第2話 廃墟のビフォーアフター
目の前に広がっていたのは、深い静寂と、苔に覆われて朽ち果てた屋敷の残骸でした。
冷たい風が、骨組みだけになった屋根の隙間を吹き抜けていきます。
ヒュオオオ、という音が、まるで亡霊の慟哭のように耳に残りました。
「……ここが、私の新しい住処、ですね」
私はリュックのベルトを握りしめ、呆然と立ち尽くしました。
王都を出てから数時間。
森の奥へ奥へと進んだ先にあったのは、かつて魔王戦争の時代に砦として使われていたという、石と木造の混合建築物――の、なれの果てです。
壁は崩れ落ち、蔦が絡まり放題。
床は腐って抜け落ち、屋根に至っては空が丸見えです。
これでは雨風を凌ぐことさえできません。
周囲に漂う空気も異様でした。
肌にまとわりつくような重たい湿気。
これが「瘴気」と呼ばれるものなのでしょうか。
普通の人間なら、ここにいるだけで体調を崩し、数時間で命に関わると聞いています。
幸い、私にはまだ身体の不調は現れていませんが、夜になれば気温は氷点下まで下がるでしょう。
このままでは、凍え死ぬか、魔物に襲われて終わりです。
「……やるしか、ありませんね」
私は小さく深呼吸をして、リュックを下ろしました。
中から愛用の工具入れを取り出します。
銀色のハンマー、やっとこ、数種類のやすり、そして魔力を通すための特殊な針。
これらは私の分身であり、誇りです。
私は崩れかけた屋敷の入り口――扉などとうの昔に失われ、蝶番だけが残った枠組み――に近づきました。
そっと、柱の残骸に手を触れます。
「診断」
心の中で呟き、魔力を流し込みます。
途端に、建物の構造と損傷具合が、青白い光のラインとなって脳裏に浮かび上がりました。
――ひどい状態です。
木材の腐食率、八十パーセント。
石材の亀裂、多数。
構造的な強度は皆無。
通常の大工仕事なら、「解体して建て直した方が早い」と匙を投げるレベルでしょう。
ですが、私の『万物修繕』なら。
「直せます。……いいえ、直してみせます」
私はハンマーを握り、コン、と柱を軽く叩きました。
それは修繕開始の合図。
私の中に眠る魔力が、堰を切ったように溢れ出し、屋敷全体へと奔流となって駆け巡ります。
私のスキルは、単に「元通りに直す」だけではありません。
対象の状態を保存し、そこに「修復」「品質向上」「補強」の概念を上書きすることで、新品以上の性能へと昇華させるのです。
――イメージするのは、難攻不落の要塞。
――王族が住まう離宮のような快適さ。
――そして何より、誰にも脅かされない、絶対的な「家」。
「修繕、開始」
瞬間、眩い光が廃墟を包み込みました。
バキバキバキッ!
