表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

第1話:証明は、異世界への扉

教室は冷たく静かで、紙の匂いだけが濃かった。

全国数学オリンピック予選の最終問題は、誰も手をつけられないまま時間だけが減っていく。黒板の上の時計は刻むたびに視界を細くし、息が浅くなる。だが、久遠ミナトの手だけは止まらなかった。


自己言及型命題。仮定の置き方ひとつで、証明は自壊も成立もする。彼女は余白に小さな三角形を描き、頂点に「定義」「仮定」「結論」と書く。順序さえ守れば、世界は崩れない。彼女はそう信じていた。


「∴この命題は偽である。」


最後の一筆を置いた瞬間、方眼ノートの線がかすかに震え、インクの黒が硝子のように光った。誰も気づかないほど微かな変化。けれどミナトには、それが“扉”に見えた。


空気が折れた。壁の白は細い線にたたまれ、線は点に潰れ、点から無数の数直線が生まれて、彼女の視界は突如として無限の格子に満たされた。耳の奥で素数の階段が上る。胸の中のリズムが引きずられる。怖い、というより、正確に測りたいという衝動が先に立つ。


——そして、落ちた。


白い空間。上下も遠近も曖昧で、温度すら概念の一部に見える。息を吸えば、数字の匂いがした。ミナトはまばたきをひとつして、未知に対する儀礼的な恐怖を胸の端にしまいこむ。


「久遠ミナト。あなたはゼロ=レア王国に召喚されました。」


声は滑らかで、どこか規則的だった。振り向くと、紺のローブを纏った老人がひとり。掌の上には魔法陣ではなく、青白い関数グラフ——滑らかな放物線が脈打つように瞬いている。


「ここは、数理魔法の世界。魔法は論理であり、力は証明によって生まれる。君は、我々の欠けた“虚数”を補うために呼ばれた。」


「虚数の、補題。」ミナトは思わず口にする。言葉の手ざわりを確かめるように。「……説明をお願いできますか。」


老人は微笑み、名乗った。「リーマだ。君の世界の“高校数学”が、ここでは禁書の深みに眠っている。炎は方程式で立ち、風はベクトル場で流れ、だが虚数軸だけが不安定だ。証明が足りない。」


聞けば聞くほど、胸の奥が静かに熱くなる。理解の届く未知は、彼女にとって最も甘い誘惑だ。


「仮定と道具が揃っているなら、やってみます。」ミナトは頷いた。「証明には順序があります。順序を守れば、扉は開く。」


白はほどけた。色と音が戻り、石畳が足裏に重さを返す。塔が林立する王都アルキメリア。壁面には微分方程式が刻まれ、空には細い数式の帯が風に揺れる。市場の喧騒は、ところどころで定理の一節に混じる。違和感はあるが、不快ではない。むしろ落ち着く。ここでは理不尽が少なそうだ。


学院の門はガンマの形をしていた。くぐると冷たい回廊が続き、ガラス板の向こうで炎が螺旋の曲線に沿って昇っていく。声は歌ではなく、定義と仮定と結論。論理が音楽になれることを、初めて知った。


「久遠ミナトさんですね。」監督官の女性——エウクレイアが近づく。涼やかな目が、距離を正確に測る。「入学試験は一問のみ。準備は?」


「大丈夫です。」ミナトは紙とペンを受け取る。提示された問題は簡潔だった。


問題:虚数空間における魔力 φ の安定化条件を、複素平面上で証明せよ。


余白に e^{iθ} と書く。位相、角速度、減衰。安定域の条件は、円周上の軌道が外へ膨らまないこと。実部の符号、固有値、そして——ここでは魔力という名前の力学。彼女は結論の形を仮置きし、その形に合う仮定を後ろから差し込む。いつものやり方だ。


「証明、完了。」ペン先を離すと、エウクレイアの瞳に珍しい生の驚きが灯った。


「……最上位の数理士でも詰まった設問です。あなた、本当に異界から?」


「複素平面は、最初に好きになった図です。」ミナトは淡く笑う。ここでは、比喩が少しだけ言いやすい。


結果は即日。特待見習い。与えられた寮の部屋は簡素で、窓から尖塔が見えた。夜、塔の先端に灯る文字は、星と混ざって緩やかな証明になる。ベッドはほどよく硬い。眠る前に、彼女はノートに三行だけ書きつけた。


仮定:私はここで役に立てる。

命題:虚数領域の破れは修復可能。

補題:信頼できる協力者を得ること。


翌朝の一限は「ベクトル場入門」。教授の杖が空に矢印を描き、床の流線が風のように移動する。「場を読むこと。足し算の積み重ねが力になる。」その言葉が身体に落ちた瞬間、扉が横から開く気配がした。


休み時間、中庭。水晶の噴水が重力と静電気の均衡で静止し、子どもが指でなぞると小さな光が弾ける。そこへ、赤い外套の少年が歩み寄った。片目を前髪が隠し、口元に悪戯の影。


