殿下は、聖女様を愛しておいでなのですか?」


アレクサンドルの目が泳いだ。


「今は、国の話をしている」


「お答えください」


しばらくの沈黙の後、彼は観念したように息を吐いた。


「愛している」


その言葉は、不思議なほど素直に響いた。



暖炉の中で不意に薪が爆ぜた。



火の粉が舞い上がり、すぐに炎の中へ消えていく。



十年間、胸の奥で守り続けてきた最後の希望も、それと同じように消えた。


「マリアンヌを初めて見たときから、守りたいと思った。彼女の笑顔を見ると心が安らぐ。これが愛なのだと、私は初めて知った」


マリアンヌへの思いを語るアレクサンドルの表情は、無意識のうちに穏やかなものへ変わっていた。


「そうでございますか」


「だが、お前を不要だと言っているのではない」


アレクサンドルは慌てたように続けた。


「お前と私の間には、十年かけて築いた信頼がある。マリアンヌに抱く感情とは別の、もっと確かな(きずな)だ」


「愛する女性を正妃にし、信頼する女性を側妃にする。それが殿下のお考えなのですね」


「そのような言い方をされては困る」


アレクサンドルは、取り繕うように言った。


「では、どのように申し上げればよろしいのでしょう」


エカテリーナは、彼の目を真っすぐ見た。


「殿下にとって私は、何だったのでしょう?」


「何を言っている。先ほどから説明しているではないか」


アレクサンドルは、珍しく動揺を隠せずにいた。


「婚約者だったのでしょうか。それとも、王太子妃になるために育てられた官吏だったのでしょうか」


「無論、婚約者だ」


「では、なぜ私の誕生日より、聖女様に雪降る王都をお見せすることを優先なさったのですか」


アレクサンドルは口を閉ざした。


「私が高熱を出した夜も、母の葬儀の日も、殿下は聖女様のおそばにいらっしゃいました」


「それは……やむを得ない事情が――」


「今夜は、王太子妃の証までお与えになりました」


「あれはマリアンヌが望んだからだ。たった一晩のことで、なぜそこまで責められなければならない?」


アレクサンドルの声に、焦りがにじみ始める。


「責めているのではございません。ただ、確かめたいのです」


エカテリーナの声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「私は殿下を愛しておりました。いつか殿下にも愛していただけると信じ、十年間お仕えしてきました。けれど、殿下が私に求めていたものは、愛ではなかったのですね」