激しい音が森に響き渡ります。
腐り落ちていた木材が、時間を巻き戻すように――いいえ、それ以上に瑞々しく強靭な姿へと変貌していきます。
変色していた柱は、最高級の黒檀のような光沢を帯びて太く伸び上がりました。
苔むした石壁は、不純物が弾き出され、純白の大理石のように滑らかに再構築されていきます。
穴だらけだった屋根には、艶やかな漆黒の瓦が整然と並びました。
ただの瓦ではありません。一枚一枚に「耐火」「耐水」「断熱」の魔力コーティングが施された、特級品です。
割れていた窓枠には、透明度の高いガラスが嵌まり込みました。
物理攻撃を弾き返す、強化ガラスです。
光が収まる頃には、そこには想像を絶する光景が広がっていました。
「……あ」
私は自分の仕事の結果を見て、思わず口元を押さえました。
そこに建っていたのは、もはや廃墟ではありません。
森の中にひっそりと佇む、けれど隠しきれない気品を放つ、美しい二階建ての邸宅でした。
外壁は白く輝き、屋根は深い夜色。
玄関には重厚なオーク材の扉が鎮座し、金色のノブが夕日を受けて煌めいています。
「やりすぎてしまったでしょうか……」
勇者パーティの装備を直していた時の感覚で、つい全力の魔力を注ぎ込んでしまいました。
ガイウス様の剣を直す時は「折れないように」「切れ味が落ちないように」と細心の注意を払っていましたが、今回は自分自身の家です。
遠慮も手加減も必要ありません。
その結果が、これです。
恐る恐る、玄関のドアノブに手を掛けました。
ガチャリ。
滑らかな感触と共に、音もなく扉が開きます。
中に入ると、外の冷気が嘘のように遮断されていました。
広々としたエントランスホール。
床は磨き上げられた寄木細工で、塵ひとつ落ちていません。
壁には魔力灯の燭台が設置され、私の入室に合わせて温かなオレンジ色の光が灯りました。
私は靴を脱ぎ(靴箱も完備されていました)、奥のリビングへと進みます。
「まあ……」
リビングの中央には、大きな暖炉がありました。
本来なら薪が必要ですが、私の付与によって「自動発熱」の機能を持たせた魔石が組み込まれています。
部屋全体が、春の日差しのようなポカポカとした暖かさに包まれていました。
さらに奥には、キッチン。
錆びついていた蛇口を捻ると、浄化の魔術が付与された、澄み切った水が勢いよく流れ出しました。
これなら、飲み水の心配もありません。
二階の寝室も確認しました。
カビだらけだった藁の残骸は消え失せ、代わりにふかふかの羽根布団が敷かれた天蓋付きのベッドが置かれています。
シーツはシルクのような肌触り。
窓の外には、頑丈な結界が張られているのが魔力の波長でわかりました。
これなら、どんな魔物が体当たりしてきても、小揺るぎもしないでしょう。
王城の客室……いいえ、それ以上かもしれません。
かつてガイウス様たちと泊まった最高級宿屋のスイートルームでさえ、ここまで居心地は良くありませんでした。
私はリビングに戻り、修繕されたばかりのふかふかのソファに身を沈めました。
体が沈み込むような極上の座り心地に、今日一日の緊張がどっと解けていくのを感じます。
「……暖かい」
一人言が、静かな部屋に溶けていきました。
数時間前まで、私は全てを失ったと思っていました。
婚約者に捨てられ、パーティを追放され、実家からも絶縁され、死ぬためにこの森へ来ました。
けれど、どうでしょう。
今、私は雨風に怯えることもなく、誰に罵られることもなく、温かな場所にいます。
ガイウス様の怒鳴り声も、マリエル様の嘲笑も、ここにはありません。
あるのは、薪がはぜるような暖炉の静かな音と、安全な空間だけ。
「私、ここでなら……生きていけるかもしれません」
胸の奥に、小さく灯るような希望が生まれました。
誰かの役に立たなくてもいい。
誰かに評価されなくてもいい。
ただ、自分の手の届く範囲を、大切に直して、守って生きていく。
それは、私がずっと望んでいた生活だったのかもしれません。
私はリュックから携帯食料の干し肉を取り出し、齧りました。
味気ないはずの干し肉が、なぜかとても美味しく感じられました。
窓の外はすでに夜の帳が下りています。
本来なら魔物の遠吠えに怯えて過ごすはずの時間。
けれど、この「要塞」の中にいる限り、外の脅威は遠い世界の出来事のようです。
私はソファの上で膝を抱え、瞼を閉じました。
明日は、庭を少し見てみましょう。
荒れ放題だった庭も、私のスキルがあれば、きっと綺麗な菜園にできるはずです。
そんなささやかな計画を思い描きながら、私は久しぶりに深い眠りへと落ちていきました。
この時の私はまだ知らなかったのです。
私が全力で修繕したこの屋敷が、森の生態系すら変えてしまうほどの膨大な魔力を放っていることに。
そしてその輝きが、とんでもない「お客さん」を引き寄せようとしていることに。




