第2章:不信と繋がり、赤い光の力
目の前の男は、警戒を解こうともせず、じっとあたしを見つめていた。
埃と煤で汚れた顔。
その奥にある瞳は、疲れ切っているけれど、鋭い光を失っていない。
この瓦礫だらけの世界で、たった一人で生き抜いてきた者の強さと、そして、全てを諦めているような、深い影が宿っているように見えた。
男の視線が、あたしの左目に注がれているのがわかった。
隠そうとしても無駄だ。
この透明で、時々赤く光る瞳も、その下の痣みたいな模様も、そして、まだどこか不自然な左半身の皮膚も、全部見られている。
彼が何を考えているのか、表情からは読み取れない。
ただ、強い訝しさと、ほんの少しの好奇心のようなものが感じられた。
何か言わなくちゃ、と思ったけど、やっぱり言葉が出てこない。
「あ…」とか「う…」とか、意味のない音しか。
男も、あたしが何かを発するたびに、怪訝そうな顔で首を横に振るだけだった。
言葉が、通じない。このもどかしさが、あたしの孤独をさらに深くする。
気まずい沈黙が続いた。
睨み合っているような、探り合っているような、変な時間。
やがて、男は諦めたようにため息をつき、ゆっくりと地面に腰を下ろした。
そして、傍らに置いていた、古びてへこんだ水筒を指差した。
「…?」
あたしが首を傾げると、男は水筒を持ち上げ、飲む仕草をした。
水…。
喉が、焼けるように乾いていることに、その時初めて気づいた。
最後に水を飲んだのはいつだっただろう。
警戒心はあった。
でも、喉の渇きには勝てなかった。
あたしは、おそるおそる、一歩ずつ男に近づいた。
男は、特に動く様子はない。
あたしが目の前まで来ると、黙って水筒を差し出してくれた。
受け取って、蓋を開ける。
少しぬるいけれど、間違いなく水だ。
あたしは、夢中でそれを飲んだ。
乾ききった喉と体に、冷たい液体が染み渡っていく。
ああ、生き返るって、こういうことなのかもしれない。
体の内側から、微かな力が湧いてくるような気がした。
「…ぷはっ」
あたしは、水筒を男に返した。彼は黙って受け取り、また自分の隣に置いた。
今度は、懐から何かを取り出した。
硬そうな、茶色い塊。パン、なのかな?
その半分をちぎって、あたしに差し出してくる。
食べ物まで…?
あたしは、戸惑いながらも、それを受け取った。
お腹も、そういえばずっと鳴っていた気がする。
ゆっくりと口に運び、固いパンを噛み砕く。
パサパサしていて、味なんてほとんどしないけれど、空っぽの胃に何かが入る感覚は、ひどく安心するものだった。
パンを齧りながら、あたしは男の様子を盗み見た。
彼は、残りのパンを黙々と食べている。
時々、この世界の言葉じゃないような、不思議な響きの言葉を低く口ずさみながら、遠い空を見上げている。
何を考えているんだろう。故郷のこと?
失くした誰かのこと?
その横顔には、深い孤独が滲んでいた。
あたしと同じように、何かを失い、この世界を彷徨っているのかもしれない。
ほんの少しだけ、親近感のようなものを感じた。
それから数日間、あたしたちは奇妙な二人旅を続けた。
男は先に歩き、あたしは少し距離を置いて後をついていく。
言葉は通じないままだけど、彼は時々、立ち止まっては、あたしに何かを教えようとしてくれた。
地面を指差し、「ジメン」。
空を指差し、「ソラ」。
水を飲む仕草をして、「ミズ」。
食べる仕草をして、「タベル」。
危険な生き物が潜んでいそうな場所を指して、険しい顔で「あぶない」。
身振り手振りと、短い、単調な音。
もどかしいけれど、あたしは必死にそれを真似て、繰り返した。
少しずつ、本当に少しずつだけど、意思の疎通ができるようになってきた。
そして、あたしは彼の名前が「キオ」だということを、彼が自分の胸を指してそう言ったことで、理解した。
キオは、やっぱりあまり喋らない。
でも、この世界のことを驚くほどよく知っていた。
どの植物の根っこが食べられて、どのキノコに触れると皮膚が爛れるか。
どこに行けば比較的安全な水場が見つかるか。
どんな生き物が夜行性で、どんな獣が縄張りにうるさいか。
彼は、生き抜くための知恵を、まるで呼吸するように身につけているようだった。
その知識と経験が、彼を今まで生かしてきたのだろう。
彼のそばにいれば、あたしも少しは生き延びられるかもしれない、そんな期待が芽生え始めていた。
キオと歩くうちに、あたしは「輩」以外の、もっと異質な生き物たちをたくさん見た。
硬い甲殻に覆われた、巨大な昆虫みたいなやつ。
いくつもの目を持つ、鱗に覆われたヌメヌメした獣。
空を滑空する、翼竜に似た、でももっと禍々しい爬虫類。
ここは、あたしの知らない進化の法則が働いている、歪んだ世界なんだ、と改めて思った。
キオは、そうした生き物の出す音や匂いを敏感に察知し、巧みにその縄張りを避けて進んでいった。
彼の動きには一切の無駄がない。常に五感を研ぎ澄ませ、周囲への警戒を怠らない。
その研ぎ澄まされた生存本能は、あたしにはない「強さ」を持っているように見えた。
ある夜のこと。
いつものように、焚き火を囲んで、黙って保存食の硬い干し肉を齧っていた時。
キオが、ふと、あたしの左目を指差した。そして、何かを尋ねるように、不思議そうな顔で首を傾げた。
(その目は、どうしたんだ?)