「違う。私はお前を、誰よりも愛している」


「何をしても去らないと、信じておられただけではありませんか?」


アレクサンドルの顔から、初めて余裕が消えた。


「エカテリーナ」


「殿下は、私が何を失っても許すと思っておられた。正妃の座も、十年間の努力も、殿下への思いさえも。国のためと言えば、笑って差し出す女だと」


「私は、お前だから頼んでいるのだ」


アレクサンドルは立ち上がった。


「誰よりも強く、賢く、王宮を理解しているお前だからこそだ。マリアンヌには、お前の助けが必要なのだ」


「聖女様に必要なのは、側妃ではございません」


エカテリーナは、きっぱりと言った。


「では、何だというのだ」


「ご自分が選んだお妃を、自ら支える覚悟を持った夫です」


「私一人で、すべてを担えるはずがないだろう!」


思わず声を荒らげたアレクサンドルは、自らの言葉に気づき、すぐに口をつぐんだ。



その瞬間、暖炉の薪が大きな音を立てて裂けた。



赤い火の粉が舞い上がり、やがて炎の中へ消えていく。エカテリーナの胸にわずかに残っていた迷いも、それとともに燃え尽きた。


その一言が、この話のすべてだった。


エカ テリーナがナターシャに目配せすると、ナターシャは傍らに置いていた黒い鰐革の書類ケースを開いた。


「誰よりも愛しているからこそ、頼んでいる」


取り繕うように、アレクサンドルが繰り返す。


額には、わずかに汗がにじんでいた。


「お前なら分かってくれるはずだ」


「ええ。よく分かりました」


ナ ターシャが取り出した一通の書類を、エカテリーナは受け取った。


そしてアレクサンドルから目をそらすことなく、静かに卓上へ置いた。



国王の署名。


王家の印章。


議会承認を示す印章。


そして 、ヴォルコフ公爵家当主の署名。


すべてがそろった、エカテリーナとアレクサンドルの婚約解消承認書だった。



「これは……」


「殿下は、聖女マリアンヌ様を正妃に迎えたい。そして私には、側妃として王宮に残ってほしい。殿下のお望みは、確かに承りました」


エカテリーナは、アレクサンドルの目を見据えた。


「承知いたしました。ですから私は、あなたの妃にはなりません」






四.失ってからでは遅いのです


「認めない」


アレクサンドルの顔から、もはや余裕は完全に消えていた。焦燥は苛立ちへ変わり、隠そうともしなくなっている。


婚約解消承認書を手に取った彼は、国王の署名を何度も確かめた。額に浮かんだ汗が、こめかみを伝って流れ落ちる。


「こんなものは認められない。私の承諾なしに、王太子の婚約を解消できるはずもない」


アレクサンドルは髪を振り乱し、声を荒げた。


「王族の婚約は、当人同士だけの約束ではございません。陛下と議会の承認があれば、解消できます」


エカテリーナが、(りん)とした声で答えた。


「だからといって、なぜ父上が許したのだ」


ア レクサンドルの顔に、怒りと困惑が入り交じる。


「私がお願い申し上げたからです」


「お前が?」


彼は驚いて顔を上げた。


そしてそれは、まるで信じられないものを見るような目だった。


「いつからだ」


「半年前からです」


「半年前……」


「母の葬儀に、殿下がおいでにならなかった日からでございます」



あの日、母の棺の前に一人で立ちながら、エカテリーナはようやく理解した。


アレクサンドルは来られなかったのではない。


来ないことを選んだのだ。


彼が聖女の慰問(いもん)へ同行している間に、エカテリーナは父へ婚約解消の意思を伝えた。


それから国王へ事情を説明し、議会の主要な者たちにも話を通した。彼女が担当していた政務についても、ひそかに引き継ぎの準備を進めてきた。



「では、今夜の話を聞く前から、私を捨てるつもりだったのか」


アレクサンドルが怒りをぶつけた。


「私を側妃になさるというお話は存じませんでした。ですが、殿下のお心が私にないことは、とうに分かっておりました」


「それなら、なぜ何も言わなかった!」


怒声(どせい)が執務室に響き渡る。


「私は何度も申し上げました」


エカテリーナは静かに答えた。


「寂しいと。悲しいと。約束を守っていただきたいと。そのたびに殿下は、私なら分かるはずだとおっしゃいました」


「それは……」


「殿下がお聞きにならなかっただけです」



そのとき、隣室から何かが落ちる音がした。


続いて扉が開き、青ざめたマリアンヌが姿を現した。


「マリアンヌ様、お待ちください」


三人の専属侍女が引き留めようとしたが、マリアンヌは小さく首を横へ振り、そのまま王太子の執務室へ足を踏み入れた。


「マリアンヌ?」


アレクサンドルが目を見開いた。


「どうしてここに」


「殿下から、お話が済むまで隣室で待つようにと言われました。ですが、お二人の声が聞こえてしまったのです」


そう言うと、マリアンヌは胸元の《夜更(よふけ)けの(しずく)》へ震える指をかけた。


その仕草の意味を察したナターシャが、すぐさま彼女のもとへ歩み寄る。


ナターシャの黒い侍女服の(すそ)が揺れた。


「失礼いたします」


マリアンヌが小さくうなずき、ナターシャへ背を向ける。


ナターシャが手慣れた手つきで留め金を外した。マリアンヌは首元から滑り落ちる首飾りを両手で慎重に受け止める。中央に据えられた《夜更けの雫》が、燭光(しょっこう)を受けて冷たくきらめいた。


