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幸福結界

「──ちゃん。ヒイナちゃんってば。おーい、朝ですよぉ。起きて起きて〜」

「んぇぇ……。やぁだ……。眠いもん……」

「二度寝禁止令出てまーす。はいどーんっ」


 あたたかな日差しが、折れ戸窓を貫いて差し込む。心地よい微睡みの中、遮る者が一人。

 ああ無情……。幸せお布団が連れ去られ、白髪の少女は情けない声を上げた。


「ぅぅー……。冷徹だよぉ、スイちゃんの鬼ぃ……」

「はいはい。……あんまゆっくりしてると、ご飯食べる時間なくなっちゃいますよぉ」

「んぇ! そうなの? 今何時?」

「8時でーす。ギリギリなんですねぇ」


 わーっ! 本当にギリギリ!

 ヒイナは慌てて飛び起きると、急いで身支度を始めた。スイはそれを仕方なさそうに手伝う。


「まったくぅ。しょうがないヒイナちゃんですねぇ。私がいないとダメなんだからぁ」

「んへへ。ごめーわく、おかけしてますっ」


 準備を終えて、家を出る。

 ハクロクは今日も平和だ。すれ違う人々はみんな穏やかそうな顔をして、日常を過ごしている。

 通り過ぎる風景は──なんだろう。あたたかで、やさしかった。ジョギングする老人。忙しなく歩くスーツのお兄さん。おしゃべりしながら歩く、自分達──。


「ヒイナちゃん?」

「んーん、なんでもないよ。ほら、遅刻しちゃうよ、はやく行こ」

「だーれが原因だと思ってますかねぇ、この子はぁ」

 


 ───



 学校は楽しい。

 授業は──何言ってるかわかんないけど。でも、勉強するのは楽しいし、先生のお話だっておもしろい。ちんぷんかんぷんでも、雰囲気で楽しい。

 運動は得意じゃないけど、体育も楽しい。今日はバレーの授業だったけど──鼻を打っちゃった。おんなじクラスのコサメちゃんがめちゃくちゃ心配してくれて、保健室まで連れてってくれた。優しい。

 手先が器用じゃないけれど、調理実習だって楽しい。食べるの大好き。危なかっしいからって、スイちゃんは包丁や火に触らせてくれないけど、心配してもらえるのはすっごく嬉しい。


 友達はみんな優しい。

 シュラさんも。サヨ先生も。ミオさんも。サクラ先生も。ホムラ先輩も。コサメちゃんも。アサヒちゃんも。アヤメ先輩も。ユイ生徒会長も。モミジ先輩も。シュリちゃんも。セイラちゃんも。スイちゃんもいる。

