第6話 商人の驚愕
リゼは収穫したトマトを籠いっぱいに詰め込んでいました。
朝露に濡れたトマトは、宝石のルビーよりも鮮やかに赤く、ずっしりとした重みを感じさせます。
私の腕の中にある竹籠――これも庭の竹を加工して作ったものです――からはみ出しそうなほどの豊作です。
「またこんなに……。二人と一匹では食べきれませんね」
私は嬉しい悲鳴を上げながら、額の汗を拭いました。
庭の中央にそびえる世界樹(仮)の影響でしょうか、家庭菜園の成長速度が異常なのです。
昨日収穫したばかりの枝に、翌朝にはもう完熟の実が鈴なりになっているのですから。
「おい、リゼット。拾い物をしたぞ」
背後からイグニス様の野太い声がしました。
振り返ると、狩りから戻った彼が、肩に大きな袋のようなものを担いでいます。
また猪か鹿でも仕留めてきたのでしょうか。
「おかえりなさい、イグニス様。今日は何を……」
私が笑顔で出迎えると、イグニス様は無造作にその「荷物」を芝生の上にドサリと下ろしました。
荷物が呻き声を上げます。
「うぅ……」
「えっ、人間!?」
私は驚いて駆け寄りました。
そこに転がっていたのは、立派な身なりの、しかし泥と枯れ葉まみれになった中年男性でした。
上質な服を着ていますが、あちこちが破れ、顔色は青白く、衰弱しきっています。
「森の結界付近で行き倒れていた。魔物に食わせるのも癪だから連れてきたが、生きているか?」
イグニス様が面倒くさそうに言います。
彼は基本的に人間に関心がありませんが、私の家の近くで死なれるのは目障りだという理由で、たまにこうして「掃除」をしてくるのです。
「息はあります! イグニス様、彼をリビングへ運びます。手伝ってください!」
「チッ、人使いの荒い女だ」
イグニス様は文句を言いながらも、男性を軽々と片手で持ち上げ、家の中へと運んでくれました。
* * *
男性をソファに寝かせ、私は急いでキッチンへ向かいました。
顔色を見る限り、極度の疲労と脱水症状です。
まずは水分と、消化に良いものを与えなければなりません。
私は蛇口を捻り、グラスに水を注ぎました。
この水は、地下水脈から引き上げ、私の『浄化付与』で不純物を完全に取り除いたものです。
そして、先ほど収穫したトマトを数個、ミキサーにかけ(動力は魔石です)、特製のフレッシュジュースを作りました。
リビングに戻ると、男性がうっすらと目を開けていました。
ぼんやりとした視線が、天井のシャンデリアや、磨き上げられた床を彷徨っています。
「……ここは、天国か……?」
「いいえ、北の森のあばら家です。気がつかれましたか?」
私は膝をつき、男性の上体を起こして背中にクッションを挟みました。
そして、水の入ったグラスを差し出します。
「お水をどうぞ。少しずつ飲んでくださいね」
「あ、ああ……かたじけない……」
男性は震える手でグラスを受け取り、口元へ運びました。
一口、二口。
ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干すと、彼は信じられないという顔でグラスを見つめました。
「な、なんだこの水は……! 身体の芯まで染み渡るような、清涼な魔力を感じる。まるで、教会の聖水よりも純度が高いのではないか!?」
「ただの井戸水ですよ。少し濾過はしましたけれど」
私は苦笑しながら、次はトマトジュースを差し出しました。
「こちらもどうぞ。採れたてのトマトを絞っただけですが、栄養になりますから」
男性は疑わしそうな、しかし期待に満ちた目で赤い液体を見つめ、口をつけました。
瞬間。
カッ、と彼の目が大きく見開かれました。
「ぶほっ!?」
むせ返りそうになりながらも、彼は必死にジュースを飲み下しました。
そして、ガバッと私の方へ向き直り、私の両肩を掴もうとしました――が、横にいたイグニス様が「気安く触るな」と低い声で唸ったため、慌てて手を引っ込めました。
「お、お嬢さん! いや、貴族様でしょうか!? これは一体何なのですか!?」
「えっと……トマトジュース、ですが」
「ただのトマトであるはずがない! 一口飲んだだけで、長旅の疲労が吹き飛び、古傷の腰痛まで消えた! これは『ポーション』などという生温かいものではない、伝説の霊薬級の代物ですよ!?」
男性は興奮して捲し立てました。
その声の大きさといったら、窓ガラスがビリビリと震えるほどです。
「落ち着いてください。貴方は遭難されていたのですよ」
「ああ、失礼しました! 取り乱してしまって……」
男性は咳払いをし、居住まいを正しました。
そして、改めて私とイグニス様に向かって深々と頭を下げました。
その所作は洗練されており、ただの行商人ではないことが伺えます。
「命を救っていただき、感謝の言葉もありません。私はベルンハルト。王都に本店を構える『銀の翼商会』で会頭を務めております」
銀の翼商会。
世事に疎い私でも知っています。大陸全土に支店を持つ、最大手の一つです。
そんな大商会のトップが、なぜこんな危険地帯に?