ナターシャはエプロンのポケットから小さく畳んだ(やわ)らかな絹布(けんぷ)を取り出し、卓上へ広げる。マリアンヌから首飾りを受け取り、その上へ丁寧に置くと、一礼してエカテリーナの(かたわ)らへ戻った。


「わたくしは、図らずもすべてを知ってしまいました」


マリアンヌが震える声で言う。


「誤解だ。これは、私とエカテリーナの問題だ」


アレクサンドルが再び声を荒げた。


「エカテリーナ様も、わたくしたちの結婚を祝福してくださっていると、殿下はおっしゃいました」


マリアンヌの(ひとみ)に涙が浮かぶ。


「王太子妃の宝石についても、いずれわたくしのものになるのだから、今夜身につけても問題ないと」


「嘘ではない。実際、そうなるはずだった」


アレクサンドルは額の汗を拭いながら、取り繕うように答えた。


「側妃のお話は?」


彼は答えなかった。


「エカテリーナ様が自ら望んで、わたくしを支えてくださると聞かされておりました。だからわたくしは……」


マリアンヌの唇が震えた。固く握り締めた両手には、白くなるほど力がこもっている。


「知らなかったとはいえ、エカテリーナ様を傷つけました。申し訳ございません」


涙をこぼしながら深く頭を下げるマリアンヌに、エカテリーナは静かに首を横へ振った。


「マリアンヌ様がお謝りになることではございません」


「それでも、わたくしは《夜更けの雫》を身につけてしまいました」


「その意味をご存じなかったのでしょう?」


「はい」


「でしたら、責任はございません」


マリアンヌは涙を(ぬぐ)い、アレクサンドルへ向き直った。


「わたくしは、殿下の正妃にはなれません」


「何を言っている」


「一人の女性を欺いて得た地位を、神の祝福と呼ぶことはできません」


「マリアンヌ、待て」


アレクサンドルが、その腕をつかもうと手を伸ばした。


マリアンヌは差し出された手を避け、そのまま執務室を出ていった。一度も振り返ることなしに。




残された《夜更けの雫》だけが、冷たい光を放っていた。




◇◇◇




翌朝、エカテリーナは王宮に置いていた私物をすべて引き払った。


同 時に、これまで担っていた政務上の役職も、正式に()した。


最初の数日、アレクサンドルは困るとは思わなかった。


書類に署名し、会議で指示を出してさえいれば、これまでどおり国は動く。そう信じていたからだ。


だが、日を追うごとに、(とどこお)りは目に見える形で現れ始めた。


外交文書には、相手国の慣習や国内事情を()まえた修正が必要だった。


北部貴族と商人組合の対立を収めるには、双方の利害を把握したうえでの調整が求められた。


施療(せりょう)院の予算を増額するなら、どの事業を縮小し、どこから財源を移すのかも決めなければならない。


いずれも、署名一つで済む仕事ではなかった。



「なぜ誰も、私に説明しなかった!」


机を埋め尽くす書類を前に、アレクサンドルは人目もはばからず叫んだ。



「これまでは、エカテリーナ様が必要な情報を事前に整理し、対応案まで用意しておられましたので」


補佐官の返答は淡々としていた。


彼が身にまとっているのは、王太子付きの補佐官に定められた濃灰色の宮廷服だった。同色の糸で蔓草(つるくさ)模様を織り出した長衣の内側には、淡い銀灰色のベストがのぞいている。前身頃には銀色の飾りボタンが二列に並び、(えり)袖口(そでぐち)には細い銀糸(ぎんし)の縁取りが施されていた。


