誘宵を抱く
その日の鹿目は、いつもよりも静かだった。
小鳥のさえずりが遠く聞こえ、愛すべき領民の笑い声さえ、まばらに感じる。
鹿目城の最奥。
ユイはどこか不穏な胸騒ぎを覚えながらも、つとめて冷静に書状に目を落としていた。隠しきれない不安が、指先に机を叩かせる。
「ご注進! ご注進!」
何故だろう。胸のざわめきが、形を帯びた気がした。
踏み鳴らすような足音をさせて伝令が飛び込んでくるのを、どこか他人事のように思いながら、意識を戻す。
「申せ」
「龍首に不穏な動きあり! 国境に武装した者達を寄り集めております!」
──ついにこの時が来てしまった。
もちろん、龍首の不穏を予知していたわけではない。予知能力など持ってはいない。けれどもどうしてか、ユイの胸中をそんな言葉がかすめ去った。
───
ユイの父は、武勇に優れた人物だった。身の丈ほどの大太刀を軽々振るい、五人張りの強弓を小弓のように使う。恐ろしい男だった。
先代領主を謀殺し、血を分けた兄弟姉妹さえ毒殺する──そういう男でありながら、いくつもの陣法を編み出した統率者でもあった。
──あの野獣のような獅子吼緋彩が、今の脆弱な鹿角領を攻めなかったのは、ひとえに父の功績であった。父の武勇への敬意であったか、同じケダモノ同士、共鳴するモノがあったからかは定かでないが──。
ユイは父が嫌いだった。
炎のように荒々しく、氷のように冷徹。他人の命を踏みつけて、握り潰すことに何の痛痒の念も覚えない父が、心の底から嫌いだった。
病床の母を蹴り飛ばして「惰弱」となじり、明日を生きるために必死なだけの民さえ、その叫びさえも「傲慢」と切り捨てて焼き払った──。
──ああはなるまい。
ああなってはいけない。なりたくもない。
──だからユイは、父が病に倒れた時……。父の跡を継ぐのだと決めたその時。真逆の道を選んだ。
結果として、鹿角は弱くなった。それは確かだった。
けれども、その分だけ幸せが増えた。笑顔が増え、きっと涙は減ったはずだ。
父とは違うやり方で、違う鹿角を作っていく。
それこそがユイの理想であった。
もちろん、いいことばかりではない。
濁りを飲まなければならないことだってあった。
──ほんの少し。
ほんの少しだけだが、父が正しかったのだろうかと思うこともあった。
──けれど、彼女に後悔はない。
自らが選んだ道に間違いはない。きっと間違っていなかった。
龍首との戦になるだろう今となっても、その想いは変わらない。変える気はない。
──だって父を肯定するには、あまりにも多くの悲劇を目にしてしまった。
──けれど最近、少しだけ自分を見つめ直すことになる出会いがあった。
明星緋那。
明るく無垢で──傷に蓋をしない、痛ましい子。
ヒイナを見た時に、一目でわかった。
この子は、自分と同じなのだと。
──愛してくれる者の想いを置き去りにしてでも、どこか遠いところへと向かってしまうような子なのだ、と。
──鏡を見た気持ちだった。
理想の、美しくきらめきを放つ部分を引っ剥がして、奥のところを覗き込むような気持ちだった。
──だから放ってはおけなかったし、柄にもなく説教などしてしまったが……。
きっと彼女に向けた愛も、思いやりも──。
もしかしたら──。
それは、あり得た未来で、置き去りにされた者達への贖罪なのかもしれなかった。
──ユイはきっと、ヒイナに出会わなかったら、ヒイナの痛ましさを見ていなかったら、戦が起こるいう、ただその事実だけ見て、否定して、龍首の下へと向かっただろう。
どうか私の首一つで、手打ちにしては頂けませんか、と。
──けれどもう、その道は選ばない。
父は嫌いだ。父の強さも、考えも、やり方も嫌いだ。けれど、覚悟しなくてはいけない。ヒイナへ自分を粗末にするなと説いた口で、自己犠牲をするなど許されはしない。──それはあまりにも自分勝手だ。
ならば、歩むべきだ。
煮え滾るような赤い水を飲み干すことになろうと、無数の針山で出来た道を歩むことになろうと。
──戦いをする決意を持つべきだ。
戦って、大切なものを護る覚悟を持つべきだ。
ユイはまぶたを閉じた。
一拍、二拍──。
ヒイナの記憶に強く根ざした蒼と、同じ色の瞳を鋭く細めると、伝令へと言い放った。
「──戦支度を整えよ! 陣触れを出せ! 鹿角はこれより……決戦に臨む!」




