第1部-第1章:瓦礫と目覚め、虚ろな始まり
息が詰まるような静けさだった。
まるで、世界が終わってしまった後のような。
そんな静寂の中で、あたしは目を覚ました。
最初に感じたのは、全身を締め付けるような鈍い痛みと、頭を殴られたみたいな激しい頭痛。
そして、鼻をつく、埃と黴が混じったような、むせるような乾いた匂い。
目の前には、崩れた何かの残骸が、山のようになっている。
鈍い午後の陽射しが、その隙間から細く差し込んでいて、空気中に舞う無数の塵を、キラキラと金色に照らしていた。
(…ここは、どこ?)
体を起こそうとしたけれど、思うように動かない。 まるで、他人の体みたいだ。
(あたしは… 誰?)
頭の中に問いかけてみるけれど、答えは返ってこない。
そこにあるのは、濃くて白い霧だけ。
自分の名前すら、思い出せない。
どうしてこんな場所にいるのか、その前に何をしていたのか、何もかもが、霧の向こう側に消えてしまっている。
時々、霧の中で何かが光るみたいに、鋭い痛みが走るだけだ。
無造作に伸びた、ごわごわの黒髪が顔にかかって、視界がさらに悪くなる。
鬱陶しくて手で払うと、指先に硬くて冷たい感触があった。
あたしが着ているものだ。
擦り切れて、あちこちがひび割れた、革のような素材。
これが、あたしの服…?
そして、気づいた。
左半身の感覚が、ほとんどない。
まるで、そこだけが石か何かでできているみたいに、冷たくて、重い。
恐る恐る、自分の左の目元から頭にかけて触れてみた。
(…っ!)
思わず、息を呑んだ。
指先に伝わってきたのは、生きた人間の肌の感触じゃなかった。
硬くて、冷たくて、まるで作り物みたいだ。
右の頬には、いつできたのかわからない、ザラリとした細い傷跡がいくつかある。
でも、左側は、もっとひどい。
これは、本当にあたしの体の一部なの…?
絶望が、冷たい水みたいに、体の芯からじわじわと広がっていく。
もう、元には戻れないのかもしれない。
あたしは、壊れてしまったんだ。
どれくらい、そうしていただろう。
時間の感覚なんて、もうなかった。
ただ、瓦礫の中で、小さくなって、自分の壊れた体を抱きしめていた。
空の色が、ゆっくりとオレンジ色から深い紫へと変わっていくのを、ぼんやりと眺めていた、その時。
突然、左目に、焼け付くような、激しい熱さを感じた。
「…いっ…!」。
思わず、呻き声が漏れる。
熱い。
痛い。
何かが、左目の奥底から、無理やりこじ開けられるような、異様な感覚。
そして、石みたいに硬かった左目の周りの皮膚が、微かに、ドクン、と脈打った気がした。
信じられない。
冷え切っていたはずの左半身に、ほんの少しだけ、温かい何かが流れ始めたような、そんな感覚があった。
それは、本当にゆっくりとした変化だった。
一日なのか、それとも何日も経ったのか、わからない。
雨が降れば、冷たい雫が容赦なく体を打ち、夜になれば、骨身に染みる寒さに震えた。
お腹が空けば、泥水の中から、虫か何かを探して口にした。
泥の味と、微かな腐ったような匂い。
生きているのか死んでいるのか、わからないような状態で、あたしはただ、この左半身の奇妙な変化を感じ続けていた。
あたしの左目は、普段は色が薄くて、光があまり入らないみたいに、どこか虚ろに見える。
でも、時々、何かの拍子に、内側から燃え立つような、強い赤い光を放つのだ。
その赤い光の中心には、複雑で奇妙な紋様が、一瞬だけ浮かび上がる。
そして、壊死していたはずの左半身が、まるで早送りで見ているみたいに、少しずつ、でも確実に、再生を始めていった。
ひび割れた皮膚が繋がり、失われたはずの肉が盛り上がり、砕けていた骨が、軋むような音を立てて繋がっていく…。
左目のすぐ下には、いつの間にか、痣なのか入れ墨なのか、奇妙な黒っぽい古の文字のような模様が、皮膚に深く刻まれていた。
これも、前からあったものなのか、あたしにはわからない。
奇跡だ、と思った。
でも、同時に、恐ろしかった。
自分の体が、自分の知らない力で、勝手に作り変えられていく。
これは、本当に良いことなんだろうか。