後ろ身頃は中央で二つに分かれ、燕尾(えんび)のように長く垂れている。補佐官が一礼すると、その二つの裾がわずかに揺れた。


「ならば、あれを呼び戻せ」


アレクサンドルは苛立たしげに髪を()きむしった。


かつて人々を圧倒した王太子の威厳は、見る影もない。目の下には濃い(くま)が刻まれ、軍服の襟元(えりもと)さえ乱れていた。


「エカテリーナ様は、すでに王太子府を離れておられます」


何もかもが遅すぎた。


会議は空転し、判断を待たされた官吏たちの仕事も滞った。返答を先延ばしにされた貴族たちは、次第に苛立ちをあらわにし始めた。


これまでアレクサンドルの判断力によるものと思われていた数々の成果が、実際にはエカテリーナの周到な準備によって支えられていた。


その事実に、誰もが気づき始めていた。




◇◇◇




一か月後、アレクサンドルはヴォルコフ公爵邸を訪れた。


王 宮のほど近くに建つその屋敷は、まるで王宮を守るように二つの尖塔をそびえさせた、瀟洒(しょうしゃ)なクリーム色の二階建てだった。


幾重(いくえ)にも(つら)なる切妻屋根(きりつまやね)には、精緻な彫刻を施した煙突がいくつも立っている。主の寝室と執務室のほか、十を数える寝室と、それぞれに付属する居間、さらに小規模な(うたげ)や会議にも使える大食堂を備えていた。広大な敷地の一角には、家人(かじん)のための小さな礼拝堂も建てられている。


その正面に設けられた大きな車寄せへ、三台の馬車が相次いで入ってきた。


いずれも白馬の四頭立(よんとうだ)てで、臙脂(えんじ)色の(うるし)を塗った車体には、王家の象徴であるアイリスの紋章が描かれている。その中央を進むひときわ絢爛(けんらん)な一台が、アレクサンドルの専用馬車だった。


供の者たちを従えて屋敷へ入ったアレクサンドルは、公爵邸の応接室へ通された。


壁を覆うのは淡いクリーム色の絹。腰板と床には深い茶色のウォルナット材が惜しみなく使われ、壁面には金箔を施した飾り縁が巡らされている。


白い漆喰の天井には蔓草(つるくさ)模様の装飾が施され、そこから二基の小ぶりなシャンデリアが柔らかな光を降らせていた。


調度品もウォルナット材で統一されている。床には複雑な文様を織り込んだ、毛足の長い紫色のシルクの絨毯(じゅうたん)が敷かれていた。二つある窓には、濃い紫色のベルベットのカーテンが天井から床まで垂らされている。


濃い紫と深い茶色、淡いクリーム色で統一された室内には、公爵家にふさわしい気品と、訪れた者を自然に萎縮させるような重厚さがあった。


やがて扉が開き、エカテリーナが姿を現した。


身にまとっているのは、淡い水色のシルクのドレスだった。細く絞られた腰から、足首まで届く(すそ)が柔らかく広がっている。裾には赤や紫、白のスイートピーが色鮮やかな絹糸で刺繍され、足元へ向かうほど豊かに咲きこぼれていた。


腰まで届く美しい金色の髪は、カメオをあしらった繊細な金細工の髪留めで(ゆる)やかにまとめられている。


王宮にいた頃よりも、表情はずっと穏やかだった。


それ だけではない。その美しさには以前にも増して磨きがかかり、気品のうちに揺るぎない自信が宿っていた。



エカテリーナが姿を現すと、アレクサンドルは思わず立ち上がった。


濃褐色(のうかっしょく)のシルクの宮廷服には、襟元から袖口、裾に至るまで繊細な刺繍が隙間なく施されている。燕尾のように二つに分かれた(うし)身頃(みごろ)の長い(すそ)が、立ち上がった拍子にふわりと(ひるがえ)った。


