海水とかまどの火
―真夏に生まれたから、おはんの名前はナツメ。大事な長女さあ…
頭の中で、ナツメは母の事を思い出していた。優しかった母。いつも自分の食べ物を、ナツメに分け与えてくれた。だから自分はがりがりに痩せて、ナツメのあとに産んだ子たちも流れたり、死んでしまったりで―…。
そのたびに母は唯一残ったナツメを抱きしめて、疲れたようなため息をついた。
きっと本当は泣きたかったのだろう。けれど、泣くことは力がいる。辛いと感じている自分を認め、受け止める行為でもある。
そんな事をする元気は、痩せさらばえた彼女の体には残っていなかったのだ。だからそっとため息だけをつく。彼女の諦めと静かな絶望を含んだそのため息は、腕の中にいるナツメにも、やるせない思いを抱かせた。
働けど働けど―食べ物はもらえず、生活は苦しいばかり。やがて、いつも食べ物をナツメにくれていた母は、まっさきにやせ細って死んだ。そのあと父も後を追うように逝ってしまった。
両親が死んで奴隷になった時、ナツメの心も一緒に死んだ。
もう母はいない。食べものを分け与えてくれるどころか、ナツメを気にかけてくれる人すらこの世界にはいない。皆、自分の事で必死だからだ。
そしてナツメは、酷使されるだけの道具となった。ナツメの幼い心の中に、無気力の芽が芽吹いた。
(希望もなかどん、失うもんもなか。それなら―よか人間であろうとしてん、仕方がなかど)
ナツメは母から教わった躾や優しさ、他人に対する思いやり…そんなものをすべて捨てた。「陰ひなたなく働きやんせ、神様は見ちょっ」「人んもんを勝手に盗ってはいけもはん―」そんな教え、捨てなければ生きてはいけなかった。
そして―食べ物を盗む、犬畜生に堕ちたのだ…。
「犬畜生め!見やんせ、こん意地汚か小娘を!砂糖をかすめとっどころか、屋敷ん姫ん食事にまで手をだした!」
大声が体に響き、ナツメは目を覚ました。髪をつかまれ、宙づりにされているようだ。もう痛みも感じない。手足も頭も、ぬるぬると湿っていた―自分の血だ。
「よかか!盗み食いをすっ者な、こうなっ!しかと見ちょけ!」
崖の上から、ナツメの体は突き落とされた。落ちながら、ナツメは思った。母が今の自分を見たら、きっと泣くだろう。
(そうだ―たしかに、犬畜生や…)
タガがはずれて、食べ物なら見境なく口に入れた。ナツメは初めて、自分のした事を後悔した。だけど。
(あいつらが、あてを責むったぁ違っ!あてを怒ってよかとは―おっかあだけじゃ!)
悔しかった。なすすべもなく落ちていくのが。あいつらがこれからも、何とも思わないで島から奪いつづけていくことが。
しかし思いも無情に、ナツメの細い体は海面にうちつけられた後に沈んでいった。
死ぬと思った。そして実際―体は死んだ。
肉体の死と共に、ナツメはほとんどのものを失った。
あんなにナツメを苦しめた食欲も。殺された記憶も。そして―名前も。
ただの「名無し」となった彼女に残ったのは、わだかまる怒りと悔しさ、後悔だけ。しかし海を延々と漂ううちに、それらもだんだんと薄れていってしまった。その残滓は心の奥底の箱の中に沈み込み―代わりに浮上してきた大きな不安に飲み込まれた。
(あては誰?何?ここで何をしちょるんじゃろう―…?)
何かにすがりたい。でもすがれるものもない。天に上がる事も海に沈むこともできない中途半端な自分。海の中で漂っているだけの残留思念。
寄る辺ない欠けた魂となってしまった彼女は、必死で何かにすがろうと五感を研ぎ澄ました。何か自分が掴めるものはないか?見えるものはないか?聞こえる声はないか?
