クロダイのみりん蒸し
あちこち山の中の舗装道路をたどり、やっと徹は長老と思わしき人の家にたどりついた。インターホンなどはないので、直接民家の引き戸を叩く。ガラス扉特有の、がしゃがしゃしたノック音だ。
「ごめんくださーい。三笠ともうしますが」
しばらく待つと、ぱたり、ぱたりと足跡がし―扉が開いた。白髪のおばあさんが、驚いたように徹を見上げていた。
「こんにちは。あんたはだれね?もう耳が遠くてね。もういちど言ってね」
「俺、三笠徹って言います。ここに住んでいた三笠美和の孫で…」
「あんたが?美和の孫?っちゅうこた…妙ちゃんの、息子か?」
聞きながらも、おばあさんは自分で答えを出していた。
「あああ、目んとこが美和にそっくりだよ!ほんのこて、あの子ん似てよかにせじゃっど!」
「よかにせ…?」
「今風に言や…いけめん、じゃっど!東京からだろ?まぁよく遠くから…さ、上がんなさい」
なんもないけど、といいながら、長老の妻―であった恵さんは次々とちゃぶ台に食べ物をならべた。こんぶのおにぎり、ゴーヤの漬物、黒砂糖と味噌で煮込んだそぼろ。
「もうずいぶん昔に旦那はあっちへ行ってねぇ。娘も孫も鹿児島におんで、いまは島も老人ばっか、身を寄せ合ってなんとかやってるってかんじだねぇ。で、徹くんは何で島に?」
昨日も同じような事を聞かれたなと思いながら、徹は答えた。
「とりあえず祖母の家に…。家賃が浮くので」
簡単に自分と母の身の上を話しただけで、恵さんは涙ぐん相槌を打った。
「はぁ、そげなことがあったとね…妙ちゃんも大変だったとねぇ…」
昨日も今日も、なんだか人に身の上話をしている。こんな風に人に親身になってもらうのは久々な気がして、徹は自然と頭を下げた。
「ありがとうございます、恵さん」
そんな徹を見て、恵さんはさらに台所からお盆を持ってきた。
「お腹すいとったんねぇ、おにぎりもっと食べんね?あ、そうだ、昨日浜で揚がったクロダイがあるが。刺身にしようかね」
して貰いっぱなしは尻の収まりが悪い。徹はここぞとばかりに立ち上がった。
「でしたら俺が捌きますよ。やらせてください」
冷蔵庫を覗くと、中くらいのクロダイが3尾収まっていた。
「恵さんは、お昼まだですよね?煮魚と刺身、どっちが好きですか」
台所から顔を出して言うと、恵さんは少し迷ったあと、少し照れたように笑った。
「煮魚かなぁ…」
「了解です!」
徹は元気にうなずいて調理台の前に立った。お店の磨き上げられた厨房とは違う、家庭の古くて小さい台所だ。しかし、この場所は不思議と心が安らいだ。立っているだけでなんだか胸が楽になり、肩の力が抜けるようだ。小さいまな板に、小さい包丁を取り出して、徹は魚をさばき始めた。完璧ではないけれど、どの道具も使い込まれて手入れしてある。それはこの台所全体がそうだった。奥の棚には、3つ石が並んで祀ってあった。きっとこの地方の風習なのだろう。
(ああ、だから居心地がいいんだな)
かつては、家族全員の食を賄っていた台所。今は、おばあさん一人が料理を楽しんでいる台所。幸せな時も辛いときも、家族の歴史をすべて飲み込んできたであろうこの場所は、今ここに立つ徹までも包んで迎え入れてくれるような懐の深い空気を纏っている。この台所を作り上げた恵さんの人生を、少し羨ましく感じる。
「…よし、このくらい、かなっと」
無心に手を動かしていると、あっという間にクロダイを捌く作業は終わった。醤油にみりん、酒に加えて千切りしたしょうがを散らし、鍋を煮立たせる。煮汁の甘辛い匂いがふわっと立ったら、その中に×の切れ目をいれたクロダイを二尾仲良く寝かせる。落とし蓋があればよいのだが、ないようなのでアルミホイルを軽く魚たちにかぶせ、ふたをして弱火にする。あとは煮上がるのを待つだけだ。
その間に残りの一尾を、3枚におろして塩を振っておく。これで、焼くだけで食べる事ができる。いい朝食になるだろう。
「うちの台所で人が作ってもらったもん食べるのなんて、いつぶりだがねぇ」
恵さんはそう言って、嬉しそうにできあがった煮魚に箸をつけた。
「…おいしい!ふっくらしとって、上品なのによく味がしみとるが!」