それほど威厳ある装いでありながら、エカテリーナを見つめる彼の表情は、お気に入りの玩具を取り上げられた幼子のようだった。



「戻ってきてくれ」


アレ クサンドルは挨拶さえ忘れ、切羽詰まった声で言った。


そこには、もはや王太子としての威厳も誇りもなかった。ただ必死さだけがあり、(ほお)は以前よりもやつれ、目の下には濃い(くま)が刻まれていた。


「私が間違っていた。お前がどれほど私を支えていたのか、今になってようやく分かった」


額に汗をにじませながら、アレクサンドルは訴えた。


「そうでございますか」


エカテリーナは淡々と答えた。


「マリアンヌとは、もう会っていない。正妃に迎える話も取り下げた」


「私には関係のないことでございます」


「謝罪する。誕生日のことも、高熱を出したときのことも、母君の葬儀のことも。私は、お前の我慢に甘えていた」


アレクサンドルは矢継ぎ早に謝罪の言葉をならべると、エカテリーナの前へ(ひざ)をついた。


「もう一度、私の婚約者になってほしい」


あ まりにも身勝手な願いだった。


それでも、少なくとも今この瞬間、アレクサンドルの言葉に(いつわ)りはなかった。


そしてそれは、かつてのエカテリーナならば、夢にまで見た言葉でもあった。


「今度こそ、お前を一番にする」


しかし、エカテリーナは顔色一つ変えない。


「殿下。私は一番にしてほしかったのではありません」


彼女は、目の前に膝をつく憔悴(しょうすい)しきった男を静かに見下ろした。


「聖女様より上に置いてほしかったのでも、すべてのご公務より優先してほしかったのでもございません」


「では、何を望んでいたのだ」


アレクサンドルは、まるでエカテリーナだけが自分を救える存在であるかのように、彼女を見上げていた。ただただすがっていた。


「約束を守れないときには、申し訳なかったと謝ってほしかった。私が苦しんでいるときには、その痛みを知ろうとしてほしかった。それだけです」


「これからは、そうする。必ず変わってみせる」


「私を失わなければ、変わろうとは思われなかったのでしょう?」


アレクサンドルは答えられなかった。


「私は、殿下にとって都合のよい理解者ではなく、一人の人間として大切にされたかったのです」


「エカテリーナ……」


アレクサンドルは力なくその名を呼び、うなだれた。


そこにいたのは、王太子としての威厳も誇りも失った、ただ一人の(あわ)れな男だった。


「失ってからでは遅いのです、殿下」


エカテリーナは応接室の扉を開けると、外に控えていた公爵家の侍従へ、王太子を見送るよう命じた。


彼女の隣国への出立も、すでに決まっていた






五.あなたの隣を歩く


婚約解消から三か月後。


王都を覆っていた雪は解け、街道沿いの木々にも柔らかな若葉が芽吹き始めていた。


王宮のほど近くに建つヴォルコフ公爵邸は、まるで王宮を守るように二つの尖塔(せんとう)をそびえさせた、瀟洒(しょうしゃ)なクリーム色の館である。


その正面に設けられた大きな車寄せには、隣国エルディア帝国の紋章を(かか)げた六台の馬車が停まっていた。いずれも黒い(うるし)を塗った重厚な二頭立てである。


エカテリーナは、ヴァレンティア王国の外交使節団の一員として、エルディア帝国へ(おもむ)くことになっていた。


王太子妃になるために学んだ言語も、法律も、外交も、決して無駄ではなかった。


今度は誰かを陰から支えるためではない。


自分で選んだ仕事を成し遂げるために使うのだ。



エカテリーナは、自室の鏡台の前に座っていた。


淡い水色のシルクで覆われた壁には、青いアイリスの花々が描かれている。腰板は白く塗られ、床には明るい色合いのカエデ材が惜しみなく使われていた。壁面を巡る飾り縁には金箔が施されている。