そしてある日、呼ぶ声を聴いた。
「―様、ヒヌカン様―どうか炉の火を守ってください…」
それは、誰かが火に向かって祈っている言葉だった。炉の火。その言葉に、彼女の中の何かがすいよせられるように反応した。
(呼ばれちょっ…あて…いかんと……)
薄れてしまい込んだはずの、火の番をしていたころの記憶がそうさせたのだろうか。彼女はその声を聴いて、そう思い込んでしまったのだった。
「そうか―君はこの島の人間の声を聴いて、やってきたんだね」
親切な人魚に助けられ、島にたどり着いた彼女に褐色の神は言った。
「人間の祈りに応じて来た。という事はつまり、君はかまど神となったのだろう。前身がなんであれ、ね。この島で、いっときは小さき神として仕事にあたるがよい」
ボゼ神はそう言って笑った。すべてをわかって受け入れてくれる、ふところの深い笑みだった―…。
ぜんぶ思い出したかまど神―否、ナツメは荒い波に翻弄されながらただただ茫然と目を閉じた。
(そうじゃ…あて…あては、すげぇ神様なんかじゃ、なか…)
ただの島の子ども。それが海に突き落とされ、恨みをのんで徘徊しているうちに記憶が薄れ―不完全で孤独な魂は、呼ぶ声に誘われてこの島の小さな神へと習合した。それだけの存在だったのだ。
そして長い時を、かまど神として過ごした。悪石島の人々を見守り、ボゼ神や翡翠に助けられながら…。
(あての魂が恨み神にならんかったとは―みんなのおかげ…)
この年月を平穏にかまど神として経たおかげで、ナツメの魂は悪へと堕ちずに済んだのだ。ナツメを突き落とした村の役人も、薩摩という藩も、すでにもうない。
かまど神という存在は、決して今の自分ひと柱だけではない。それは、さまざまな『神様』がそうであるように、たくさんの信仰の共同体なのだ。古代から火を熾す事、そして現代では台所にかかわるたくさんの想いや魂たちが、混ざり合って今なお、『かまど神』として存在している。ナツメは一時、自我を失った魂となって『かまど神』の名前を借り、そこに身を寄せたにすぎない。それはあくまで、魂が回復するまでの、期間限定の救済措置だった。
かまど神として過ごしていたナツメの魂は、この島の人々やあやかしたちに触れ、時を経て癒されたのだ。もう激しい恨みも、飢餓も、薄れてなくなった。
だから、自分の名前を思い出したくなったのだ。思い出さないといけない、そんな気持ちが湧いてきた。それで目の前を通った徹に、手伝ってほしいと声をかけた。
そして今、自分の名前を思い出して、かまど神から抜けて個人へと戻ったナツメは―この地から離れて、すべきことをしなければいけない。
(ニライカナイ、根の国、あの世―)
いろんな名前で呼ばれているその場所へ行かなくてはならないのだ。死者が皆、そうするように。本来肉体がほろんだ魂は、そこへと帰らなければならないのだから。
(うちは…ずいぶん遠回りしてもうた…)
そう思ったナツメは目をあけた。すると―目の前に、金の輪が広がっていた。海水の中に、ゆらめく光。門のようにも、鳥居のようにも見える。ナツメは思わずそちらに向かって手を伸ばした…。が。
(翡翠…それに…徹…)
この世界にいるその二人を思い出すと、やはりひどく後ろ髪を引かれる思いがした。
(二人を置いていくんは……やっぱり、さびしかぁ……)
しかし、ためらっている時間はない。
ナツメは髪からそっと簪を抜き取った。これから一緒に居られない代わりに、「かまど神」としての最後の力を、二人のために使うことにした。
翡翠はこれからも、苦しい悩みをかかえて、いばらの道を歩んでゆかねばならない。なぜなら彼女はナツメとは違い、「生ある者」なのだから。
(翡翠のこれからん人生が―少しでん、良き物となっよう。苦しみが、取り除かるっように…)
そう願いを込めて、ナツメは簪を手放した。かまど神の力など、大したものではない。せいぜい小さな願いをかなえたり、ほんのすこし守ってあげるくらいのものだ。
(だけど―…翡翠、きっとおはんなら、幸せを掴めっはず。おはんは生きちょって、強うてーそして優しかで)
手放した簪は、かまど神のさいごの神気を帯びて、手から離れていく。輝く光によって解かれ―水引の部分は海底へ、真珠の部分は海面へ―
頭上に輝く海面を見ながら、ナツメは徹を思った。
(徹―ほんのこて、おおきに…おはんのような人間がおっで、あてはこうして救わるっこっがでけた…)
自分のために料理を作り続けてくれた徹に、何かお礼がしたい。
(そうだ、願いを叶えちゃるって、最初約束したじゃ―)
何がいいだろうか。悩むナツメの頭のなかに、ばっと新しい光景が差し込まれるように広がった。それは、どこかここではない場所で、徹が皿を手にして笑っている姿だった。
(こいは…未来ん、光景?そうか、あては先見をしたんじゃ…)
その徹の様子を見て、ナツメはふっと微笑んだ。
(あてが、なんやかや世話を焼かんでんよかど、徹は)
すでに立ち直っている彼は、このさき歩き出すだろう。そして―新しい自分だけの、炉端の女神を見出すだろう。一緒に炉を囲んでくれる、大事な存在を…。
(よかった、徹―おはんに、幸多からん事を!)
そしてナツメは、光の輪の中へと入っていった。後ろをふりかえらず、その心にある想いは、たった一つ残った純粋なもの。
(やっと、おっかぁに会える…あてを、たくさん叱ってくるっかなぁ)