料理を手放しでほめられるのも久々だ。今まで、ダメだしばかりだったから。もちろんひとかどの料理人を目指して料亭に入ったのだ。ダメだしも、自分の腕を向上させる努力も当たり前の事だった。だけど―…
(嬉しいもんだな、おいしい、って言ってもらえるのは)
不覚にも目のはしが熱くなってしまい、徹はあわててごまかした。
「えっと、残った一尾、下ろして冷蔵庫に入れておきました。塩も振ってあるので、焼き魚にでもしてください」
帰り際、恵さんは島での生活についてあれこれ教えてくれたあと、その魚を保冷バックに入れて持たせてくれた。
「あては一人だし、そんなに食べんからね。家の復旧には時間かかっだろから、うちにはいつでもご飯食べにおいで」
「はい、ありがとうございます」
徹はしっかりとした足取りで恵さんの家を後にした。
さて、やることはたくさんある。
昔ひと夏を過ごしたおばあちゃんの家は、とりあえずそのまま建ってはいた。庭は雑草が生い茂ってすごい事になっていたが、家の中は片付き、きれいに保存されていた。すべての窓を開けて空気の入れ替えをし、箒でほこりを払い雑巾で拭き掃除をする。布団を干して、とどめに残っていたハイターを薄めて台所まわりも綺麗にしていると、徹の中に罪悪感のようなものがふとおこった。
(俺―おばあちゃんの葬式にも、行けなかった)
高校を卒業してしばらくした時のことだった。すでに母を亡くしていた徹は、昼間は働き、夜間は調理師学校に通い、生きていくのに必死だった。身も心も、当然ながら懐も余裕は一切なく、日々の生活に忙殺されるまま、すっぽかしてしまった。
おばあちゃんの台所は、恵さんの家の台所と同じく、よく手入れされてあった。空き家となり長い事放置されたあとでも、触れれば大事に使っていたのだなとわかる。ここに一人の人の生活が、終わりがあった。自分は身内なのに、今さらやっとその事に向き合っている。
「ごめん―おばあちゃん」
掃除を一通り終えた徹は、家を出た。せめて墓参りに、行かないと。
恵さんに教えてもらった店は、昨日フェリーがついた桟橋のほどちかくにあった。役場や店などがそこの浜集落に固まっているらしい。
役場に電気と水道の再開をお願いすると、快く引き受けてもらえた。どうも恵さんから電話で話があったらしい。夏の間滞在するつもりだと言う事を告げたあと、この島唯一の商店に向かう。
おばあちゃんの家には、ひととおり生活に必要なものはそろっていた。ので、お米や調味料、野菜などをいくらか買う。店番のおじさんに根掘り葉掘り聞かれたので、素直に身の上を話す。そして店から出ると、ちょうど停泊していた漁船から降りてきたおじさんにまた根掘り葉掘り聞かれる。再度素直に答える。
「そげんこつ…若いのに、苦労しちょるなぁ…ほら、これ」
どうもおじさんは漁師らしい。また魚をもらってしまった徹は、丁寧にお礼を言って浜集落を出た。あれこれ用をたしていたら、もう午後もあらかたすぎてしまった。家へ向かう足を早めながら、頭に浮かぶのは昨日の女の子の事だった。
(今夜も…あの子に何か、作ってやったほうがいいかな)
夢だか幻だかわからない自称「かまどの女神様」のいう事だが、自然と徹の頭にはその考えが浮かんでいた。たとえ誰でも、目の前にいる人が「なにか食べたい」と言えば作らなければと思ってしまうのが元・料理人の悲しい性なのかもしれない。
(ごちそうが食べたいのかな。でも神様の言う「うめえもん」って、なんなんだろう…)
神社やお寺にお供えする干菓子の類が頭に浮かぶ。お盆に供える、鮮やかな着色料で色づけられた大きな砂糖菓子たち。
(でも、仏じゃなくて神様だしなぁ…それも、自分は大きなえらい神様だって言ってたなぁ)
小さいころ「日本昔話」か何かで見た話を徹はがんばって思い出した。神様の食べ物といえば…
(まずお米、だよなぁ。餅とかおにぎりとか…。ああ、そういえば)
師匠が言っていた。日本には体から穀物を出す女神がいるのだと。となると…やはり穀物系のごちそうだろうか。
一つ思い出すと、どんどん数珠繋ぎのように神話の食べ物が浮かんできた。ヤマタノオロチを酔わせたという強い酒、山での狩りが得意な兄と、海での魚釣りが得意な弟。