 みんながいて、みんなが笑ってる。素敵な日常。なんてことない日々──。


 ──


「……幸せだなぁ」

「おっとヒナっち! どしたの? ポンポン痛い?」

「子供扱いはやめてやれよ。……粉薬でも大丈夫か?」

「バカホムラ! あんただって子供扱いしてんじゃん!」

「んだとコラ!」


 オカルト研究会の部室で、額を突き合わせて仲良く喧嘩するアヤメとホムラ。穏やかそうな笑みを浮かべつつも青筋を立てるユイに、深々とため息を吐くコサメ。


「まぁまぁ。ケンカはよくないぞ。ここはワタシの顔に免じて、二人とも落ち着くんだぞ」

「うっさい!」

「うるせぇ!」

「こんな時ばっかり息が合ってる!」


 仲裁にかかって撃沈するモミジに、その背を撫でさすりながら慰めるシュリ。

 日常だ。いつも通りの日常。なのに、どうしようもなく──。


「……ほんとにお腹痛いの?」

「んーん、違うの。……わかんないけど、胸の奥のところ、ほんのりあったかくて、でもチクチクしてるの」

「……ヒイナちゃんってば、マジメですからねぇ。おバカさんなのに。また変なこと、考えすぎてるんでしょ」


 そっと顔を覗き込んで心配してくれるセイラに、私が一番ヒイナをわかってますと言わんばかりのスイ。ヒイナは小さく笑みをこぼした。


「……スイちゃんは優しいね」

「……性善説も、ほどほどにするんですよ」



 ───



 帰り道。

 夕暮れ時の空には、ポツリポツリと星がまたたきはじめている。摩天楼の狭間に覗く一番星。

 見上げたまま歩いていたヒイナは、危うく電柱にぶつかりそうになった。


「危ないですよ」

「んぇ」


 ──ぶつかりそうになって、スイに抱きとめられた。「ありがとう」とお礼を言うと、「浮世離れするのもほどほどに。これ、追加ですからね」と、コツンと頭を小突かれる。


「……ヒイナちゃんは、星。好きですよねぇ」

「うん。……何でかな? わかんないけど、好きなの。お星さまを見るとねぇ、鼻の奥がツーンとして、目元が熱くなっちゃうんだ」

「えぇ……。大丈夫なんですか、その症状……」

「どうってことないよ。別に病気してるわけじゃないし……」


 「ならいいんですが」と頭を振って、スイは歩くのを再開した。慌てて追いつく。


「幸せだなぁ……」

「また言ってる。……そんなにしみじみ言うことですかぁ? 明日も、明後日だって。きっとずっと、こんな変わり映えのしない毎日が続くってのに」


 「有難がることないですよぉ」と、きわめてスイらしくドライな声で言った。


「うーん……。何でかな。なんでかな……。スイちゃんが言うみたいに、こんな毎日って、きっと当たり前のはず……なんだけど」

「ん?」

「すごく……凄く。かけがえがない気がする」


 ヒイナはもう一度、夜空を見上げた。

 胸の奥でモゾモゾ動く何かを引っ張り上げるようと思って、思惟を連ねてみるが……ダメだ。わからないは、わからないのまま。

 難しい顔をしてムンムン唸るヒイナを呆れたように見やって、仕方なさそうにまなじりを下げる。

 「早く帰りましょ」とスイは手を引いた。


「今日のご飯はですねぇ……」

「──ぁ」

「ヒイナちゃん?」

 

 その時だった。

 そんな時だった。


 視界の端で、男の子が転んだ。お母さんが慌てて手を差し伸べて、慰めている。

 痛かったのだろうか。転んでびっくりしたのかも。泣き声が、涙が、ヒイナの脳裏に叩きつけられて、何度も何度もリフレインした。


「──あの子、泣いてる」

「え? まぁでも、大したことないでしょ。ヒイナちゃんが心配することじゃないですよぉ」

「なんでかな……。なんだろう。心が……何かを訴えてるの……」


 男の子の涙が、ずっとずっと昔。顔も知らない誰かが流した雫と、重なった気がした。


「星……綺麗な、一等星……」


 チカチカと瞬くような星々が、まぶたの裏で煌めいている。いつか見た、どこかで見た、憧憬の光。

 忘れないと誓った。

 どこまでも連れてくと約束した。

 そうだ──だって。


「私は……アタシは──ヒイナちゃんは!」


 ──みんなの希望だったから!


「どう、したんですか? ヒイナちゃん……。変ですよ……」


 戸惑い交じりの視線がヒイナを射抜く。心配と、思いやりに満ちた眼差しは、この子は紛れもなく、明星緋那の大親友、城渦翠なのだと確信させた。

 けれど、ここは夢だ。きっと夢なのだろう。

 だって、あまりにもこの場所は幸せすぎるから。現実でないならきっと、ここでない場所で、今も戦っている大切な人達がいるのだ。


 ──だから。

 お別れを言わなくちゃいけない。


「あのね、スイちゃん……。

 アタシ、嬉しかったの。また会えて。もう二度と帰れないかもって、ちょっぴりだけ思っちゃってたから……」

「なに、を言って……」


 震えるスイの指先が、ヒイナの袖を掴む。温かい手だ。記憶の中にある、ソレと寸分違わない。

 未練を断ち切るように、その指をやんわりと外して、強い眼差しで言った。


「アタシ、もう行くよ。ほんの少しの間だったけれど……すんごく幸せだった!」


 できることなら、ずっとずっと、ここに居たいくらいだったけれど──。

 ありったけの才能を燃やして、魂を励起する。どこか遠く、空よりも高い場所から降りてくる莫大な力を、望む形へと練り上げていく。


「“必ず帰る”からね。──導いて! トゥインクルスター!」


 17番目に生まれた星が、黒く渦を巻いて満天の夜空を切り裂いていく。世界はひび割れて、幸せだった世界はガラス細工のように砕けていった。

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