第3話:定理の影と、未定の協力者
「久遠ミナト。君は、今日から“特別監視対象”となる。」
学院長の言葉は、冷たいというより、正確だった。
図書館の禁書区。蝋燭の光が水銀鏡に揺れ、彼女の影が床に細く伸びている。
ゼロの定理の写しは、机の上で静かに開かれていた。
「理由は、昨日の虚数核の処理ですか。」
「そうだ。君の証明は、正しかった。だが、正しすぎた。」
学院長はページの余白を指差す。そこには、昨日までなかった“零”の刻印が浮かんでいた。
「定理が反応した。君の論理が、禁忌の構造に触れた。これは偶然ではない。」
ミナトは頷いた。
彼女自身も、昨日の夜からずっと胸の奥に違和感を抱えていた。
証明は完了したはずなのに、どこかに“残差”がある。
それは、式の中に入り込んだ異物のようで、触れれば崩れそうで、けれど無視できない。
「監視対象として、何をすればいいですか。」
「学び、記録し、報告する。君の証明は、世界の構造に影響を与える可能性がある。だから、君自身がその変化を観測する必要がある。」
「了解しました。」
学院長は静かに去り、扉が閉まると、図書館は再び沈黙に包まれた。
ミナトはノートを開き、余白に小さく三角形を描く。
頂点に“自分”、もう一つに“ゼロの定理”、最後に“未定”。
その空白が、今日の課題だった。
───
午後の講義は「魔法構造解析」。
教室の壁には、巨大な関数グラフが描かれている。
教授は杖でグラフの頂点を指しながら、魔法の安定条件を説明していた。
「魔法は、構造で決まる。構造は、数式で記述される。だが、数式の“意味”は、使い手によって変化する。」
その言葉に、ミナトはペンを止めた。
意味の変化。それは、昨日の虚数核にも通じる。
彼女の証明が、定理の意味を“書き換えた”可能性。
それは、論理の暴走ではなく、論理の進化かもしれない。
講義の後、カイが声をかけてきた。
「なあ、昨日のこと……本当に、あれでよかったのか?」
「よかったかどうかは、まだ分かりません。」
ミナトは静かに答える。「でも、正しかったとは思います。」
「正しいけど、怖いってやつか。」
「そうです。」
カイはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「じゃあ、俺も監視対象になる。君の隣にいれば、何か起きてもすぐ動ける。」
「勝手に決めないでください。」
「でも、君は“協力者を探す”って言ってたろ。俺、未定の頂点に入れてくれよ。」
ミナトは少しだけ目を細めた。
彼の言葉は軽いようで、芯がある。
補題としては、悪くない。
彼女はノートの三角形に、小さく“カイ”と書き足した。
───
その夜、学院の中庭で奇妙な現象が起きた。
空間が、静かに“ずれる”ような感覚。
風が止まり、音が消え、空の星が一瞬だけ“数式”に見えた。
ミナトはすぐに現場へ向かった。
中庭の中央に、薄い円が浮かんでいる。
それは、昨日の虚数核とは違う。もっと“柔らかい”。
だが、危険性は同じだった。
「これは……定理の“余波”?」
彼女は円の周囲を歩きながら、式を構築していく。
円の中心には、微かな“論理の歪み”があった。
それは、証明の途中で捨てられた仮定のようで、けれどまだ生きていた。
「∴この歪みは、未使用の仮定による。構造を再定義し、安定化する。」
光が走り、円が静かに消えた。
その瞬間、彼女のノートの余白に、新しい記号が浮かんだ。
それは、“未定”の記号。
ゼロでも、イチでもない。
ただの空白に、意味が宿った瞬間だった。
───
翌朝、学院長から呼び出しがあった。
彼は、ミナトのノートを見て、しばらく黙っていた。
「君は、定理の“外側”に触れている。」
「外側?」
「定理は、世界の“内側”を記述するものだ。だが、君の証明は、定理の“余白”に意味を与えた。これは、前例がない。」
「危険ですか。」
「分からない。だが、君はその意味を“測れる”人間だ。だから、君に任せる。」
ミナトは頷いた。
彼女はノートを閉じ、胸の奥で小さく呟いた。
「∴この世界は、まだ証明の途中。」
───
その夜、彼女は再び図書館へ向かった。
禁書区の扉は、以前よりも軽く開いた気がした。
ゼロの定理の写しは、ページが一枚増えていた。
そこには、こう書かれていた。
命題:未定の協力者は、定理の外側に立つ。
証明:久遠ミナトによる。
彼女はページを閉じ、静かに微笑んだ。
そして、ノートの三角形に、最後の頂点を完成させた。
“カイ”。
“ゼロの定理”。
そして——“自分”。
証明は、まだ続く。
けれど、今は少しだけ、安定している。
───