あたしは、元のあたしに戻れるんだろうか。
それとも、何か別のものに、なってしまうんだろうか。
この再生に関する記憶も、やっぱり霧の中みたいに曖昧だった。
いつ始まって、どう進んだのか、はっきりと思い出すことはできない。
まるで、誰かが、あたしの記憶のその部分だけを、綺麗に消し去ってしまったみたいに。
そして、体が少しずつ動かせるようになってきた頃。
あたしの頭の中に、「声」が聞こえ始めた。
直接、脳に響いてくるような、不思議な声。
男か女か、どんな年齢なのかもわからない。
どこか遠くから聞こえるようで、すぐ耳元で囁かれているようでもある。
「スス…メ…」。
「…サガ…セ…」。
途切れ途切れで、何を言っているのか、さっぱりわからない。
でも、その声には、逆らえないような、妙な力があった。
石みたいに動けなかったあたしの体を、無理やり突き動かすような、強い衝動。
あたしは、ふらつきながらも、立ち上がった。
瓦礫の山から、一歩を踏み出す。
あたしは、一人だ。
名前も、過去も、何もない。
あるのは、この異質な左目と、時折聞こえる声、そして、生きなければならないという、漠然とした思いだけ。
あたしは、崩壊した世界を、歩き始めた。
足元には、ねじくれた鉄骨、砕けたガラス、誰かの持ち物だったのかもしれない、ボロボロになった何か。
微かに漂う、オイルと鉄錆の匂い。
見上げれば、灰色にくすんだ空。
見慣れない、棘だらけの植物が、コンクリートの隙間から、生命力の限りを尽くすように生えている。
遠くに見える、奇妙な形をした岩山。
ここは、あたしの知る世界とは、明らかに違う場所だ。
右の瞳に映る景色は、どこまでも乾いていて、色褪せていて、まるで、あたしの心の中みたいだった。
最初に「あれ」に出会ったのは、歩き始めてすぐのことだった。
黒い、影のようなもの。
人の形をしているようにも見えるけど、輪郭が常にぐにゃぐにゃと揺らいでいて、定まっていない。
体からは、コールタールみたいな、黒くて粘り気のある液体が滴り落ちている。
腐った卵のような、硫黄にも似た異臭が、風に乗って漂ってくる。
地面を這うように、ゆっくりと動いている。
時折、止まって、何かを探すようにあたりを見回したり、あるいは、天を仰いで、言葉にならない、苦しげな呻き声を発したりしている。
「ぅ…あ…ぁ…」。
「…ぉ…ぉん…」。
それは、まるで、何かを失って、永遠に探し続けている魂のようだ、と、なぜか思った。
そいつらは、「輩」と呼ばれているらしい。
(なぜそう知っているのか、自分でもわからない。 声が教えてくれたのかもしれない)。
輩は、音もなくあたしに近づいてきた。 生きているものの気配に、引き寄せられるように。
その虚ろな目が、あたしを捉えた。
背筋が凍るような恐怖。 体が、石みたいに固まって、動けない。
声も出ない。
また、殺される――本能的にそう感じた瞬間。
左目が、カッと熱くなった。 そして、燃えるような赤い光を放った。
あたしが何かをしたわけじゃない。 体が、勝手に反応した。
「―――ッ!!」。
目に見えない力が、衝撃波のように輩に向かって放たれた。
「ギ…ィ…アアアアァァァ…ッ!?」。
輩は、絶叫した。
それは、苦痛の叫びのようでもあり、同時に、どこか解放されたような、安堵の響きも混じっているように、あたしには聞こえた。
そして、次の瞬間には、黒い影は、まるで陽炎のように揺らめきながら、跡形もなく消え去っていた。
「…え?」。
あたしは、呆然と、輩がいた場所を見つめた。
そして、自分の左目に触れる。 まだ、熱を持っている。
この力…。
あたしを守ってくれた。 でも、同時に、あの苦しげな魂(?)を、消し去ってしまった…。
これで、よかったんだろうか…?
答えは、出なかった。
ただ、あたしは、汚れた袖で、額に滲んだ汗を拭った。
そして、再び前を向いた。 行くあてなんて、どこにもない。
それでも、進むしかない。
この左目の力と、そして、胸の中に渦巻く、たくさんの疑問を抱えたまま。
あたしの、虚ろな旅が始まった。