白い漆喰の天井には蔓草模様が浮かび、その中央から小ぶりなシャンデリアが下がっていた。窓から差し込む朝の光を受け、水晶の飾りが淡くきらめいている。


調度品も白で統一されていた。曲線と花草の彫刻で飾られた鏡台には、同じ意匠の椅子がそろえられている。床を覆うのは、複雑な文様を織り込んだ毛足の長い水色のシルクの絨毯(じゅうたん)。二つの窓には、淡い水色のベルベットのカーテンが天井から床まで垂らされていた。


(りん)とした気品と柔らかな優美さを併せ持つ、エカテリーナによく似た部屋だった。


鏡の中には、出立(しゅったつ)(よそお)いを整えた彼女の姿が映っている。


身にまとっているのは、迫力のある立ち(えり)を備えた若草色のシルクのドレスだった。細く絞られた腰から足首まで、(すそ)(ゆる)やかに広がっている。腰から裾にかけて、ヴァレンティア王国の象徴である青いアイリスが、色鮮やかな絹糸で無数に刺繍されていた。


美しい金色の髪は、ナターシャの手によって端正に結い上げられ、鼈甲(べっこう)の髪留めでしっかりと留められている。


エカテリーナの後ろには、いつもの黒い侍女服を着たナターシャが立っていた。


腰を細く絞った長袖の服は、足首まで届く裾が緩やかに広がっている。詰まった首元には白い飾り襟が添えられ、その上から胸当ての付いた純白のエプロンを重ねていた。髪は白い飾り布の中へ、乱れなくまとめられている。


鏡越しにナターシャの顔を見ると、エカテリーナは不思議と安心した。


ナターシャも、自分と同じ二十三歳である。


いつまでも自分のそばへ(しば)りつけてよいのだろうか。彼女には彼女の人生があり、いつか愛する人と出会い、別の道を望む日が来るかもしれない。


それでも、異国へ向かう今回の旅にも同行してほしいと頼んでしまった。


エカテリーナにとって、何も隠さずに話せる友は、ナターシャただ一人だった。



「お忘れ物はございませんか?」


不意に尋ねられ、エカテリーナは物思いから引き戻された。


「ええ。大丈夫よ」


そう答えながら、胸元へ手を触れる。



そこでは、無数のダイヤモンドを連ねた精緻な首飾りが、朝の光を受けてまばゆい輝きを放っていた。


プラチナの細工に連ねられ、房のように垂れ下がるダイヤモンドは、(こお)りついた幾筋(いくすじ)もの涙を思わせる。その中央には、深い湖の底を閉じ込めたような大粒の青いサファイアが(すえ)えられていた。


