つまみ食い
「かまど神様…」
徹は荒れ狂う窓の外を見て、誰にともなくつぶやいた。餅を作ったあの日から明けて今日となった。島は台風のさなかだ。一体彼女はどうなってしまったのだろう。それを思うといてもたってもいられなくて、今すぐ表へ飛び出して探しに行きたくなる。だが。
「…俺、島の生活を舐めてたな…」
ため息と共に徹はつぶやいた。このあたりの台風が、これほど苛烈なものだとは。家はがたがた鳴って、今にも吹き飛ばされそうだ。今外へ出れば、徹の体など簡単に飛ばされてしまうだろう。
人間の体を吹き飛ばすほどの風など、東京にいたころは想像もつかなかった。今朝、恵さんから電話があって、台風の間は絶対に家の外へ出ないようにと釘を刺された。
「この島で台風にあうのは、初めてじゃっど?気をつけんと、本州のとはちがうかんね」
昨日作っていた餅もせいろも、すべて飛ばされてしまった。唯一残った鍋をかかえるようにして、徹は持って帰った。徹は窓の外をもう一度見て、決心した。
(台風が過ぎたら、かまど神を―探しにいかなくては)
ところが。台風が去っても、それから数日たっても、一週間たっても―彼女の姿を見かけることはなかった。神社でおおきな火を焚いても、甘いお菓子を広げても、何の気配もない。海へいっても、翡翠は姿を現さない。農場にも行ってみたが、ボゼ神が姿を現す事もなかった。
徹は途方に暮れて―とうとう腑抜けた。何もする気が起きない。家の掃除も、ものを作る気も。
(どこに行ったんだ…あの子は)
思えばこの島にきてから、あの子のおかげでいつも何かやる事があった。次はどんなものを作ろうか、何を作れば喜んでくれるだろうか。そうして料理を作っていくと、その先には人の喜ぶ顔があった。徹はほんとうに久々に―ただ純粋に料理をする事が楽しいと、感じる事ができた。
恵さんやおじさんたち、そして翡翠やかまど神自身。優しい人々にかこまれて日々を過ごす事は、これまでの人生にない穏やかで満ち足りた時間を徹にくれた。
だから―かまど神が姿を消し、彼女に料理を作るという生きがいを見失った今、徹はどうしていいかわからなかった。
(どうしているんだ、無事なのか?彼女は…)
それが心配で、何も手につかない。徹はごろりと床に横になった。もう昨日から、何も食べていない―…。
「おいおい、本当はもう、気づいてるだろう」
「うわぁ!?」
いきなり上から覗き込まれて、徹の身体は固まった。
「ボ、ボゼ神様!?」
徹が縮みあがって言うと、ボゼ神はおおげさに落ち込んだ顔をした。
「そんなに怖がるなんて、徹は冷たいなぁ」
我に返った徹は起き上がって聞いた。
「あ、ああの!かまど神様は、一体―!?」
必死の徹に、ボゼ神はいなすように首を振った。
「私がそれを、君に伝える必要はない。だって君はすでに答えに気が付いているからね」
「そ、それは―」
「ほら、言葉にしてごらん。恐れずに」
深いゆったりとしたその声は、徹の心を鎮めさせるような響きがあった。徹は一回呼吸をしたあと―…恐れていたことを、口にした。
「彼女は…いなく、なってしまった。別の場所に行って、もう帰ってこない。」
「ザッツライ。その通りさ」
こともなげにそういう彼に、徹は食ってかかりたくなった。
「無事…なんですか!?」
「もちろん。君らの言葉ではなんだっけ―そう、成仏した、とかっていうんだろ」
「成仏!?神様なのに…?」
そう言うと、ボゼ神は腕を組んで顎をそらした。
「う~~ん…それは微妙なところでね。かまどっ子は、もともと人間だったのさ」
「やっぱり…ですか」
ボゼ神はたくましい拳を徹に差し出した。
「彼女から受け取った。徹に、だそうだ。」