「噂の異界人、久遠ミナトだな。俺はカイ、武闘科。数式で強くなれるなら、拳はどうする?」


「合力、投影、摩擦の管理。あと、呼吸。」ミナトは瞬きもせず答える。「試してみますか。」


「いいね。」カイは掌を軽く突き出した。空気がわずかに沈み、草が伏せる。見舞いの風。ミナトは一歩半前に出ると、低く囁いた。


「∴進行方向の運動量を直交成分へ逃がす。重心は ε だけ落とす。」


見えない板が滑り込み、風の刃は彼女の右耳をかすめて背後の砂地に浅い溝を刻む。足裏に残る震えを数え、呼吸を整える。恐怖はある。けれど、測れれば怖くない。


「やるじゃん。」カイはあっけらかんと笑い、掌を下ろす。「面白い。よかったら今度、組もうぜ。拳と数式、両方で殴れたら、たぶん無敵だ。」


「検討します。」ミナトは短く返し、心のノートに“候補:カイ”と書き足した。友人という語にまだ距離はある。だが、補題は必要だ。


午後、図書館。塔の中心に穿たれた円筒空間に、書架が螺旋のように重なり、羊皮紙の匂いが冷たく漂う。身分札を見た司書が、黒い鍵をひとつ渡した。「禁書区は二刻。」


重い扉が開くと、遠い海のような低い音がした。中はさらに冷え、壁に埋め込まれた水銀鏡が来訪者の輪郭をゆっくり歪める。ミナトは、ひときわ薄い本に吸い寄せられた。装丁は無地。背に刻まれたのは、たった一文字——零。


ページに触れた瞬間、指先に数式の静電気が走る。目次は短い。定義、命題、証明。だが、ところどころに不自然な空白がある。抜け落ちた行。意図的に隠された飛躍。読むほどに喉が乾いた。


「“ゼロの定理”。」声に出すと、音が薄く震えた。


「その名をここで呼ぶな。」


背に、静かな叱責が落ちる。振り向くと、学院長が立っていた。銀髪、透き通る声、熱のない怒りではなく、熱を抑えた責任の色。


「久遠ミナト。君は触れてはならぬものに近づいている。」


「分かっています。」ミナトは本を抱きしめ直す。「でも、避けるには大きすぎる中央にあります。ここから目を逸らしたまま、他を証明するのは不誠実です。」


「その定理は、世界の基底を揺らす。証明は刃物だ。握り方を誤れば、まず自分を切る。」学院長は一歩近づき、声を落とした。「君は何を守りたい?」


問われて、言葉が止まる。脳裏に浮かぶのは、黒板の静けさ、紙の匂い、鉛筆の擦れる音。人の顔が最初に出てこない自分に、少しだけ胸が痛む。けれど、今朝並んで講義を聞いていた生徒たちの横顔が、そのすぐ後に続いた。集中の顔。論理が通るときの、あの安堵。


「ここで、誰かが安心して思考できること。」ミナトは息を整えて答える。「理不尽に中断されない時間を、守りたいです。」


学院長は短く頷いた。「ならば、順序を守れ。焦るな。助けを呼べ。刃の正しい角度を、学べ。」


図書館を出ると夕暮れ。石畳に桃色の光が落ち、尖塔の先に灯った文字が薄く夜気へ溶けていく。広場では子どもたちが白い粉で描かれた九九を踏み、正しい答えで光が弾けるたびに笑っている。ミナトは立ち止まり、ひと息分だけ微笑んだ。数字が誰かを傷つける道具ではなく、遊びの輪の合図になる光景は、少し胸を温めた。


寮へ戻り、窓を開ける。細い月が塔の先に引っかかり、夜風がノートの端をめくる。机に「ゼロの定理」の写しを置き、隣に自分のノート。今日の行動を箇条書きにし、脳のざわめきを整える。視界の端で、塔の陰が一瞬だけ濃くなる。誰かが見ていた気配——風にほぐれる。


「怖い?」自分に問う。答えは、すぐには出ない。ミナトは胸に手を置き、鼓動を数えるのをやめた。数は時々、不安の形を固定してしまうから。代わりに、鉛筆で小さな三角形を描く。三つの頂点に、小さく名前を書く。“ミナト”“カイ”“未定”。未定の席は、空いていていい。空白は、次の証明の居場所だ。


ベッドに横たわる。天井の影が格子のように組まれ、目を閉じると白い空間の無音が遠くで笑う。急がない。けれど、止まらない。彼女は小さく呟く。


「∴この世界は、私の証明で安定化できる。」


夜のどこかで、定理を唱える声がした。知らない誰かの論理が、静かに世界へ染み込んでいく。ミナトは呼吸をその拍に合わせ、眠りの縁で明日の仮定をひとつだけ決める。


——最初の補題を探すこと。協力者を、証明の味方を。


そして、扉の向こうで“ゼロの定理”が名を呼ぶ。冷たい誘いではなく、正確な呼び声。彼女はその音を枕の下にしまい、静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