(なげ)きの女王(じょうおう)》。


ヴォルコフ公爵家に代々伝わるそのサファイアは、そう呼ばれている。


そしてそれは、誰よりも愛し、いつも自分の味方でいてくれた母イリーナの形見でもあった。



この宝石を国外へ持ち出すことに、エカテリーナは随分と悩んだ。


その迷いを聞いた父は、(おだ)やかに笑って言った。


『たとえ旅先で失われたとしても、それは神が《嘆きの女王》に新たな持ち主を選ばせたということだ。お前が気に病むことではない』


そして、青いサファイアへ目を向けながら続けた。


『そんな心配をするよりも、お前がいつも身につけていなさい。きっとこの石が、お前を守ってくれる。遠慮なく持っていくといい』


父の言葉が、何よりありがたかった。


それでも《嘆きの女王》は、ヴォルコフ公爵家とヴァレンティア王国の誇りでもある。


この石に恥じない振る舞いをしなければならない。


そう思うと、自然に背筋が伸びた。



「本当に、私もお供してよろしいのでしょうか」


ナターシャがためらいがちに尋ねた。


「あなたが来てくれなければ、私が困るわ」


エカテリーナが笑うと、ナターシャは目を(うる)ませながら頭を下げた。


「お嬢様がそのようにお笑いになるのを、久しぶりに拝見いたしました」


「そうだったかしら」


「はい。王宮にいらした頃は、お笑いになる前に、いつも周囲の方々のお顔をご覧になっていましたから」


その言葉に、エカテリーナは少し驚いた。


自分では気づいていなかった。


王太子の婚約者にふさわしいか。


誰かの機嫌を損ねないか。


アレクサンドルの立場を悪くしないか。


いつの間にか、笑うことさえ、自分一人では決められなくなっていたのだ。


「ナターシャ。私こそ、ごめんなさい」


「なぜ、お嬢様がお謝りになるのですか?」


「あなたも、もう二十三歳でしょう。いつまでも私の侍女という立場へ縛りつけず、あなた自身の人生を選んでもらうべきではないかと思っているの」


「お嬢様、そんな悲しいことをおっしゃらないでください」


ナターシャの瞳から、とうとう涙がこぼれた。


「私は、結婚を望んでいるわけではございません。お嬢様のおそばにいることが、私の選んだ人生でございます。どうかこれからも、生涯お仕えすることをお許しください」


「ナターシャ……」


エカテリーナは椅子から立ち上がり、泣いている友の手を取った。


「分かったわ。あなたが望むかぎり、私のそばにいてちょうだい」


「ありがとうございます、お嬢様」


「でも、一つだけ約束して。いつか心から愛する方が現れ、その方と別の道を歩みたいと思ったときは、私に遠慮しないと」


ナターシャは涙を拭い、しっかりとうなずいた。


「はい。お約束いたします」


「では、そろそろ出発しましょう。これからは、あなたも私も使節団の一員として、ヴァレンティア王国を代表するのですもの。涙を拭いて、堂々と振る舞わなくてはね」


「はい、お嬢様」


ナターシャの顔にも、ようやく笑みが戻った。



エカテリーナはナターシャの手を借り、ロイヤルブルーのマントを肩へ掛けた。


これで出立の準備は整った。


玄関へ下りると、ナターシャを含む三人の専属侍女と、公爵家から護衛として同行する三人の侍従武官が後に続いた。


車寄せでは、公爵家の従僕たちが協力し、いくつもの旅行鞄や木箱を馬車へ積み込んでいる。


エカテリーナは、その様子をしばらく眺めていた。



生まれたときから暮らしてきたヴォルコフ公爵邸。


父と、亡き母との思い出が詰まった場所。


何があっても変わることなく、自分を迎え入れてくれた家だった。


――いつか帰ってくる日まで、どうか変わらずにいてね。


そしてできることなら、その先も。


百年後も、千年後も――。



物思いに沈んでいると、不意に誰かから名を呼ばれたような気がした。


「エカテリーナ様」


もう一度呼ばれ、彼女は我に返った。


振り向くと、馬車の前に一人の男性が立っていた。



エルディア帝国第二皇子、レオポルトである。



すらりと背が高く、豊かな金髪を春の風に揺らしていた。通った鼻梁に、形のよい大きめの口元。美しいという言葉が、これほど自然に似合う男性を、エカテリーナはほかに知らなかった。