徹が両手を差し出すと、ごろりと大粒の真珠が落ちてきた。
「これは―簪の…。大事なものなのに」
「ニライカナイには、何も持っていけないからね。彼女は自分の思いを簪に託して、君に渡すために手放したんだよ」
「そう、ですか…」
徹は手のひらの上の真珠をまじまじと見つめた。ほんのり温かく、オレンジ色に映える真珠。かまど神と共にしてきた時間が思い出され、徹は辛くなって真珠を机の上に置いて目をそらした。
「おやおや…ひどい落ち込みっぷりだ」
「俺は、彼女のおかげで…久々に、明るい気持ちになれたんです。人間らしい気持ちに」
自分を卑下し、責める気持ちが消えていった。自分もここに居て、息をしていていいのだ。失敗しても、自分の人間としての価値が損なわれるわけではないのだと思えるようになったのだ。
「だから…いきなり彼女がいなくなってしまって…」
詰まった徹の言葉を、代わりにボゼ神が言った。
「そう簡単には、見送る事ができない?」
しかし徹は、無理やり首を振った。
「いいえ…。わかってます。彼女は―行ってしまったけれど、それは喜ばしい事、なんですよね。笑顔で見送ってやらなきゃ、いけないんですよね」
徹は震える唇で自分の気持ちを吐露した。
「でも―俺は、不安なんです。あの子はかしゃ餅を食べるのを、怖がっていた。俺が餅を食べさせたせいで、今ひどい思いをしていないか、ひとりで怖い目にあっていないか―」
手の届かない所へ行ってしまった彼女を、もう徹は助けることも、料理を作ってやることもできない。自分の無力さが身に沁みた。
そんな徹の震える肩に、ボゼ神は手を置いた。
「大丈夫。すべてを思い出して、彼女は衝撃を受けてはいたけれど…すべてを受け入れて、明るい世界へ旅立っていった」
「衝撃って…あの子は何を、思い出してしまったんですか」
「人間だった時の事だよ。あの子は奄美で、常に空腹に苦しんでいた。時の権力者が、厳しく島から砂糖を取り立てたせいでね」
奄美の砂糖地獄―。どこかで聞いたフレーズだ。歴史の授業だったか、テレビだったか…。
「あ…それは、幕末のころの話しですか?」
「人間の年の数え方は知らないけれど、だいぶ昔の事さ。あの子は砂糖をつまみ食いして、処刑されたんだ。ひどい話さ。その魂は海をさまよって、この島までたどりついた。」
「そ…そんな」
徹の声はかすれた。あの無邪気なかまど神に、そんな過去があったとは。
しかしそれならば納得いく。黒糖焼酎を飲んだ時に、表情が凍っていたわけ。「黒砂糖」が、記憶のトリガーだったわけ。
「やっぱり…黒砂糖は、かまど神様の辛い記憶に結びついていたんですね」
「もう、かまど神じゃない。あの子は「ナツメ」というんだよ。思い出したのは、辛かった事だけじゃない。あの子は数百年ぶりに自分の名前と、母のことを思い出したのさ。それで、神様から人間に戻る事ができたんだよ」
「…そう、だったんですか」
「ああ。だから君が気に病むことはこれっぽちもない。むしろ善い事をしたと胸を張っていいのだよ。一人の魂を助けたのだから。あの子は君に、感謝をしていたよ」
「本当、ですか…」
「ああ。君にお礼をしたいとね。最後君の願いをかなえようと思ったらしいが―その必要はないと気が付いたようだ」
「なぜですか」
「彼女が力を貸してやらずとも、徹は自力で幸せを探しにいけるからだと。」
耳元でそうささやいたあと、ボゼ神は徹を両手で抱きしめた。
「だから、そう落ち込むもんじゃ、ないさ―。」
それは慈愛に満ちたハグだった。一瞬のちにボゼ神は腕を解き、玄関から出ていった。様々な思いが徹の胸の中にうずまいた。が、徹は声に出して一言だけつぶやいた。
「そうか―あの子はナツメ、って名前だったんだな…」




