黒糖のレシピ
月が海面すれすれに浮いている。真夜中だ。翡翠もボゼ神も帰ってしまい、徹はかまど神とせっせと神社の片付けにいそしんでいた。最後、提灯を下ろす段になって、かまど神は名残惜しそうだった。
「もったいなかねぇ…まだつけといたら、いかんかな?」
その気持ちがわかる徹は、軽くうなずいた。また来年やろう、とは口に出せない。だってその時、二人がまだここにいるかなどわからないのだから。なので、せめて代わりに。
「そうだね…一つだけ、下げておこうか。恵さんには俺が断っておくよ」
「あいがと、徹」
かまど神は一つ残った提灯を見上げて言った。
「あてんために…翡翠と考えてくれたんやろう」
徹はいたずらがばれた子どものように笑った。
「あはは、お見通しだったか」
「わかっじゃ。2人とも、優しかもん」
提灯の下に膝をかかえて座り込んだ彼女の隣に、徹も座った。
「…悩みの原因は、どうにかなったのかな?」
徹がおそるおそる聞くと、かまど神は笑って首を振った。
「ううん。じゃっどん…なんとなく、わかった。うちはあん甘か味と、何か縁んごたっもんがあって」
「それは、あの黒糖焼酎のこと?」
「そうじゃ。あん甘か味が喉に通った瞬間に…あては何か思い出しそうになった。じゃっどん、一瞬で飲み込んでしもたで、あん時はそれ以上思い出せんで」
「たしかに…黒糖焼酎の中の黒糖は、ほぼ風味だけで甘さは少ないからな…。思い出せなくて無理はないよ」
「違っと。あてが、思い出すのが怖くて―それ以上飲めなかったど。そいであん時逃げた」
徹は目を丸くした。あんなに自分の名前を思い出したいと言っていたのに。
(やっぱり…名前だけじゃない、なにか嫌な事も思い出してしまう、って事なんだろうか…)
かまど神は最初に無邪気に言っていた。自分はえらい神様なのだと。こんな所より、もっと立派な場所にいるんだ、と―。
だけど今、目のまえの彼女はじっと唇を噛んで、思いつめた表情だ。徹は思わず言った。
「どうしても…名前は、思い出さなきゃいけないのかな?」
「え?」
「ここで―この島でさ、今のままかまど神様として過ごしていくんじゃ、ダメかな?翡翠さんやボゼ神さまや、恵さん達に囲まれながら」
するとかまど神の顔が、泣きそうな表情に歪んだ。徹は言いつのった。
「今のまま、楽しく過ごそうよ。俺もこの島に居ることにする!それで来年も一緒に、お祭りをしよう。提灯をいっぱい飾ってさ」
するとかまど神は―その膝に、顔を埋めた。お団子に埋まる髪飾りが揺れる。
「うちも…ほんとうは、そげんしよごたっ…」
「なら!いいじゃない。それで。誰もかまど神様のこと、責めたりなんか―」
「でもだめなんじゃ」
かまど神のその声は、膝におしつけられてくぐもっていた。
「このままじゃいけん。そいは、よくわかっちょっ」
「なんで?」
「あても、よう説明はできん…でも、このままグズグズしてたらダメってことだけはわかっちょるどん」
かまど神は膝から顔を上げて、天を仰いだ。オレンジの火が灯る提灯に、夜空。それらをじっと眺めたあと、かまど神は言った。
「あてが今ここにおるんは―きっと、自然な事じゃなか。あるべき姿じゃなかど」
その声は、妙にきっぱりとしていた。何か吹っ切れたような顔だ。
そしてかまど神はまっすぐ前を見た。海に浮かぶ月を。
「あては海を漂って―多分、逃げてきちょっ。何かから。たぶん今も逃げてちょる」
徹は不安になって彼女に言った。
「でも、逃げる事も時には必要だよ」
「もちろん。100回逃げたってよかど。けど、人生で一回だけはどうしたって―逃げずに立ち向かわんくちゃ、いけん」
覚悟を決めたようにそう言ったあと、かまど神は隣の徹を見上げた。
「ちょっと、怖かどん。でも翡翠と…徹のおかげで、決心がついちょっ」
その笑顔は、勇ましく晴れやかだった。―だから徹は、うなずくしかなかった。彼女は自分で決めたのだ。だから徹が、自分のわがままで止めたりすることなんてできない。
「…わかった。俺は、君を応援する」
「あいがと、徹」
「任せてくれ。きっといい料理を作ってみせるから」
あんな顔をして請け負ったものの、徹は不安だった。
もしかしたら、いや、だいぶの確率で、次がかまど神にふるまう最後の料理になるかもれないのだ。
(いいのか……? これで)
おそらく、黒糖を使った甘い料理だ。レシピを考案しないといけない。それか、島の誰かに聞きに行くべきだ。しかし徹の腰はいっこうに上がらなかった。
(俺の作ったもので――もし、彼女が苦しんでしまったら)
立ち向かわなくちゃいけん。彼女はそう言っていたが、黒糖の味を思い出すことは、きっと彼女にとって苦痛をもたらすに違いない。そしてもう一つ、一番怖いのは。
(もし、それを食べたら――)
かまど神と自分は、もうお別れとなってしまうのではないだろうか。
彼女に、もう二度と会えない。そう思うと徹は体の内側がずくんと痛むような心地がした。やっと癒えた傷が、また開いたような。そこで徹は気が付いた。
(俺はずいぶん……あの子に、救われていたんだな)
彼女の求める料理を作って、助けてあげている。そう思っていたが、助けられていたのはまぎれもなく自分の方だった。彼女のおかげで、徹はまた料理することができたのだ。自分の誇りを、生きがいを取り戻す事ができたのだ。
(かまど神に料理を作ってあげる事は――俺自身を、助ける事になったんだ)
徹の料理を美味しいと言ってくれた彼女。無邪気で食いしん坊で、とても優しい、小さな神様。
その彼女を、苦しませたくなんかない。
もう二度と会えなくなるなんて、そんなのいやだ。
こころの底から響くその声に、徹は諦めて耳を傾けた。
まるで子どもみたいな願い。いい大人が、みっともない。
(かまど神のほうは、もう覚悟を決めているのに……)
徹のほうは、そうでないのだ。はぁとはきだすため息は、重たくキッチンにわだかまるようだった。
その時。バタバタと家の前でなにやら騒がしい足音がした。きゃっきゃとはしゃぐ子どもの声がする。




