第7話 崩壊する栄光
かつて勇者は一撃で岩を砕いた。今は小石にも刃こぼれする。
その事実は、残酷なほど明確に俺の目の前に突きつけられていた。
「嘘だ……折れるはずが、ない……」
俺は震える手で、中程から無惨にへし折れた剣を見つめていた。
国宝『聖剣アロンダイト』。
王家から下賜された、勇者の証。
どんな硬い鱗も切り裂き、決して刃こぼれしないと謳われた伝説の剣が、今はただの鉄屑となって足元の泥に突き刺さっている。
「グルルルルッ……」
目の前には、Aランク指定魔獣『マンティコア』が涎を垂らして威嚇している。
獅子の頭に、蠍の尾。
本来なら、俺の一撃で首を落とされているはずの相手だ。
だが現実には、俺の渾身の斬撃はマンティコアの皮一枚裂けず、逆に剣の方が耐えきれずに砕け散ったのだ。
「ガイウス様! 何をしておりますの! 早くその汚らわしい獣を殺してくださいまし!」
後方からマリエルの金切り声が響く。
彼女は木の陰に隠れ、泥だらけになった聖法衣の裾を気にしながら叫んでいた。
その顔には、以前のような聖女の慈愛など欠片もなく、ただ恐怖と苛立ちだけが張り付いている。
「無茶を言うな! 剣が折れたんだぞ! 回復魔法はどうした、防御結界は!」
「魔力が足りませんのよ! さっきの移動だけで精一杯でしたわ! ああもう、髪がベタベタして気持ち悪いですわ!」
マリエルがヒステリックに髪を掻きむしる。
その髪は脂と埃で固まり、かつての黄金の輝きを失っていた。
俺の鎧も同様だ。関節部分は錆びつき、動くたびにギシギシと悲鳴を上げる。
自動洗浄の付与も、耐久力強化の付与も、全てが消失していた。
マンティコアが跳躍した。
蠍の尾が、死の閃光となって俺に迫る。
「くそっ、退却だ! 逃げるぞマリエル!」
俺はプライドも何もかもかなぐり捨て、折れた剣の柄を投げ捨てて背を向けた。
勇者が敵に背を向けて逃げる。
あってはならない失態だ。だが、死ぬよりはマシだ。
「きゃあああ! 待ってくださいまし、置いていかないで!」
俺たちは泥濘に足を滑らせながら、無様に森を逃げ回った。
背後でマンティコアの咆哮が響くたび、心臓が縮み上がるような恐怖を感じた。
かつて喝采を浴びた英雄の姿は、どこにもなかった。
* * *
命からがら王都のギルドへ戻った俺たちを待っていたのは、安息ではなく、さらなる絶望だった。
ギルドマスター室。
重厚な執務机の向こうで、ギルドマスターが冷ややかな視線を俺たちに向けていた。
「――つまり。Aランク依頼『マンティコア討伐』は失敗。加えて、聖剣アロンダイトを破損・紛失したと?」
「あ、あれは不可抗力だ! 剣が勝手に脆くなっていたんだ! 俺のせいじゃない!」
俺は泥だらけの鎧のまま、必死に弁明した。
だが、ギルドマスターは表情一つ変えず、手元の書類にサインをした。
「装備の管理不備は冒険者の責任です。……今回の失敗により、依頼主である辺境伯家からは多額の違約金が請求されています」
「い、違約金だと……?」
「金貨三百枚です」
俺は目の前が真っ暗になった。
三百枚。今の俺たちの全財産を合わせても足りない。
以前なら、討伐報酬や貴族からの寄付金でその程度はすぐに稼げた。
だが今は、相次ぐ失敗で報酬は減額され、寄付金も打ち切られている。
「そ、そんな大金、払えるわけないでしょう!」
マリエルが悲鳴を上げる。
「私、新しいドレスも買えませんわ! 美容院にも行けませんのよ!?」
「払えない場合は、資産の差し押さえとなります。お二人の屋敷、装備、装飾品……すべてです」
ギルドマスターは淡々と事実を告げた。
そして、一枚の封筒を俺の前に差し出した。
王家の紋章が入った、最高級の羊皮紙だ。
「それと、王宮から呼び出しが来ています。『聖剣破損の経緯について説明せよ』とのことです。……心して掛かることですね」
俺の手が震えた。
