ちょうどいいせいろ
数日して、徹は海へと足を向けた。今なら、翡翠も出てきてくれるんじゃないかという気がしたからだ。
果たして、ざばりと水面を掻く音がし、桟橋のへりに白い手がかかった。一見するとちょっと怖い光景だが、今の徹はただただ嬉しかった。
「翡翠さん!どうしていたんです、心配―ああっ、その籠は」
翡翠が背中に背負っている蒸篭を見て、徹は思わず声を上げた。
「なに?もらったのよ、海に落ちてきたから」
あっけらかんとそういう翡翠に、徹は毒気を抜かれた。
「あ…そうなんですね」
「いも子は行っちゃったけど…徹、あんたはどうするの?」
唐突に問われて、徹は面食らった。
「知ってたんですね、翡翠さんも…」
「当たり前よ。あの子、海の中で消滅したんだから」
「そっか…」
ややうつむいてしまった徹に、翡翠は少し口調をやわらげた。
「でも、満足していたわよ。たぶんね」
「わかるんですか?」
「その場にいたわけじゃなかったけど、おなじ海にいたからね。―なんとなく」
「翡翠さんは…平気、なんですか」
徹の言葉に、彼女はつんとそっぽを向いた。
「くよくよしたって仕方ないじゃない。いつかこうなるって…わかってたんだから」
「翡翠さんとボゼ神様は、かまど神様の正体を、知っていたんですね」
「そうよ。でも私たちが知ってても、あの子が自分で思い出さなけりゃいけなかったのよ。『名前』を取り戻すって、そういう事だから―」
翡翠は目線を上げて、もくもく雲の立つ空を見つめた。
「そりゃ、寂しいわ…。でも私、あの子からちゃんとメッセージを受け取ったから」
「メッセージ?」
彼女は髪の中から水引を出して見せた。
「ほらこれ。徹も持ってるでしょう、真珠」
「あ…うん」
彼女は水引を握りしめ、その手を胸にあてた。
「あの子は、私に幸せを掴んでほしいって言ってくれた。だから私は、自分のために頑張る事にするわ。あの子がいなくても」
その声は、強い決意がみなぎっていた。目的のある目をしている。彼女は何かをするつもりなのだという事がわかった。
「翡翠さん―」
じっとすがるように見る徹に向かって、彼女は笑った。
「本当は、誰にも言わないで行くつもりだったんだけど」
「行くって、どこに」
「ここじゃない海よ。私は、私が私として生きていける場所を探しにいくの」
「ここじゃあ、ダメなんですか?」
「ダメなの。徹には話していなかったけど―海の底の御殿はね、自由のない牢獄と一緒なの。格子はないけどね」
「もう―ここには、戻ってこないんですか」
徹がそう言うと、彼女の笑顔がすこし寂し気なものに変わった。
「…たぶんね。長旅になるだろうから」
「そうですか…」
徹はうつむいた。かまど神に加えて、彼女も旅立ってしまうのだ。大事な物がなくなってしまうような喪失感がある。だけど―
(もし、自分が旅立つ側だとしたら…こんな顔、してほしくないはずだ)
徹は顔を上げて、翡翠に向かって笑ってみせた。
「そっか―!探しにいくんですね。ここよりもいい場所を。少し寂しいけれど…見つかるといいですね」
徹の言葉を受けて、翡翠は目を伏せて微笑んだ。
「徹のおかげよ。旅立つ決心がついたのも」
「え…かまど神様のおかげ、じゃなくて?」
「もちろんいも子もよ。だけど―あなたと出会って、私は自分の間違いに気づく事ができたの」
「翡翠さんは、間違ってなんか…」
しかし翡翠は首をふった。
「いいえ。自分の知っていることがいかに少なかったか。本当に狭い世界で生きているんだとわかったのよ。私、人間は―みんな極悪な生き物なんだと思い込んでいたわ。私たちの姿を見たら、捕まえて騙すんだって。そう習ったから」
翡翠は、まっすぐ徹を見て言った。
「でも、徹みたいな人間がいるって、わかった。何の得にもならないのに、いも子や私を助けてくれるような、そんな人間もいるんだなって」
「い、いや、そんな…」
「それで、人間も人魚も同じなのかもしれないってわかったの。いいやつもいれば、わるいやつもいる」
その言葉には、徹も素直にうなずいた。
「それは…そうかもしれない」
「そうよ。だから…わるいやつが大きな顔をしているこの場所から、私は出て行くことにする。人魚はもう他には居ないんだって教えられてきたけど、それも間違っているかもしれないし」
「どこまで行くつもり、なんですか?一人でいって、大丈夫なんですか?」
「どこまででも。私が見た事も聞いたとこもないような、新しい世界を探しにいくわ。今の場所にいたほうが、安全ではあるかもしれない。でも、行きたいの。その結果野垂れ死んだとしても、私の責任。後悔なんてないわ」
そういって翡翠は晴れやかに笑った。
「私、ほんとうにうれしいの。ここを出るって思うと!決めるまでは悩んだけど…決めちゃえば、とっても楽。自分の事を自分で決めるって、わくわくするわ。ちょうどいい籠も流れてきたしね。これに荷物をつめて出発よ。」
その明るい言葉に、徹の肩の力も抜けた。
「そっか…わかった。翡翠さん、気を付けて。もう会えないのは、寂しいけれど…」
すると彼女はいたずらっぽく言った。
「あら、そんなのわかんないわ!私はたしかに、この海にはもう戻ってこないけど―別の海で、また徹と会うかもしれないじゃない」
そういわれて、徹は目を丸くしたあと―思わず笑った。
「そっか…。そうなると、いいな」
「そ!だから徹もいつまでもくよくよしてないで、自分の事を考えなさい。もう人の事はいいから。自分のしたい事をしてあげて、自分を、自分の行きたいところに連れて行ってあげるのよ。立派な足があるんだから!」
徹はうなずいた。
「わかりました。翡翠さん」
「じゃあね、徹!またどこかで!」
そういって泳ぎ去っていく背が水平線に消えていくまで、徹はじっと見つめていた。しかし最後、ふっと懸念がうかんだ。
(そういえば蒸篭…海水にずっと浸かってて、大丈夫だろうか…)
水に丈夫な蒸篭を、いつかのために見繕っておく必要があるかもしれない。