今日のレオポルトは、濃灰色の帝国軍服を身にまとっている。膝下まで届く黒革の軍靴を履き、腰には一振りのサーベルを帯びていた。


彼が微笑みながら一礼すると、胸元を飾る金色の飾緒(しょくしょ)がかすかに揺れた。


その笑顔には、見る者の心まで明るくするような華やかさがあった。


背が高く、がっしりとした体格に(いか)めしい顔立ちを持つアレクサンドルとは、何もかもが対照的な男性だった。


エカテリーナは、レオポルトとこれまで何度も外交会議で顔を合わせている。


北部交易路を開くための交渉では互いの意見が衝突し、夜が更けるまで議論を交わしたこともあった。


「殿下自ら、お見送りにいらしたのですか?」


エカテリーナは挨拶の代わりに微笑んだ。


「見送りではありません。私も帝国へ戻ります」


「外交使節団とご一緒に?」


「ええ。あなたと話したいことが、まだ山ほどありますから」


「それで、これほど馬車が多いのですね」


レオポルトは答える代わりに微笑んだ。


「交易協定についてでしたら、道中も会議になりそうですね」


たちまち外交官の顔へ戻ったエカテリーナに、レオポルトは苦笑した。


「あなたは相変わらずですね。少しくらい、仕事以外の話もしていただけませんか?」


「あいにく、私は面白みに欠ける女だと、以前から言われておりますので」


エカテリーナはわずかに眉を寄せた。


「誰が、そのようなことを?」


レオポルトの顔から笑みが消えた。


「あなたほど話していて飽きない方を、私はほかに知りません」


エカテリーナは返事に困り、そっと視線をそらした。


レオポルトは、彼女の境遇を哀れんでいるのではない。


婚約解消が決まるよりも前から、会議では必ずエカテリーナの意見を聞き、その判断を尊重していた。


意見が違えば、相手が公爵令嬢であろうと正面から反論する。納得すれば、身分や立場にかかわらず率直に認める。


エカテリーナにとって、初めて対等に言葉を交わせる相手だった。


「一つ、申し上げておきたいことがあります」


レオポルトが言った。


「私は、あなたを守ると約束するつもりはありません」


思いがけない言葉に、エカテリーナは驚いて彼を見た。


「あなたは、ご自分を守れる方です。私があなたを救ったような顔をするのは、あまりにも傲慢でしょう」


「では、殿下は私に何を約束してくださるのですか?」


「あなたが望むかぎり、一緒に考え、共に背負うと約束できます」


レオポルトは手を差し出さなかった。


ただ彼女と同じ場所に立ち、真っすぐにその目を見つめている。


「あなたの前を歩き、従わせたいとは思いません。後ろから守らせてほしいとも申しません」


春の風が二人の間を吹き抜け、エカテリーナの金色の髪を揺らした。


「ただ、あなたの隣を歩く許可をいただけますか?」


それは求婚ではなかった。


彼女の人生を自分のものにしようとする言葉でもない。


これから互いを知っていくための、最初の問いかけだった。


エカテリーナは、差し出されていないレオポルトの手へ、自分から手を伸ばした。


「隣でしたら」


その手を取り、晴れやかに微笑む。


「後ろで待つのは、もうやめましたので」


二人は手を取り合い、並んで馬車へ向かった。


「エカテリーナ!」


遠くから、聞き慣れた声が響いた。


王家の紋章を掲げた馬車からアレクサンドルが飛び降り、こちらへ駆けてくる。


かつてのエカテリーナなら、その声を聞いただけで足を止めただろう。


けれど、今はもう違う。


胸元の《嘆きの女王》へそっと触れ、エカテリーナは開かれた門の向こうに続く、春の街道を見つめた。


そして、一度も振り返ることなく、レオポルトと並んで歩き出した。



雲一つない東の空には朝日が輝き、その反対の西の空には、白い満月がうっすらと残っていた。


エカテリーナが歩きながら見上げると、隣を行くレオポルトもまた、同じ月を見つめていた。


それはもう、誰にも顧みられぬ月ではなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

少しでもお楽しみいただけましたら、評価やご感想をいただけるとうれしいです。

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― 新着の感想 ―
拝読いたしました。王宮ものの小説を最後まで読んだことない立場から感想を述べさせていただきます。 三人称神視点の語りと重厚な世界観が見事に調和していると感じました。 特に情景や人物の描写が素晴らしく…
私は許そう。 だがお前の母(王妃、元王太子妃)は許すかな? と思うぐらいには大切な装飾品であったはず。 ママンにとってはギルティだと思うよ。
王子がまさに二兎追うものは一兎も得ず状態。 正妃、側妃、仕事をさせる人とどんどん待遇を下げてエカテリーナを側に置こうとするのにエカテリーナに報いようとする気がない傲慢が酷い。 そりゃ周りも婚約解消に…
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