第4話:仮定の迷宮と、証明不能領域
「この空間、定義が……揺らいでる。」
久遠ミナトは、足元の石畳に浮かぶ模様を見つめていた。
学院の北棟地下、封鎖された旧演習場。
そこに現れたのは、幾何学的に歪んだ空間——“仮定の迷宮”と呼ばれる異常領域だった。
「仮定が、複数同時に存在してる。しかも、互いに矛盾していない。」
彼女はノートを開き、余白に三つの命題を書き出す。
それぞれが独立して成立するはずなのに、同時に存在すると、空間がねじれる。
論理の整合性が保たれているのに、空間が不安定になる。
それは、証明不能領域の兆候だった。
「ミナト、こっち!」
カイの声が響く。彼は迷宮の入り口で、赤い外套を翻していた。
「中に人がいる。探索班の一人が戻ってこない。」
「了解。入ります。」
ミナトは一歩踏み出す。
空間が、彼女の足元で微かに“反応”した。
石畳の模様が、数式のように変形する。
彼女はすぐに式を構築し始めた。
「∴空間の位相は、仮定 A・B・C の合成によって定義される。
ただし、同時存在時は補集合により安定化。」
迷宮の内部は、静かだった。
音が吸われ、色が薄れ、時間の感覚が曖昧になる。
壁は存在しているようで、していない。
進むたびに、空間の定義が変わる。
「カイ、位置を固定して。私は座標を再定義する。」
「座標って……ここ、動いてるぞ?」
「だから、固定するの。あなたの位置を“原点”にする。」
ミナトはペンを走らせ、空間の構造を再構築する。
彼女の思考は、迷宮の論理を“読み解く”のではなく、“書き換える”。
それは、数学者ではなく、魔女の仕事だった。
───
迷宮の奥で、探索班の一人——リオという少女が倒れていた。
彼女は意識を保っていたが、目の焦点が定まらない。
「仮定が……頭の中で、重なって……」
ミナトはすぐに理解した。
リオは、空間の“論理干渉”を受けていた。
複数の仮定が、彼女の思考に同時に作用していたのだ。
「∴思考空間を一時的に単一命題に固定。干渉項を除去。」
ミナトの魔法が発動し、リオの呼吸が安定する。
彼女の瞳に、少しだけ焦点が戻った。
「ありがとう……でも、まだ、何かが……」
その瞬間、迷宮の壁が“崩れた”。
空間が、定義を失った。
論理が、意味を持たなくなった。
「証明不能領域……!」
ミナトは即座に動いた。
ノートを開き、余白に“仮定の消去”を記述する。
だが、証明不能領域は、論理が通じない。
式が、紙の上で“拒絶”する。
「ミナト、戻ろう!」
カイが叫ぶ。彼の掌には、赤い推進魔法が集まっている。
「ここ、崩れるぞ!」
「待って。まだ、終わってない。」
ミナトは、ノートの端に小さな三角形を描いた。
頂点に“仮定A”“仮定B”“仮定C”。
その中央に、“未定”と書き込む。
「∴未定の仮定を、補集合として導入。
証明不能領域を、定義可能領域に変換。」
空間が、微かに震えた。
壁が再構築され、色が戻る。
論理が、再び意味を持ち始める。
「……できた。」
ミナトは膝をつき、深く息を吐いた。
リオは意識を取り戻し、カイが彼女を支える。
「すげぇな……君、ほんとに人間か?」
「たぶん、人間です。」
ミナトは静かに笑った。
その笑顔は、少しだけ柔らかかった。
───
学院長室。
報告を終えたミナトに、学院長は一枚の紙を差し出した。
「これは、君の“研究許可証”だ。
君は、ゼロの定理の“外側”に触れた。
だから、君にはその領域を“研究する”資格がある。」
「ありがとうございます。」
ミナトは紙を受け取り、ノートに挟んだ。
その重さは、責任の重さだった。
だが、彼女はそれを受け止める準備ができていた。
───
夜。寮の窓から、塔の先端が見える。
星が、数式のように並び、風が静かにページをめくる。
ミナトはノートを開き、今日の証明を整理する。
仮定の迷宮。証明不能領域。未定の仮定。
それらは、すべて“次の証明”への布石だった。
「∴この世界は、未定の仮定によって、再定義可能。」
彼女はペンを置き、目を閉じた。
眠りの縁で、遠くからまた、あの呼び声がする。
零の名が、彼女の名を、正確に呼ぶ。