(つまりはジビエか刺身か…ってところか)
この2つだと、ずっと日本料理の店に身を置いてきた徹としては、魚に軍配が上がる。手もちの材料はちょうど、今朝のクロダイと、漁師のおじさんからもらった魚たち。歩きながら、徹は頭の中で今夜の献立を組み立てていた。
(あの子、てんぷら、って昨日言ってたよなぁ…。)
日本のごちそうといえば、とりあえずてんぷらと寿司ではなかろうか。徹の中で献立が決定した。
天ぷら作りは、まず小麦粉を冷蔵庫で冷やす所から始まる。徹は帰ってまず、冷蔵庫のコンセントをつけた。かすかにブーンといううなりがし、冷蔵庫が起動する。めでたく電気が通っているのがわかったので、さきほど殺菌消毒した庫内に徹はすべての食材を詰め込んだ。
先にお寿司だ。とりあえず、炊飯器で3合米を炊く。おじさんからもらった保冷袋の中には、小エビや小魚にまじって、血抜き済みのカンパチがどん!と入っていた。
(本当はおじさんが食べるはずだったろうに、なんだか申し訳ないな…。)
そう思いながらも、徹はエビの皮をむき竹串を入れ、次々とゆでていく。小エビなので、これはお寿司にぴったりだ。黒い縞模様から紅色の縞模様に変わったエビたちを湯から上げ、次はカンパチにとりかかる。銀色に光って新鮮だ。まな板の上に置くと、わくわくすると共に、畏敬の念のようなものが沸く。
この魚も、数刻前までは生きていたはずだ。だけど今、徹によって食べられようとしている。どんなにきれいごとを言おうと―生き物は、他の生き物の命を貰わないと生きていけない。自分の身体は、これまでもらってきた無数の命からできているのだ。この魚だって、そして徹自身だって。だから、自分の命も、他者の命も粗末にしてはいけない。料理をすることもそれを食べることも、等しく大事な行為だ。徹は家でも、師匠にも、そのような事を教えられてここまできた。料理人となってからは、陰ひなたなく一生懸命頑張ってきたつもりだった。親もなく金もなく特別な才もない。そんな自分がまっとうに食っていくためには、真面目にコツコツやっていくしかないとわかっていたからだ。頑張っていれば、きっと見ていてくれる人はいる。自分が良い事をすれば、きっと良い事になって帰ってくる。そう信じていた。
だから―その教えを足蹴にするような料理人が居るのは信じがたかった。しかも自分はそんな相手に敗ける形で職場を追われたのだ―。
(やめやめ!そんな事を考えている間に、手を動かすんだ…っ)
徹はそう念じてから、カンパチに包丁を入れた。きらきら光る鱗を落として3枚におろし、刺身用のブロックにしていく。身はほんのり薔薇色で、艶めいて脂がのっていていかにもおいしそうだ。これは寿司にするのが正しいだろう。
炊きあがったご飯をすべて酢飯にし、徹は一つ一つ握っていった。食器棚の奥にあった黒塗りのお重に握り寿司を並べていくと、あっというまに1段、2段と埋まってしまった。黒地にカンパチの薄紅色と、エビの朱色がいいコントラストだ。
のこりの1段は、天ぷらだ。徹は冷やしておいた小麦粉と卵黄、それに冷たい水を混ぜて衣を作った。残りのエビとクロダイ、カンパチ―最後のおまけに半月切りのゴーヤをくぐらせ、油の中にそっと入れる。
天ぷらは、油と衣の温度差によってできる料理。だから衣は冷たく、そして油の温度は中温を保つよう、こまめに火を調整する。本当は温度計があればいいがここにはないので、菜箸を鍋の底につけて、どのくらい泡が出るかで温度を見る。泡が細かすぎても、勢いが良すぎてもいけない。しゅわしゅわとシャンパンのように規則正しく小さい泡が上がってくる状態を保たなければならない。
からりと上がったてんぷらを、紙を敷いたお重に詰める。ふやけてしまうので蓋はしたくない。そもそもてんぷらは出来立てが一番美味しい。すぐに食べてもらわなくては意味がない。徹はお寿司を風呂敷で包んで背負い、天ぷらのお重を手でもって、いそいそと家を出た。
もう日は落ちて、あたりは暗い。本当にあの女の子はいるだろうか?自分が夢でもみていたんじゃないだろうか?徹は半信半疑で昨日の鳥居をくぐり、再び灯籠に明かりをともした。すると、背後に気配を感じた。
「徹!待っちょったんじゃ!」