「実は、幻の薬草を求めて護衛と共に森に入ったのですが……強力な魔物に襲われ、散り散りになってしまいまして。命からがら逃げ延びた先で、力尽きてしまったのです」
「それは災難でしたね……」
「ええ。ですが、まさかこのような奇跡に出会えるとは!」
ベルンハルトさんは、再び空になったグラスと、テーブルの上のトマト籠を熱っぽい視線で見つめました。
「失礼ですが、お嬢様。これらを生産されたのは、貴女様ですか?」
「はい。庭の家庭菜園で育てたものです」
「家庭菜園……! この神々の恵みのような果実を、家庭菜園と仰るのですか!」
彼は額に手を当て、天を仰ぎました。
そして、何やら懐から片眼鏡を取り出し、トマトをじっくりと観察し始めました。
鑑定の魔道具のようです。
「……信じられない。魔力含有量、栄養価、鮮度、すべてが測定不能。Sランクを超えて、国宝指定レベルだ。こんなものが市場に出れば、相場が崩壊するぞ……」
ブツブツと呟くベルンハルトさんの姿に、私は少し不安になりました。
イグニス様は我関せずといった様子で、ソファの端でリンゴを丸かじりしています。
やがて、ベルンハルトさんは決意に満ちた顔で顔を上げました。
そして、その場に膝をつき、床に額を擦り付ける勢いで土下座をしたのです。
「お願いします! このトマトを……いえ、このお水やお茶も含めて、我が商会に卸していただけないでしょうか!?」
「えっ、土下座までしないでください! 頭を上げてください!」
「いいえ! これほどの品、独占契約を結べるなら全財産を投げ打っても惜しくはありません! 言い値で買います! どうか、どうか私共に扱わせてください!」
必死の形相です。
大商会の会頭が、追放された元男爵令嬢(今は無職)に平伏しているのです。
王都の社交界が見たら卒倒する光景でしょう。
「い、言い値と言われましても……。ただの野菜ですし、そんなに高く売れるものでしょうか?」
「高く売れるどころの話ではありません! 王族や高位貴族が、若返りの秘薬として金貨を積んで奪い合うレベルです! 現状、王都に出回っているポーションは質が落ちておりまして、皆が本物を求めているのです!」
質が落ちている。
ふと、マリエル様の顔が浮かびました。教会の聖水やポーションの供給が滞っているのかもしれません。
ですが、私には関係のないことです。
「……リゼット」
イグニス様が口を開きました。
「売ってやれ。貴様、金がないのだろう? 我に肉を食わせるには金貨が必要だぞ」
「うっ……それは、そうですが」
確かに、手持ちの銀貨はもう底をつきかけていました。
自給自足でなんとかなるとはいえ、調味料や衣類、日用品は買う必要があります。
イグニス様の食欲も凄まじいですし。
「……わかりました。定期的に納品できるかはわかりませんが、余った分でよろしければ」
「ありがとうございます!!」
ベルンハルトさんは涙を流して感謝しました。
「では、早速契約書を! 代金は……そうですね、このトマト一籠で、まずは金貨百枚でいかがでしょう!?」
「ひゃ、百枚!?」
私は素っ頓狂な声を上げてしまいました。
男爵家の年収数年分です。
たった一籠のトマトで。
「安すぎましたか!? では百五十枚で!」
「いえ、十分です! 多すぎます!」
こうして、なし崩し的に商談は成立しました。
ベルンハルトさんは手持ちの魔法鞄から、ありったけの金貨を取り出し、テーブルの上に積み上げました。
キラキラと輝く黄金の山。
私は目眩を覚えながら、契約書にサインをしました。
「必ずや、この品に見合う最高の顧客にのみ販売することをお約束します。貴女様のご迷惑になるような情報は一切漏らしません」
ベルンハルトさんは、商人の顔つきで力強く約束してくれました。
彼は帰り際、迎えに来た部下の護衛たちに守られながら、トマトの入った籠をまるで聖杯でも扱うかのように大事に抱えて去っていきました。
何度も何度も振り返り、深々と頭を下げながら。
* * *
静けさが戻ったリビングで、私はテーブルの上の金貨の山を見つめました。
「……これ、夢じゃないですよね?」
「夢なものか。貴様が作ったあの妙な野菜には、それだけの価値があるということだ」
イグニス様は呆れたように肩をすくめました。
そして、金貨の山から一枚をつまみ上げ、指先で弾きました。
コインが高く舞い上がり、美しい音を立てて落ちてきます。
「無欲なのも考えものだな。まあいい、これで我の食事の質も上がるというものだ。リゼット、今夜は最上級の肉を焼くぞ。あの商人が置いていったカタログに、和牛とやらがあっただろう」
「あ、はい。……そうですね」
私はようやく現実感を取り戻しました。
このお金があれば、生活に困ることはありません。
屋根の修理も、冬支度も、イグニス様への贅沢な食事も、すべて賄えます。
「私、そんなにすごい物を作っていたのですか……」
自分の手を見つめ、呟きます。
ただ、皆に美味しく食べてほしくて。
壊れたものを直したくて。
それだけでやってきたことが、こんな形で評価されるなんて。
王都では「役立たず」「地味」と蔑まれてきた私のスキル。
けれど、場所が変わり、相手が変われば、それは「国宝級」と崇められる。
その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなりました。
「……ふふっ」
笑みがこぼれます。
なんだか、今までの苦労が報われたような気がしました。
「よし! イグニス様、今夜はパーティーにしましょう! ベルンハルトさんが置いていってくれたワインもありますし!」
「ほう、酒か。悪くない」
イグニス様がニヤリと笑いました。
私はキッチンへ向かいます。足取りは軽く、鼻歌交じりでした。
かつて勇者パーティで雑用係として走り回っていた頃には想像もできなかった、豊かで穏やかな時間が、ここには確かに流れていました。