王家からの呼び出し。それはつまり、査問会だ。
国宝を壊し、魔獣討伐に失敗し、民を危険に晒した勇者。
名誉子爵の地位剥奪どころか、投獄もあり得る。
「……ま、待ってくれ。俺は勇者だぞ? この国を救った英雄だぞ? 一度や二度の失敗で、そこまですることはないだろう!」
「過去の栄光で飯が食えるのは、引退した老人だけですよ。現役の冒険者なら、結果で示してください」
ギルドマスターの言葉は、氷のように冷たかった。
俺たちは何も言い返せず、逃げるように部屋を出た。
* * *
あてがわれていた屋敷の一室。
家具のほとんどが差し押さえの対象となり、ガランとした部屋で、俺とマリエルは向かい合っていた。
テーブルの上には、請求書の山と、王家からの呼び出し状。
そして、手持ちのわずかな銀貨。
「どうして……どうしてこんなことになりますの」
マリエルが爪を噛みながら呟く。
彼女の爪は割れ、ささくれ立っていた。肌も荒れ、目の下には隈ができている。
聖女と呼ばれた美貌は、見る影もなく憔悴していた。
「……呪いだ」
俺は頭を抱え、絞り出すように言った。
「やはり、リゼットの呪いだ。あいつがいなくなってから、全てがおかしい。剣は折れ、鎧は錆び、君の魔力も枯渇し続けている」
「そうですわね……。あの方、きっと私たちを妬んで、とんでもない黒魔術を使いましたのよ。なんて恐ろしい女」
マリエルが憎々しげに同意する。
俺たちは自分たちの無能さを認めることができなかった。
認めてしまえば、勇者としてのアイデンティティが崩壊してしまうからだ。
悪いのは俺たちではない。全ては、あの陰気な女のせいなのだ。
「……連れ戻すしかない」
俺は顔を上げた。
「リゼットを連れ戻して、呪いを解かせるんだ。そして、壊れた聖剣を直させ、装備を元通りにさせる」
「でも、あの方はもう追放しましたわ。どこにいるかもわかりませんし、実家からも勘当されていますのよ?」
「探すんだ! 金貨三百枚の借金も、王家の処罰も、あいつが戻ってくれば全て解決する!」
俺の目には、狂気じみた光が宿っていたかもしれない。
だが、それは唯一の希望だった。
リゼットの『付与魔法』があれば、折れた聖剣も直るかもしれない。
あいつはいつも、どんなにボロボロになった装備でも、翌朝には新品同様にしてくれた。
あの力が再び手に入れば、俺はまた英雄に戻れる。
「そうですわね……。あの方、ガイウス様のことが好きでしたもの。少し優しくして、『許してあげるから戻っておいで』と言えば、泣いて喜んで戻ってきますわ」
マリエルも希望を見出したように顔を上げた。
「私の聖女としての慈悲で、過去の罪を水に流して差し上げましょう。そうすれば、また私のドレスの手入れもさせてあげられますわ」
「ああ、そうだ。あいつにとっても、俺たちのパーティに戻ることは名誉なはずだ。男爵家からも見捨てられた女が、勇者パーティの一員として返り咲けるんだからな」
俺たちは顔を見合わせ、歪んだ笑みを浮かべた。
都合のいい妄想が、恐怖を一時的に麻痺させてくれる。
リゼットが俺たちを恨んでいる可能性など、考えもしなかった。
あいつは俺に従順だった。俺がいなければ何もできない女だった。
だから、俺が呼べば必ず戻ってくる。
「探知魔法のスクロールを買おう。残った金は全て使う」
俺はなけなしの銀貨を鷲掴みにした。
「リゼットの居場所を突き止め、すぐに迎えに行くぞ。……待っていろよ、リゼット。お前をまた、俺の『道具』として使ってやる」
窓の外では、王都の鐘が鳴っていた。
それはまるで、俺たちの栄光の終わりの鐘のように聞こえたが、俺は耳を塞いで聞こえないふりをした。
リゼットさえ戻れば、時計の針は戻せる。
そう信じて疑わなかった。
俺たちが向かおうとしている場所が、もはや人間が足を踏み入れられる領域ではなくなっていることなど、知る由もなかった。