言葉はわからなくても、彼の視線がそう問いかけているのはわかった。
あたしは、自分の左目に何が宿っているのか、自分でもわからない。
時々、勝手に熱くなって、赤い光を放つこと。
その光に、何か得体の知れない力が伴っていること。
そして、頭の中に響く声のこと…。
説明なんて、できるはずもなかった。
あたしは、困ったように首を振るしかなかった。
キオは、それ以上は追求せず、ふいと視線を焚き火に戻した。
彼の沈黙が、かえってあたしの心を重くした。あたしは、やっぱり普通じゃないんだ。
キオだって、あたしのことを気味悪がっているのかもしれない…。
その時だった。
不意に、空気が変わった。
さっきまでの静寂が嘘のように、ビリビリと肌を刺すような、濃密な殺気。
背後の暗闇から、低い、獣の唸り声が聞こえてくる。
キオは、食べかけの干し肉を放り出し、瞬時に立ち上がった。
腰に差した、錆びて刃こぼれだらけの剣を、それでも鋭い動きで抜き放つ。
あたしも、反射的に立ち上がり、身構えた。
心臓が、胸の中でドクン、ドクンと警鐘のように鳴り響く。
暗闇の中から、ギラリと光る二つの赤い目が現れた。
ゆっくりと、しかし確実に、こちらに近づいてくる。
それは、「輩」とは明らかに違う。
もっと大きく、がっしりとした体躯を持つ、狼に似た、しかし全身が黒い体毛で覆われた獣型の生き物だった。
剥き出しになった牙の間から、涎が滴り落ちている。
「グルルルル…ゥ!」
獣は、あたしたちを獲物と定めたのか、低い姿勢から一気に飛びかかってきた!
キオは、獣の突進を紙一重でかわし、剣を振るう。
キン!と鈍い金属音が響くが、獣の硬い体毛に弾かれたようだ。
獣は、素早く身を翻し、鋭い爪でキオの腕を薙ぎ払う。
キオは、かろうじて避けたが、外套の袖が引き裂かれた。
「くそっ、硬ぇ…!」
キオが吐き捨てる。
獣は、再びキオに襲いかかる。
キオは必死に応戦するが、相手の動きは速く、力も強い。
明らかに分が悪い。
あたしは、恐怖で足が震えるのを必死で堪えた。
見ているだけじゃダメだ。
キオが危ない! 守らなきゃ! あたしにも、できることがあるはずだ!
あたしは、左目に意識を集中させた。
熱くなれ。光を放て。あたしの中にある、このよくわからない力。
お願い、今、動いて!
左目が、カッと熱を帯び、強い赤い光を迸らせた。
まるで、あたしの必死の叫びに、応えるように。
あたしは、本能的に、その力を目の前の獣に向かって、突き出した!
ドォンッ!!
目には見えないけれど、確かな力の奔流が、獣を直撃した。
空気の震える感覚。
「キャイイイイインッ!!」
獣は、甲高い、苦痛に満ちた悲鳴を上げた。
そして、まるで巨大な手に弾き飛ばされたみたいに、宙を舞い、広場の岩壁に激突した。
地面に落ちた獣は、しばらくピクピクと痙攣していたけれど、やがて、ぐったりと動かなくなった。
…やった…?
あたしは、荒い息をつきながら、呆然とその光景を見ていた。
左目の赤い光は、まだ興奮したみたいに、強く明滅している。
キオは、信じられないものを見た、という顔で、動かなくなった獣と、あたしを交互に見ていた。
焚き火の揺らめく炎に照らされたあたしの顔は、きっと青ざめて、そして左目だけが、不気味なほど赤く輝いていたんだろう。
その光は、あたしたちを守った希望の光なのか、それとも、これから始まる、もっと大きな災厄の予兆なのか――。
その夜から、キオのあたしを見る目が、また少し変わった気がした。
警戒心は、もうほとんど感じられない。
でも、代わりに、畏れのような、何か得体の知れない、危険なものを見るような色が、その瞳の奥に、深く宿ってしまった。
あたし自身も、この左目に秘められた力の、底知れない破壊力に、改めて驚きと、そして、言いようのない恐怖を感じていた。
それでも、キオは、あたしのそばを離れようとはしなかった。
言葉はなくても、彼の行動が、態度が、それを示していた。
そのことが、孤独で、自分の力に怯えるあたしの心を、かろうじて繋ぎ止めてくれていた。
あたしは、まだ自分が何者なのかわからない。この力が何なのかも。
でも、キオという繋がりを得たことで、あたしは、この過酷な世界で生きていく意味を、ほんの少しだけ、見つけられたような気がしていた。
あたしの旅は、まだ始まったばかりなのだから。